09
「おはよう柾樹」
長年の習慣とは大したもので、朝の挨拶は自然に口からこぼれ落ちた。
柾樹の顔を見ても、特に胸が痛むとか切なくなるといった失恋にありがちな感情は湧いてこなかった。
こんなものなのかな、とも思う。昨日柾樹が訪ねてきた時点で会っていても、案外平気だったのかもしれない。
これなら一人で悲哀に耽っていた土曜日の方が、よほど青春まっただ中の少女らしかった。もしくは一人だったからこそ、思考が現実を離れてよりドラマチックな方向へと突き進んでいってしまったという可能性もある。
ちょっと自分のオトメな思考具合にいたたまれなくなる葉菜だった。
誰かと接するとき葉菜は無意識に、この人とはこういう関係を保っていこうという”枠”をつくる。その”枠”に当てはまる言動を心がける。
例えば母親や父親は、当然ながら”家族”の枠に入っている。
母親にはご飯や洗濯など、身の回りの世話を焼いてもらうことが当たり前になっていて、父親が小遣いをやろうと言ってくれたら頂戴するのに躊躇などしない。この行為を赤の他人にされてしまったら、戸惑いや疑問などで頭がいっぱいになるだろう。
園生が納まっているのは”親友”の枠だ。
”友達”よりも気の置けない関係で、家族に相談できない悩みも”親友”になら打ち明けられる。彼女がいてくれるおかげで、葉菜の生活がより有意義で楽しいものになっているのは間違いない。ただし、”親友”にキスや抱きしめ合うなどの、枠を越えたスキンシップを求めようとは思わない。それは”恋人”の役割だ。
柾樹が属するのは、やはり”幼馴染み”が相応しいだろう。家族とは似て非なる、けれどその存在は親友や恋人よりも近いような遠いような。尤も恋人に関しては、持ったことのない葉菜に判断できる事柄ではないのだけど。
要するに、葉菜は物心ついた時から柾樹を”幼馴染み”の枠に入れており、つい最近になってそこへ意識的に”好きな人”を追加して共存させるも、新参項目はすぐさま無残に砕かれてしまった。とはいえ長年慣れ親しんできた”幼馴染み”の枠は、年季が入っているだけあってかなり丈夫で頑丈な様子で、影響力も強い。
その枠が、柾樹を前にした葉菜の態度や心の動きを軌道修正しているのかもしれない。どんな状況にあったとしても。
葉菜が柾樹に抱いている強い想いは、何も恋愛の情だけではないのである。
柾樹はといえば何を考えているのか、葉菜から受けた痛恨の一撃について恨み言を述べるわけでもなかった。いつも通り「今日の弁当も美味いぞ」と二人分の昼食が入ったランチバッグを掲げてみせる。今週の弁当当番は柾樹だ。
女の葉菜にはどうあっても理解することができないものの、あの場所へのダメージはかなり痛烈だと聞いている。大丈夫だったのだろうか。
とはいえ、謝る気は毛頭ないのだけど。
葉菜は柾樹と並んで通学路を歩きだした。
難関だと思っていた時間を意外とあっさり突破してしまった、月曜日の朝だった。
教室に入って友達に声をかけながら見渡すと、園生はまだ登校していないようだった。ついでにさりげなく目をやると、日向さんもまだのようだった。
代わりに巡君の姿を見つけ、そういえば、と鞄を持ったまま寄っていった。巡君は教室に来るまえに購買へ寄っていたのか、自分の席で新品の消しゴムのフィルムを開封していた。
お互いにおはようのやり取りをして、本題に入る。
「あのさ、幼稚園の時に色水遊びが流行ってたのって覚えてる?」
「また古い話を……」
葉菜を見上げてそんなことを言いながらも、すぐに覚えてるよと返事をしてくれる。
「朝顔とかツユクサとかだっけ?」
「そうそう。石けんとかで色を変えたり」
「あー、あったあった。今思えば、あれって立派な化学の実験だったよな」
巡君が同意のためにうんうん頷いたとき、石けんの香りが漂ってきた。おや、タイムリーな。会話に匂いがついたような錯覚を起こしそうになって、葉菜は思わず微笑んでしまった。
巡君の家は合気道の道場を開いている。師範である祖父によって、巡君は強制的に朝稽古に参加させられている。汗みどろになるまでしごかれるから、彼は登校前にシャワーを浴びているらしい。
武道の心得があって清潔感にも溢れていて、さらに容姿にも恵まれている上に成績も悪くないなんて、一体誰の受けを狙っているんだと葉菜は時々言いがかりを付けたくなる。
ちなみに帰ってからも稽古をつけられているので、だから巡君は明らかな体育会系にも係わらず、運動部に入らないで文化系のダベり部に入っているのだ。
「そうだよねー」
懐かしそうに感想を漏らす巡君に相づちをうつ。
「それでさ、こんな夢を見てね――」
葉菜は土曜日に見た夢の内容を語って聞かせた。
巡君なら、あの後どうなったか続きを覚えているのではないだろうか。柾樹はちゃんと謝ったのか、とか。小さい頃柾樹から理不尽な攻撃を受けていたことを、かつての巡君はどう思っていたのか。
別に過去のことであるし、今の二人の間に何か気まずいこだわりのようなものが横たわっているわけではないのだから、どうでもいいといえばいいのだけど。せっかく思い出したのだから。
葉菜と巡君は、男女の違いに緊張しやすい敏感で微妙なお年頃であるとはいえ、些細な会話を気軽に楽しめない仲ではない。なので昔の出来事を尋ねるのに、これといって遠慮はない。
「お前、マジで覚えてないの?」
巡君は不意打ちを食らったというような、心の底からたまげましたとでも言いたげな顔をした。
「あんだけギャラリーぽかんとさせといて? いたいけな幼い俺に衝撃と心の傷を与えておいて?」
「え……?」
ギャラリー? 心の傷?
聞き取った内容についていけない。
「何それ、どういう――」
問いかけている途中で、まるでこれ以上の質問は許さないとばかりにタイミング良く予鈴が鳴ってしまった。巡君に目で訴えても、寄越してくれるのは若干温度が低く感じられる視線と呆れたような溜息ばかりだった。
「――柾樹さんに訊くか自分で思い出すかしといて、アホらしい。克美サン来るから早く席もどれば」
どうしていきなり冷たくなっちゃったの、巡君。
しかも八つ当たりめいた口調で「これ捨てといて」と消しゴムのフィルムを渡された。
なんとなく逆らってはいけないような気がして、大人しくゴミ箱まで使い走りさせられた葉菜だった。
一時間目の世界史は先生が不在で自習になった。
代理の先生は課題のプリントを配ると、チャイムが鳴る前にまた来るからと言い置いて、出ていってしまった。こうなると、席に座って真面目に取り組む者などほとんどいない。銘々が思い思いの場所へ移動していき、会話に興じながら問題をやっつけだした。
ご多分に漏れず葉菜の所にも、園生がやってくる。ちょうど前の席の主は友達の所に引っ越していったので、彼女はそこへ葉菜の方を向いて座った。
ストラップぬいぐるみの制作進捗状況などを訊きつつ教科書を開いて、時々プリントに書き込む。それから昨夜バラエティ番組に出てきた俳優の批評などをしてから、今がタイミングだろうと気になっていた内容を口にすることにした。
「ねえ園生」
やましい気持ちがあるわけではないけど、話題の中味がクラスメイトのことであるためか、無意識に声を潜めたようになってしまった。
園生も何? と顔を近づけてくる。
「日向さんと仲いいの?」
「日向さん?」
園生が目だけを葉菜のずっと背後に向ける。すぐにその視線は葉菜の方に戻った。
「別に特別仲がいいってわけでもないけど……部活は同じだわね」
「部活って手芸部? 日向さんって手芸部だったの?」
確認を求める葉菜に、園生が頷いて応える。
なるほど、だから柾樹は日向さんのことで園生の名前を出したのか。納得しながらも、葉菜は少し拍子抜けしてしまった。もうちょっと何か秘められた過去的なものが発覚するのかと、身構えていたのだ。
例えば、園生が葉菜の知らないところで日向さんと親しかったのだとしたら――と僅かではあるものの疎外感めいたものも感じていた。邪推だったわけだ。
ふうん、と生返事をすると、園生が首を傾げた。
「日向さんがどうかした?」
葉菜が興味を向けた以上、園生が疑問に思うのも尤もだろう。さて、どう打ち明けたものか。
ここ一週間身の回りに起こったことや、葉菜の心境の変化などを園生に隠すつもりはない。ないのだけど、彼女には柾樹について散々意地を張った言動を晒してきた。今さら正直な心情は吐露しづらいというのが本音だ。
シャーペンを口に当てて言い淀んでいる葉菜の態度から何を察したのか。
「日向さんってさ」
園生が追加情報を喋りだした。
「もの凄く腕がいいの。先月初め、入部したばっかの時に、まずは実力を見るからって今までに作った作品の中から一つ持ってくるよう言われたのね。新入部員全員。で、私も出来がいいの持ってったんだけど……日向さんのはダントツだったよ。技術的には私ともそんなに差はないと思うんだけどね」
複雑そうに言葉を切り、園生は続ける。
「使う布地の柄とか素材とか、あと配置する場所のセンスがかなり磨かれてる人だなーと思った。小物入れのポーチなんて、超基本的なやつだったのに。まあ、かなり手はこんでたけど。とにかく負けたなーって。こっちは結構気合い入れて作った、パーティなんかでも使えるぐらい凝ったかぎ針編みのコサージュだったってのに。どうしても日向さんの方に目がいっちゃうんだよねー。あれお店にあったら絶対買いたいって思ったもん。先輩たちもきゃいきゃい言ってた」
「園生が作るやつだって充分かわいいし売れるよ……」
親友が恋敵でもある日向さんをべた褒めするのが気に食わず、つい口を尖らせて割り込んでしまった葉菜だった。
「あら、ありがと」
園生は上品さを装った仕草で口に手を当て、ホホホとわらった後に、それでさあと続ける。
「技術のある人にはやっぱ色々聞きたいじゃん? だからみんなあれこれ話しかけるんだけど、なーんて言うんだろうねー」
ここで園生が考えを纏めるように天井をむいたので、葉菜は黙って再開されるのを待った。
「会話を発展させないようにするっていうか……話しかけたらちゃんと答えてはくれるのね? 不機嫌そうに返事するってわけでもないし、分かんないとこは訊いたらちゃんと教えてくれるし。でもそれが、そつがないだけっつうか、必要なことだけしか話してくれないっつうか。部活帰りにどっか寄ってこって誘っても、絶対断られちゃうしさあ。最低限の人付き合いはするけど、誰かと仲良くする気はないのかなーって」
ここで園生が身を乗り出し葉菜との距離をさらに近くして、もっと声を小さくする。
「見てみなよ。今だって、席移動してるわけでもないし、誰かと喋ってるわけでもない。一人で黙々プリントやってる」
後方をふり返るフリをしてさりげなく見ると、周囲のざわめきには無関心な様子で、確かに日向さんは一人で机に向かっていた。
顔を戻して、ね? と確認してくる園生に頷き返す。
「自分から話しかけられないとかのけものにされてるとか、苛められてるとかって雰囲気はないよね。孤独を愛してます、みたいな?」
そう言いながら、園生は冗談めかしたようにちょっと笑った。
僅かな接触しかなかったとはいえ、葉菜が知っている日向さんは気が強くて思ったことをはばかることなく口にする人だった。確かに、独りの状況に追いやられているというよりは、自分から望んで周りから遠ざかろうとしているように見える。……美人だし。関係ないけど。
常に誰かといないと学校生活が不安になるから、気の合わない友達でもいないよりはマシ、なんて弱いことは考えない人なんだろう。柾樹も日向さんのそんな凜とした、涼やかな空気に惹かれたんだろうか――などとまたもや葉菜は考えてもどうしようもないことを思ってしまう。
園生がさらに言った。
「中学の時はどうだったんだろ、まさか全然友達いないってことはないだろうけど。ま、ただ単に真面目なだけかもしれないんだけどねー。大体、本来自習時間ってのはああして静かに勉強してるべきなんだし」
まさしくその通りだった。
この話題に飽きたのか、そういえば、と別の内容を話し出す園生とのお喋りに葉菜は夢中になった。よく言われることだけど、女とはどの年代になっても井戸端会議が好きなものだと、葉菜自身も思う。
気がついたら残り時間はあと十分というところまで迫っており、園生と二人で慌てて空白を埋める作業に戻ったのだった。
二時間目は体育で、女子はバスケだった。ちなみに男子はグラウンドで野球をするらしい。
着がえて体育館に集合し、柔軟体操を済ませると、先生の指示で二人一組になる。パス練習だ。好きな相手と組んでいいということなので、葉菜は当然園生と一緒になった。それぞれのペアがちょっと雑ながらも規則的に並び、早い所はもうボールのやり取りを開始している。葉菜たちは、端の方に陣取った。
一時間目にあんな話をしていたせいかもしれない。ふと日向さんの姿を目が勝手に捜した。葉菜たちの斜め後ろの方で、先生と何か話している。「あー、人数奇数になっちゃったかー」と声が届いてきた。
「葉菜ー、始めよー」
日向さんを見ている葉菜に、ボールを持って少し離れた場所にいる園生が呼びかける。少しだけ後ろ髪を引かれそうになりながら園生に向き直ろうとして、やっぱり日向さんの方へ首を巡らせた。
いつもの葉菜だったら細かいことには気づかずに、多分さっさとパス練習を始めていたことだろう。どうせあぶれた人は先生が適当なグループに入れる。
でも、最初から気づいていたら? 別に善意とか気遣いなどの美しい心の機微は関係なく、ただ余っている人がいるのだったらという理由で、普段の葉菜だったらなんの気なしにこっちへ入ればと誘うのではないだろうか。
園生が嫌な顔をしないのは分かっているから、別に了解を取る必要もない。
「日向さん」
葉菜は周囲の喧噪に負けないよう少し声を張り上げて、おいでおいでのジェスチャーをした。
「こっちこっち。三人でやろう」
そんな疑わしそうな顔をしなくても。
あ、じゃあ田畑さんたちの所行って、と背中を押す先生に促され、思いっきり怪訝そうな表情をしながら日向さんが寄ってきた。葉菜にはかなりの暴言を吐いてくれたのだ。意図を計りかね、警戒しているのだろう。それを自縄自縛と言うのだよ、日向さん。
別にこの状況を利用して、日向さんに意趣返ししてやろうという気はない。傍から見たらどうであれ、別に本人はこの状況に困っているわけではないだろう。そこへ手を差し伸べたつもりになって、優越感に浸ってやろうとも思っていない。どのみち、余計な謀を企てても日向さんには返り討ちにされるだけのような気がする。
これは、ただの意地だ。柾樹に関して悔しい思いをしたからといって、知っているのに気付かないフリをするような自分にはなりたくない。
それは、人を排除しようとするのと同じだ。葉菜は若年特有の潔癖さからそう考えた。
万が一柾樹や巡君に知られた時に、こいつはそんな奴だったのかなんて思われて、しどろもどろと言い訳をするようにはなりたくない。
所詮はそんな自分本位な理由でしかないのだけど。
だからまあ、これは葉菜の意地なのだ。