08
「変態、奇人変人、顔だけ男!」
家路を辿る間中ブツクサ呟き続けた葉菜は、足音も荒く家に帰りついた。
「おかえりー」
「ただいま!」
リビングから声をかけてくる母親にぞんざいな調子で返し、顔も合わせずそのままの勢いで二階の部屋へ直行した。階段を駆け上がる最中に「なあに、機嫌の悪い……」と訝しむような声が追いかけてきたけど、無視して乱暴にドアを閉めることで断ち切った。
見慣れた部屋が葉菜を迎える。小学生の頃から使っているベッドと勉強机が置いてあって、丈の低い木製簡易椅子の上には柾樹にゲームセンターで取ってもらったぬいぐるみたちが、カゴにぎっしり納まっている。
鞄を床にたたきつけるように放り投げる。割れたら困ると一応理性が働いていたのか、タンブラーが入った袋は心持ち丁寧に置いた。
「ボケ! アホ! 激ニブ!」
罵倒に合わせてボスボスと罪のないベッドへ拳をくれてやる。
結局葉菜は、物心ついてから今までの間、柾樹の手の平で転がされてきたようなものだった。本気をぶつけてもはぐらかされ、からかわれて終わるような、それだけの関係でしかなかったと。
これほどまでに思い知らされるとは考えもしなかった。
ふと、自分がおかしくなって口元だけで笑った。今まで意地を張って認めないようにしてきた割に、現在の自分はかつてないほど胸の中の気持ちと真っ直ぐ向き合っている。
長い時間をかけて甘やかし、宥めて可愛がって育んできた心の花が、柾樹によって栄養を止められ萎れてしまっている。苦しい、いっそ抜き取ってほしいと、憐れな悲鳴をあげているのかもしれない。
信頼や慕う心、そういった相手がいるからこそ委ねられる純粋な感情を、葉菜は幼い頃から根こそぎ捧げさせられてきた。
「そうじゃない……」
思考を否定するよう、小刻みにかぶりを振る。
自ら捧げるよう、囲い込まれてきたのだ。疑問を抱く必要もないほど自然に、巧に、あのしょうもない幼馴染みによって。
葉菜が情愛を向けた分だけ、柾樹の方からもふんだんに、有り余るほどに、ついでにいうならおつりがくるほどに返されてきた。
一見、二人はそういう関係だった。
実際はどうだ。葉菜と柾樹のベクトルは、いつも見当外れなところを向いていた。真実の意味で、葉菜が望む感情や行動を柾樹から返してもらったことなんて、一度もない。
唇を噛みしめ、ベッドの脇にしゃがんだ葉菜は、もう一度腹立ち紛れに両拳をマットレスに打ちつけた。弾力のある柔らかい感触に包み込まれ、何故だか優しく受け入れられたような気がして情けなくなり、理不尽にも余計に怒りが込み上げてきた。
枕元に置かれてある目覚まし時計――柾樹を連想させるモノを、自分史上最凶に鋭く睨みつける。
葉菜が羨んでいたのは、遊びにいくたび奢られ、行動にいちいち心配を伴った管理を加えられるような、一方的に世話を焼いてもらう立場ではなかった。
ずっと手に入れたかったのは、接した時間や距離を飛び越え、お互いの心を一瞬で強烈に刻みつけ合う――そんな。
あの二人がいつどこで出会ったのか、葉菜は知らない。柾樹の口から名前を聴いたことなんて、一度もなかった。
柾樹は周囲の女子たちからよく恋愛感情を向けられる。中には積極的すぎる人もいて、近しい位置にいる葉菜は何度も責められ、問い詰められてきた。
いつも行動を共にすることで。
この上なく気にかけているのだと公にすることで、周囲や葉菜自身にさえ微かな勘違いを植えつけた。そうして特別な部分をひっそりと覆い隠し、付き合っている、身体目当てだと称する彼女たちを恋の悪意から守ってきたのだろう、これまでの柾樹は。
今はついに見つけた、思い出すだけであんな柔らかい表情を浮かべさせる彼女を――――なんて葉菜にとって残酷な方法で!
衝動的に目覚まし時計を掴もうと腕を伸ばし、でもその動きは葉菜自身の意志で止められてしまった。
心の片隅では、ちゃんと柾樹に事実を確認した方がいいと冷静な声が訴えていた。長い付き合いの柾樹を信用せず、日向さんの話を鵜呑みにするとは何事かと。
でも、葉菜の中には重くて巨大な車輪があって。この何日間かで日向さんにぶつけられた言葉や態度、裏付けるような柾樹の行動や物言い、それから葉菜に巣くう嫉妬心が、二人を悪く思わせる方向にとんでもない力を加えている。逆方向に回したくても、加速がついてしまった勢いは手がつけられない。
「バカ!」
ベッドに突っ伏してタオルケットを握り締め、葉菜はくぐもった怒鳴り声を上げた。
「バカ!」
柾樹も、日向さんも。
「バカ!」
幼馴染みに自ら喜んで利用されているような自分の立ち位置も。
そして。
「――日向さんに、なりたい」
傷つけられて、途切れそうになる声を出しながらもそう願ってしまう葉菜こそが。
「一番、大馬鹿だ……」
窓から入ってくる午後の日射しが部屋の空気と葉菜の胸の温度を上げていく。
そのままの姿勢で葉菜は、思う存分泣くことにした。
「葉菜ー、これあげるー」
くりくりした大きな目に、ふっくらと柔らかそうな頬。園のスモックを着た巡君がはちきれんばかりの笑顔を湛え、手に持っている物を差し出してくる。
「うわぁ」
葉菜は目を輝かせた。巡君が提げているビニール袋の中で、赤紫の透明な水がお日様を透かしてキラキラ光っている。地面に目を向けると、出来た影も水の色を映しだしていてさらに楽しい。
葉菜のクラス、りす組さんでは今、袋の中に朝顔と水を入れて、すり潰して色水を作るのがちょっとしたブームになっている。少し前に、先生がやって見せてくれたものだ。そこに石けんを塗りたくった手を突っ込んで、色を変えて楽しむのだ。
巡君は運動が得意で先生の質問にもハキハキ答えることができて、りす組の中でも人気者な男の子だ。その巡君が葉菜のために作ってくれたらしい。
幼いクラスメイトは、葉菜の喜んだ表情を見て得意そうな顔をしている。
「ありがとう、巡君」
葉菜はちょっとどきどきしてはにかみながら、ビニール袋に手を伸ばした。巡君と一緒に、手洗い場の石けんの所まで行こう。きっと一人でするよりずっと楽しい、そう考えながら。
バチンと弾くような音と共に巡君の手からビニール袋が離れていき、綺麗な色水が葉菜の目の前で地面に飛び散っていった。買ってもらったばかりの運動靴に飛沫がかかった様子を確認しながら、束の間葉菜は何が起こったのか分からず呆然とした。
「う……」
一拍遅れて聞こえてきた呻き声の方に目を移す。片方の手をもう片方の手で押さえた巡君の顔が、みるみる歪んでいく。下がった目尻に零れそうな涙を一杯に溜めて、大きく口を開けたと思ったら――巡君はとうとう泣き出してしまった。
葉菜は視線をずらし、利き手を振りかぶって巡君のそばに立っているきりん組の男の子、年上の幼馴染みを攻撃的に睨んだ。
「柾樹のバカ!」
さらにもっと何か言ってやりたかったけど、感情が高ぶり、それしか言葉が出なかったので、口を引き結んで睨み続けた。
せっかく巡君が作ってくれたのに。
一緒に色を変えようと思っていたのに。
柾樹はといえばばつが悪そうなさまなど欠片も見せず、ご機嫌斜めだとの雰囲気を全身から醸しだし、葉菜を見返したままむっつりと黙り込んでいる。
茶色がかった大きな目、スッとした気の強そうな眉、一年違うだけなのに、頬は巡君よりも大分すっきりしている。
よく大人から外国人の子と間違われる柾樹は頼もしくてかっこよくて、いつも遊んでくれる自慢の幼馴染みだった。今日も幼稚園が終わったら、近所の公園にいって夕方まで遊ぼうと約束している。
葉菜が巡君と遊んでいるのを見つけると、柾樹はあからさまに邪魔をしにくる。葉菜には優しいのに、どうして巡君には意地悪をするのか。
両手で顔を覆って泣きじゃくっている巡君に意識を戻すとなんだか悲しくなってきて、葉菜はますます目を険しくして思ったままの言葉をぶつけた。
「イジワル!」
「そんなの貰うのが!」
ずっと黙っていた柾樹が、我慢の限界だというように反論する。
「バカは葉菜の方!」
なんで葉菜が罵倒されなきゃならないんだ。柾樹が何を言いたいのかが分からず、それでも投げ返されたバカという言葉にショックを受けてぽかんと口を開けていると、「どうしたのー?」と先生がやってきた。
泣き続けていた巡君が、「柾樹くんが……」とひくひく声で訴える。
「葉菜、こっち」
突然手を取られ、葉菜は柾樹に引っ張られた。
「どこ行くの?」
園舎に向かって走り出す柾樹につられて葉菜も足を速める。
「ちゃんと巡君にごめんなさいして!」
柾樹は向けられたお小言に構わず葉菜の手を握り締めたまま、走り続けた。
泣き疲れて眠っていたようだった。
突っ伏していた顔を上げると部屋の中は暗くなっており、窓の外は日が沈みたてなのか、青に闇を混ぜたような色の大気が景色を包んでいた。
――夢……? 懐かしい、そういえばあんなこともあったんだ。あの後どうしたんだっけ?
「葉菜ーごはんー!」
下の階から痺れを切らしたような声で呼ばれる。多分、何度か繰り返されたんだろう。どうやら葉菜はこの声で起こされたらしい。
「分かったー!」
慌てて大きく返事をする。泣いてそのまま眠ったせいでいささか頭が重く、まぶたが腫れぼったい。夕食の席に着く前に、一度顔を洗ってさっぱりしておいた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら立ち上がり、葉菜は部屋のドアを開けた。今までの暗さと落差のある灯りの眩しさに、瞬間目を細める。
一歩足を踏みだしかけて、身体が固まった。
また……? この部屋のドアは、一体どうしてしまったんだろう。
でも。でも今度のは……
驚愕。
葉菜は息を飲み、ただ目の前の光景を見つめた。
週始めの部活で、雪乃さんとわいわい話し合っていた内容を思い出す。
「これが……正しい異世界……」
敷居を隔てた向こう側では、またもや見慣れた狭い廊下の壁が姿を消していた。
映像媒体でしかお目にかかったことがないような、西洋貴族の居室を連想させる優雅で豪華な部屋が目の前にあった。
硝子――もしくはクリスタルで出来たようなシャンデリアは触れただけで折れてしまいそうに繊細で、不思議な光の玉を数一杯湛え、広い室内を照らし出している。手間のかかりそうな浮き彫りが施された家具がそこここに配置され、面積の広い鮮やかな模様の絨毯が床中を覆っている。落ち着いたカーテンの色、それから華美な置物が飾られていないところからすると、男の人の部屋なのかもしれない。こちらと同じ刻限なのか、窓の外は暗かった。
部屋の中央寄りに広くて居心地がよさそうなソファが据えつけられており、葉菜の気分は高揚してきた。
「完璧、じゃん……」
そこには笑ってしまうほど、現実とはかけ離れた世界が広がっていた。あそこに座って待っていれば、王子様がやってくるのだろうか。
「いっそ」
葉菜は口の中だけで呟いた。いっそのこと、そのまま入っていってこのドアを閉めてしまおうか。神隠しに遭ってしまおうか。
そうしたら、冒険の始まりだ。姿形も中味までもが麗しい王子様に保護してもらって、帰れないのだと泣きついて、やがて二人の間には祝福されるべき美しい感情が芽生えるのかもしれない。お定まりの嫌がらせなんかも受けるのだろう。降りかかる苦難をめげずに乗り越えて、ついに二人は――
考えつくまま色々と妄想を巡らせて、なんだか恥ずかしくなって葉菜は一人で赤面してしまった。
ちょっと、ないよなぁ……と苦笑する。
金髪碧眼の王子様も、煌びやかな世界も、剣や魔法の冒険譚も、きっと葉菜には物足りない。
どれほどの神秘や不思議や魅力的な数々も――柾樹には、敵わない。柾樹のいない世界に用はない。
葉菜の王子様は、今も昔も柾樹一人だった。例え、柾樹にとってのお姫様が葉菜でないとしても。
「あーあ」
惜しい。ほんとうに惜しい。もったいない。
それでも葉菜は踏ん切りをつけるために短い声を出し、溜息を吐いてからドアに手をかけた。閉めている途中、向こう側の扉が開いて誰かが入ってきたようだったけど、はっきり確認する前に葉菜自身の手によって異世界は遮断されてしまった。
「あーあ」
もう一度声を出して再びドアを開けると、そこにはいつもの廊下が見えるばかりだった。
「葉菜!」
「はい!」
いつまで経っても降りてこない娘に業を煮やしたんだろう。母親の怒鳴り声に背筋を伸ばされ、元気よく返事をしてしまった葉菜は急いで階段を降りていった。
翌、日曜日の朝。九時頃に柾樹が葉菜の家に来た。
母親が知らせにきたものの、葉菜はまだ眠たいからと言い訳して部屋から出ようとはしなかった。
実際こういったことは今までにもよくあり、特に約束していなくてもお互い暇なときには気を使うことなく訪れていた。そこでどちらかに予定があれば、残念だとおとなしく引っ込むし、そうでなければそのままダラダラ過ごしたり、遊びにいったりした。
いつ頃からか柾樹は、母親や葉菜の許可がなければ無遠慮に部屋へ押しかけるようなことをしなくなった。葉菜としても、寝ている最中に踏み込まれたくはない。尤も、葉菜の方は柾樹が寝ていようと着がえていようと気にしないので、いつでもずかずか入っていくのだけど。
でも一応、最近はノックをするようになった。
ベッドの上でタオルケットを頭から被り、冴えた思考の中で葉菜は目を瞑っていた。
こんな態度はよくないと分かっている。小学生や中学生でもあるまいし、気まずいからといって今まで仲良くしていた相手と顔も合わせないなんて。
今日だけ。
明日からはいつも通りにしてみせるから、今日だけは放っといて。
父は趣味の散歩にでかけているらしい。下の部屋からは時折、話に花を咲かせている柾樹と母親の楽しそうな声が届いてくる。タンブラーは昨日渡しておいた。母は、お礼でも言っているのかもしれない。
しばらくすると、それも聞こえなくなった。




