06
「田畑さん」
柾樹と別れ、玄関の靴箱で上履きに履き替えている最中に葉菜は呼び止められた。
なんだろう? 俯けていた顔を上げると、そこには見知らぬ女生徒が「ハイ」という感じで片手を上げ、親しげな様子で立っていた。
……いや、見覚えがある。今朝、柾樹に挨拶していた女子だ。葉菜はさりげなく相手の胸元を確認した。
小さな金属バッジのクラス章には1-1と表記されてある。やっぱり同じ一年生だったのか。ちなみに葉菜のクラスは1-3だ。体育や選択授業は隣り合った二クラスが合同で受ける。だから一組の人とはあまり面識がなくても仕方ないだろう。
でも、だったら。
「私の名前、なんで……?」
葉菜は石床に敷かれたスノコにつま先をトントンと打ちつけながら問いかけた。目の前の子が腕を下ろし、後ろで組む。「なんでって」と、逆に不思議そうな顔で言い返された。
「田畑さんって結構有名人なんだけど。いっつも柾樹先輩と一緒にいる」
またか。
葉菜は項垂れたくなった。中学でも望むと望まないとに関わらず、強制的に顔を売らされたのだ。人の都合を顧みない幼馴染みのおかげで。――まだ入学して一ヶ月ちょっとなのに。
俊足の情報伝達速度と、その元となる柾樹という話題性に感心すら覚えてしまう葉菜だった。
そしてこういう場合、問われる内容は大体決まっている。
相手の出方を見るために、葉菜はわざと黙っていた。
「いきなりごめんね」
女生徒は気にする素振りもなく話を続ける。
「思い切って訊くんだけど、柾樹先輩と付き合ってる?」
今回の子は大丈夫そうだ。葉菜は少し気を緩めた。
今までに、数え切れないほどこの質問を繰り返されてきた。中にはいきなり大勢で取り囲み、やけに威圧的な態度で詰問してくる人もいた。こちらが何が何だか分からない内から、いきなり別れろと食ってかかられたこともあった。
別れろも何も、葉菜は付き合ってなどいないのだ。とんでもない言い掛かりだ。いい迷惑だ。
だからこういう時、葉菜は自分の身の安全を優先する。
「よく誤解されるんだけど、私、柾樹と付き合ってないから」
包み隠さず正直に、訊かれていないことまで全て話すことにしていた。
「アレとはただの幼馴染み。柾樹の好みは年上で、私は範疇外。だから安心して。ただね、最近まで付き合ってたのは女子大生だし、今までで例外はなかったから年下のあなたは望み薄かも」
事実だけを告げても反発される恐れがあるので、付加情報も加える。
「でも、今は誰とも付き合ってないみたい。あなたがそれをチャンスとして柾樹に近付くなら、それを止めるつもりもないし勧めるつもりもない」
ただし、と葉菜は少し語気を強めた。葉菜の言葉に真剣に聞き入っていた女生徒が、身を前に乗り出す。
「私に協力してとか言うのは勘弁して。無理だから」
右手を前に出してストップとジェスチャーすると、相手は肩すかしを食らったような顔をした後、微妙に視線をずらした。
図星だったな?
葉菜を通して柾樹と親しくなろうとする人は多い。いちいち相手にしているとキリがないのだ。
女生徒が葉菜に向き直る。晴れやかな笑顔になった後、大袈裟に息を吐く。飄々として見えて、実は結構緊張していたらしい。
恋する女の子の仕草だ。柾樹関連では、もう何度か目にしてきた。こうやって葉菜に確かめてくる子は、見目に自信がありそうな場合が多い。この子も綺麗に髪を巻き、おしゃれオーラを出している。それでも葉菜にこの質問をするのに、どれほど勇気を振り絞ったのだろう?
その行為をとてもかわいく眩しいと思う反面、葉菜の胸の奥底はざわざわ波立っていた。
一組の女子は「ありがとう」と元気にお礼を言い、弾むような足取りで去っていった。そういえば、名前を聞いていない。
後ろ姿を見送りながら、どうせこの子も振られるんだろうなと思った。そうして葉菜の胸は凪状態を取り戻すのだ。
人の不幸に安堵するなんて、我ながら最低だと感じる。
「私、ヤなやつ……」
上履きのつま先に向かってぼそりと呟く。結果が怖くて逃げ回っている葉菜よりも、今まで質問してきた子たちの方が余程誠実で清々しい。
チャイムの音を聞くまで葉菜は、しばらく立ち尽くしていた。
宣言していた通り、あの日以来柾樹は葉菜と別々に帰っていた。何をしているのか気にはなる。でも気にしていないという姿勢を崩せないまま日は流れ、金曜日になった。
嫌な小テストがある日だ。また日向さんの机に座らなければならない上に、今朝の科目は化学である。あまり得意でない、はっきり言ってしまえば苦手な、もっと遠慮なく言ってしまえば大嫌いな化学だ。
しかも外では雨が降っている。重なる憂鬱に葉菜は打ちのめされそうになった。
とはいえ落ち込んでばかりもいられない。周期表の穴埋め問題というのは事前に分かっているのだ。ほとんど中学時代の復習のようなものなのだから、これは出来なくてはならないだろう。
登校してからは、園生と「水平リーベ」の呪文を繰り返し唱えて最後の悪あがきをしていた。
予鈴が鳴って席を移動する。今日は日向さんも遅刻していないようだった。鞄の掛かっている最後尾の席に腰掛ける。まだ先生は来ていない。
ペンケースを置いてから、やっぱり何か書かれているんだろうかと、葉菜は恐る恐る机の表面に目を向けた。
あった。
真ん中より左下の方に、小さくて右上がりの文字が並んでいる。読んだらまた傷つきそうだ。でも、確かめないと落ち着かない。テストにも集中できそうにない。
葉菜は半ばヤケクソな気分で文字の羅列に目を凝らした。カナヅチが水泳の試験を受ける時はこんな気持ちになるんじゃないだろうか。
『話がある。放課後残って』
今度は名指しではなかった。顔は上げずに、目線だけを日向さんへと滑らす。離れた席の斜め後ろから見た横顔には、こちらを気にしている様子は見て取れない。それでも、これは確実に葉菜へと向けられたメッセージだ。
少し怖じる気持ちはある、でも丁度いい。これで葉菜が嫌われている理由もはっきりする。向こうから話を聞かせてくれるというのなら、拝聴しようではないか。
『分かった』
日向さんが書いた伝言の下に、葉菜も返事を書く。そこで先生が入ってきた。
とりあえずこの一件は置いておいて、葉菜はテストに集中することにした。
テストはそこそこできていたと思う。園生と朝、復習していた箇所がうまいこと出題されていたのだ。
いつも通り授業を受け、いつも通り柾樹とお昼を食べて、放課後になった。
ちなみに今日のメニューは、おむすび、ひじきの煮物、ゴボウのきんぴら、野沢菜の漬け物という和食にしてみた。おむすびの具は定番の鮭、昆布、梅の三種類だ。
「やっぱ日本人は和食だよな」とどこぞのお父さんのようなことをいう柾樹にはウけていたようだった。その柾樹に、今日の部活は遅れると伝えておいた。
そして今、葉菜は時計の音がカチコチ響く教室で、一人孤独に座っている。窓という窓は開け放っているものの、扉は閉めている。そのせいなのか、風は入ってこない。代わりに運動部のかけ声と鳥のさえずりが、見えないスイッチを絞ったような音量で届いてくる。
暇潰しに自分の席で、今朝駅から取ってきたフリーペーパーをめくっていた。明日柾樹と遊びに行く約束をしていて、どこかで何かイベントをやってないかなと探した。
日向さんは日直だったらしい。「すぐに帰ってくるから」と言い置いて、日誌を届けるため先生を捜しにいってしまった。
それから葉菜は、かれこれ三十分は待たされている。フリーペーパーは四巡目に入っていて、葉菜の頭には必要な情報がすっかり叩き込まれている。地域の公民館で高齢者向けに漫談スタイルの講話会が開催されるという、余計な知識まで仕入れてしまった。こういう時に授業の復習でもしていればいいようなものだけど、そんな考えは葉菜の頭に欠片も存在しない。
いい加減見飽きてしまったフリーペーパーをパタンと閉じる。黒板上の時計を見た。四時四十五分。
「遅い」
少し大きめの声で呟く。まさかこれは嫌がらせの一種で、日向さんは既に帰ってしまったのだろうか?
不安になってきた。葉菜は日向さんに嫌われている。可能性は充分あり得る。
もう部室へ向かおうか。
「ごめん、田畑さん!」
葉菜が鞄に手を伸ばそうかどうしようかと逡巡していると、見計らっていたかのように扉が開いた。スライドドアが枠に打ちつけられる大きな音と、けたたましい声と共に日向さんが入ってくる。ぜいぜいと肩で息をしている。
「先生が、中々、見つから、なくって……」
忙しない呼吸の合間、切れ切れに吐き零している。わざと待たせていたわけではないらしいと分かり、葉菜は少し安堵した。
「ううん、雑誌見てたからいいよ」
フリーペーパーを片手で掲げながら許してやる。苛ついていたことを伝えないのは、まあ礼儀というやつだ。嫌われている相手に、少しでも心象を良くしようという計算も働いていたかもしれない。
「ほんとにごめんね」
日向さんが息を整えながら、木製の床を葉菜の傍まで歩いてくる。顔の前で手刀を作り、申し訳なさそうな様子で謝ってくる姿を見て、意外に思った。机の落書きで遠慮無く葉菜を嫌いとのたまい、放課後残るように通告した事実からイメージしていた人物像とは外れていたからだ。
もうちょっと敵意を剥き出しにした、居丈高な態度を取られると思っていた。
「じゃ、話をしようか」
日向さんが隣の席の椅子を引き、横向きに腰掛ける。葉菜は身体だけを捻ってそちらの方を向いた。
何を言われるのか。若干顔を強張らせている葉菜と違って、日向さんの表情には余裕が感じられる。
ショートカットの髪に勝ち気そうな顔立ちで、睫毛がとても長い。特に手を加えなくても美人と言われるんだろうな。視線を上にずらすと、前髪をとめているピンが目に入る。古布というのだろうか、椿を模した飾りがワンポイントに付いていた。朱色と白の対比が鮮やかで、思わず目がいく。葉菜たちがよく行く店にあるようなキラキラした髪留めよりも、大人っぽくて日向さんの雰囲気に合っていた。
授業の時はしてなかったと思う。校則違反になるのが嫌で、放課後になってから小物でおめかしする子は結構いる。日向さんも、先生に日誌を渡してから身につけたんだろう。
そんな時間があるんだったらさっさとこっちへ来てくれたらいいのに、とは考えないようにした。
葉菜がじっと見つめていると、相対するクラスメイトの表情がふっと弛緩した。
「やだな、田畑さん。そんなに緊張しなくたって取って食いやしないよ」
可笑しそうに笑われてしまった。
一体誰のせいで身を引き締めていると思っているのか。
「話って?」
見抜かれてしまった悔しさと、僅かな恥ずかしさのせいでぶっきらぼうな声が出てしまった。笑いを顔に残し、椅子の背もたれに頬杖を突いた日向さんが口を開く。
「田畑さん、柾樹くんと帰ってたよね」
「また柾樹?」
眉根を寄せ、葉菜は思わず呟いた。同時に『柾樹くん』とは随分親しげな言い方だと思った。上級生を呼ぶにしては砕けている。
「また?」
日向さんが意外そうな顔をする。その後「ああ」と納得したように頷いて、また元の表情に戻った。それにしても、この余裕は何なんだろう?
「柾樹くんって人気あるものね。皆言ってる。冴えない田畑さんが、幼馴染みの権利を振りまいて他の女子を近付けないようにしてるって」
冴えない、という部分に毒の付いたナイフで一突きされたようなダメージを受けた。何度も投げつけられた言葉なので聞き慣れてはいるものの、この毒は時間が経ってもふとした折りに心を苛む。
しかしとんでもない勘違いだけは訂正しておかなければ、と葉菜は拳を握り締めて耐えた。巻き込まれたフリーペーパーがくしゃりと乾いた音を立てる。
「そういう文句なら柾樹に言えば?」
葉菜は低い声で反論した。日向さんが面白がるように顔の角度を変える。
「へえ?」
「私から柾樹に会いに行ったことなんて殆どないし、朝も昼も帰りも一緒にって言ってくるのは柾樹の方なんだけど」
ああもう、こうして何度嫌な思いをしてきたか。
声にうんざり感を乗せて葉菜は言い放った。
「幼馴染みの権利を振りまくって何それ。他の子たちを近付けないなんてしたことないんだけど?」
幾度となく被ってきた災難を柾樹に伝えたことはない。でもこういう時は、原因である幼馴染みの襟元を締め上げたくなってくる。
「それって余裕!」
日向さんが大袈裟に仰け反り、足を組んだ。
「自分はそうじゃないけど、柾樹くんには好かれてるって言ってるんだ」
「そういうことじゃ――」
「その割には、お昼ご飯食べる時に学食行かないよね。教室でもない。学食とかだったらさ、他の子たちだってお昼食べにきましたって体裁見繕って話しかけられるじゃない? 同じテーブルに座ることだってできるし。あんな風に外で食べられたら、声かけづらいよ。部室なんて部外者は入りにくいし――っていっても旧校舎に近寄る人自体あんまいないか。ねえ、お弁当の時ってどっちが場所決めてるの?」
うっ、と葉菜は詰まった。場所を決めたのは葉菜だ。でも、それは周りからやいやい言われるのが嫌だったから……
そこで思い当たる。確かに、他の子を遠ざけている事実に変わりはない。
どう伝えればいいのか。あちこちへ視線を飛ばして二の句が告げないでいると、「やっぱりね」という声が溜息と共に届いた。
違う、と反論したい。けれど結果だけを示されるとそう言い切れない。上手く説明する自信もなかった。
「でもね、私は知ってる」
ぽつりと落とされた言葉が耳朶を打ち、葉菜は日向さんへと目線を戻した。椅子の背もたれに突いていた肘は降ろされ、逆の腕が机に置かれている。
「田畑さんはここ何日か、柾樹くんと帰りは別々。それに二人は付き合ったこともない。いつも一緒にいるだけ」
日向さんの眉尻が、何故か同情を窺わせるように下がる。
「でも、それだけで田畑さんは周りからやっかまれてる。地味なくせにとか陰口を叩かれたりして」
あ、別に私が言ったわけじゃないし、私はそんなこと思ってないよと日向さんが煙を払うように手を振る。神経が麻痺したような気分の中、葉菜は言葉もなくその様子を見ていた。石礫のような単語一つ一つを、防御できない心で受け止めながら。
「可哀想にね、田畑さん。要するに、カムフラージュなんだよ」
「何言って……」
我ながら弱々しいと感じる声が、途中で切れる。これでは日向さんへと届く前に、間の空気に吸い込まれてしまうのではないか。
日向さんが、哀れみの表情の中に勝ち誇ったような色を浮かべる。それを見て、この人は確かに自分を嫌っていると葉菜は実感した。
二人しかいない教室に、日向さんの声が渦巻く。
「今、柾樹くんと一緒に帰ってるのは私」