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葉菜の異世界  作者: せおりめ
本編
5/26

05

 テストの時は、出席番号順に座る。

 葉菜の母によると、昔はその番号も男子の何番、女子の何番という風に分かれていたらしい。今は男女混合だ。

 葉菜の座る場所は窓際から三列目で、一番後ろの席である。昨日の放課後まで座っていた席なので、まだまだ馴染み深い。それでも自分の椅子と机ではないから、着席すると微妙に違和感はあった。ここは確かに自分のためのスペースではないと実感する。席替えの時には、机と椅子ごと移動するのだ。

 五月も後半に入り、天気のいい日中は少し暑い。教室の窓や扉は開け放たれ、時折緩い風が緑の匂いを運び込んでくる。こんなに爽やかな日和にテストを受けているなんて、人生を損しているような気分になる。とはいえ、雨や曇りなら余計に憂鬱になるんだからやっぱり嫌なのだけど。要するに、テスト自体が気にくわない葉菜だった。


「おはようございます」


 しゃきしゃきと挨拶をしながら先生が入ってくる。葉菜のクラスの担任は、教師生活うん十年、動作も機敏なおじいちゃん先生だ。

 頼れる安心感があるので皆から克美サンと呼ばれ、慕われている。クラス委員の号令で起立してから先生に挨拶し、また座る。克美サンが前の席に次々とテストのプリントを配っていき、それが後ろの席へと順番に回されていく。

 葉菜も受け取ってから机の上に、裏向けの状態で伏せた。号令があるまでまだ見てはいけない。

 号令を待つ間、テスト用紙の裏面を眺めていた葉菜は、机の上に何かの文字が書かれていることに気付いた。プリントの上部から『らい』という文字が覗いている。――落書き?

 よくあるタイプの学校机だ。天板の色は少し濃いベージュで、シャーペンで書かれた文字はハッキリ見える。それでも極小さな文字なので、椅子に座るくらい近付かないと発見は難しそうだ。

 机ってつるつるしているから、消しゴムをかけると汚れが広がって消しにくいんだよなあ。

 自分で消すわけでもないのに厄介事を抱えたような心境にはまり込みながら、なんと書かれているかを確かめるためにずらそうと、プリントに手を置く。


「おはようございます!」


 突然、焦った声が聞こえてきて扉の方を見る。


「すいません、遅れました」


 慌てた様子で女子が駆け込んでくるところだった。


「ちょうど今から始まるところです。早く席に着きなさい」という先生の声に、よかった、間に合ったという安堵感が伝わってくる「はい」という返事をして、その遅刻女子は皆の注目を一身に浴びながら席に座った。扉側から二列目の真ん中。確か、日向さんだったっけ? 葉菜がまだほとんど話したことのないクラスメイトで、下の名前は知らない。


「プリントは全員行き渡りましたか?」


 先生が確認を取ってくる。葉菜を含めた最後尾の席全員が応えるように手を挙げると、「では始めてください」と先生が号令をかけた。

 一斉にプリントをめくる音がする。テスト時間は十五分。漢字、慣用句、文章問題からなる全5問。幸い、全ての問題をなんとか埋めることができた葉菜はほっと息を吐いた。とりあえず、平均以上は取れそうだ。

 顔を上げ、黒板の上の時計を見る。残り時間は後三分、ギリギリだった。

 そこでふと、落書きのことを思い出した。ついつい確かめることを忘れてしまっていた。無意識にカチカチと出していたシャーペンの芯を机に押し付けて引っ込め、よく見えるようにプリントをずらす。僅かに顔を近付けて、葉菜は改めて落書きを確認した。


 なになに? 『田畑葉菜――』

 あれ? 眉をひそめる。何故か、葉菜の名前がまず飛び込んできた。冷蔵庫を開けると百科事典が並んでいたというような、予想外なものを目にしてしまった時に浮かび上がってくる戸惑いが、葉菜の頭を占める。

 意味があるはずもないのに、思わずここはもう私の席じゃないよねと、俯いていた顔を上げて教室を見渡す。克美サンと目が合ってしまい、慌てて机に視線を戻した。カンニングじゃありません先生。心の中で言い訳して、葉菜は再び落書きに目をやった。


『田畑葉菜 あんたのことが大きらい』


 少し角張ったくせ字で、でも読みやすい斜め上がりになった横向きの一文だった。小さいはずの文字が、やけに威圧感を持って大きく見え、容赦なく目に襲いかかってくる。

 何度も何度もその短い文章を最初から最後までなぞり、そこから読み取れる意味が変化しないことを理解したところで、黒板上のスピーカーからチャイムが鳴り響いた。普段はHRの、火曜と金曜は小テストの終了を告げる、無機質で容赦のない機械音。その音に、落書きに集中していた葉菜の全身がビクリと揺れた。

 テストは後ろの席から順番に前へと手渡される。もう何度もそうしてきたように、葉菜は前席のクラスメートにプリントを渡し、ペンケースにシャーペンと消しゴムを入れて席を立った。

 離れる前にもう一度机の上を見る。距離が開いて、何が書かれているかはもう判読できない。それでも葉菜の目には烙印を押し当てられたように、一つ一つの文字が焼きついてしまっている。


 ここは誰の席なんだろう?

 昨日席替えしたばかりで、今はまだ翌日の朝だ。仲のいい友だちが座っているならともかく、ましてや席替えがあったことすら忘れていた葉菜に分かるわけがない。しかも側面の鞄掛けには何の荷物もぶら下がっておらず、持ち物から特定することもできそうになかった。さすがに机の中を覗くような、礼儀知らずな真似はしない方がいいだろう。

 葉菜は一度、ゆっくり瞬きをした。その動作を、もう少しこの場に留まるための理由にして。

 誰かが葉菜を拒絶している。

 引き剥がす思いで机から目を逸らす。胸の中に炭を放り込まれて、手当たり次第に擦りつけられたような暗い気分に陥りながら、葉菜は自分の席へと戻っていった。




「おっ、美味そう」


 弁当箱の中にはクラブハウスサンドがさあ食べろと自己主張している。前日の内に焼いておいた鶏肉を軽く炙り、薄焼き卵と茹でたアスパラ、レタス、トマト、こんがり焼いたベーコンをトーストした三枚の食パンで挟み、ピックを刺して留めている。ボリュームがあって、一つでも大分お腹いっぱいになるお得メニューだ。水筒の中身はコーヒーにした。

 グラウンドの周りには緑が生い茂っている結構広いスペースがある。常緑樹が等間隔で植えられ、秋にはコスモスが見頃となるこの場所は、昼休みになると弁当を持った生徒がポツリポツリと見受けられた。

 葉菜と柾樹も昼飯時にはここをよく利用する。柾樹は別にどちらかの教室でも学食でもいいじゃないかと言うのだけど、葉菜としては冗談ではない。


 初めて一緒に食べた日は学食だった。

 中学の時にはなかった学食という未知の領域に入り、葉菜は興奮でワクワクしながら長テーブルの一角に陣取った。考えてみればその時からやけに周囲から見られているような気はしたものの、学食の観察に忙しくて意識している暇はなかったのだ。今思い返すと、遊園地に連れてきてもらった子供じゃあるまいしとその時の自分を諫めたくなる。

 柾樹作のお弁当は見た目も綺麗で美味しかった。どんなメニューだったかは覚えていない。でも櫛形の卵焼きを二つに切って構成したハート型はまず崩しておかなければと思い、真っ先にその片割れに箸を突き刺したことだけは記憶に留めている。愛情が込められているから美味いだろうとしつこく訊いてくる柾樹に、適当に相づちを打ちながら食べていた。まあ、実際に美味しかったのだけど。

 すると、柾樹に二人連れの男子生徒が話しかけてきた。


「よ、柾樹。タマが寂しがってんじゃねえ?」

「アイツとは深い所で結びついてるからダイジョーブ」


 この頃はまだタマさんのことを知らなかった葉菜は、一体どういう人なんだろうと憶測しようとした。『タマ』という名前だけじゃ、男子なのか女子なのか、はたまた人間なのかすらも分からない。『深い所で結びついてる』という言葉に心の一部分に見逃しそうなほど小さな波が生まれ、すぐさま気のせいという役割を持った衝立で防いで黙殺した。

 男子三人の歓談は続いている。


「お前らキモい。ところで誰、この子?」

「俺の彼女」

「違う!」


 ここは否定しておかなければと、思わず葉菜は恐らくは先輩であろう人たちの会話に楔を打ってしまった。まずかったかなと若干後悔しながら、慌ててお箸を持った手を口に当てる。


「ぶっはは」


 一人が、これは愉快といわんばかりに噴き出した。


「振られてやんの、ザマアねーな」

「柾樹の顔に騙されないって見所あるなあ。新入生? 彼氏いる? なんなら俺なんてどう? 君一筋だよ」


 軽い反応にホッとしたものの、この冗談には一年生の身としてどう答えたものか。


「ざけんな」


 葉菜が若干躊躇っていると、柾樹が鋭く遮った。


「俺の幼馴染みだからな、手ぇ出すなよ。お前らには名前も教えてやんねー。さっさとどっかでメシ食ってこい!」


 柾樹に蹴りつけられて追い払われながら、葉菜に向かってバイバイと手を振り、二人組は別の空いている席へ向かっていった。

 その後も何人かに話しかけられた。特に女子の先輩からは、はしゃぎながらもさぐるような目でまじまじと見つめられ、ここに存在すること自体が申し訳ないような、大変居心地の悪い思いをさせられた。去り際に、「彼女じゃないよね」「まさか。ないでしょ」という類の言葉を聞こえよがしに投げつけてくる人もいた。明らかに、嘲笑の意味を含む声音で。


 そんな経緯もあり、一度ですっかり懲りてしまった葉菜は、天気のいい日は広い屋外で、雨の日は部室でという風に、なるべく話しかけられにくい場所で昼食を取るようにしている。どういう心理が働くのか、屋外のように開けた所では人があまり近寄ってこない。さらにいえば部室のある旧校舎には、立ち寄る人自体が少ない。

 ただし部室の場合、新校舎から少し距離があるのが難点だった。

 日射しは強くても、葉菜たちのいる木陰は涼しい。グラウンドには早くも食べ終えたのか、野球をして遊んでいる生徒たちがいた。


「そういや、今日の小テストはどうだった?」


 がぶりと一口でサンドイッチの三分の一を納めてから、柾樹が訊いてくる。その後に「うん、美味いよこれ」と賞賛の言葉を葉菜に贈りながらピックを外し、もう三分の一を片付けている。


「現国だったからなんとかなった。柾樹んとこは?」

「英語。余裕」


 何でもなさそうに答えてから、柾樹は最後の三分の一を口に放り込んだ。早くも次に手が伸びている。まだ食べていなかった葉菜は、ようやく最初の一口に取りかかった。それにしても、英語なんて一生喋れなくても構わないと刹那的に考えている葉菜にとっては、癪に障る態度だ。

 ふと、連鎖的に落書きのことを思い出す。

 自分の机に戻った後、葉菜はさりげなさを装って後ろの席を確かめてみた。その席に座ったのは、遅刻してきた日向さんだった。丁度鞄を机に掛けているところで、だから荷物が無かったのかと納得した。それと共に、どういうわけかと首を捻った。

 多分あの落書きは、葉菜に見せるためにわざと書かれたものだろう。立った位置からは読めないようになっていて、朝イチからテストだったのだから、他の生徒に気付かれる可能性は少ない。

 でも葉菜の方は日向さんに大嫌いとわざわざ主張されるほどの、何かをした記憶はなかった。まともに話したことすらない。せいぜい何かの伝達事項で言葉を交わした程度だ。でもそれだって一度か二度くらいのものだった。


 それとも、加害者がなんとも思っていなくても、被害者は傷付いているというやつなのだろうか。気付かない内に立ち入り禁止ゾーンを通過していた?

 自分がそうと認識しない間に、人の心に靴の痕を付けるような行為をしていたのかもしれない。そう考えると、不注意な自分が何とも重苦しく、自虐的な気分になる。だからといって、本人に確かめてみるという方法も取れない。覚えていないのかと、余計に嫌われる要素を増やすだけだ。


「どうした?」


 かけられた声にハッとする。サンドイッチを持ったまま、考え込んでいたみたいだった。「具合でも悪い?」と柾樹が顔を覗き込んでくる。


「なんでもない。テストの問題思い出してた」


 葉菜は首を振って誤魔化して、サンドイッチにかぶりついた。一瞬、柾樹に話してみようかとも思った。でもそれはすぐに打ち消した。

 誰かに嫌われているということを、素直に打ち明けられる人も沢山いるだろう。でも葉菜には無理だった。なんだか格好悪いと思ってしまう。親友の園生にも言えなかった。どうしてだか柾樹には余計に知られたくない。

 嫌われるのは自分のどこかに原因があるからだ。それは自分が犯した失敗、過ち。つまりみじめでみっともない所。他の人が同じような状況にあったらそんな風には取らないのに、葉菜は自分のことだと、どうしても恥ずかしいと考えてしまう。そんな己を柾樹に見せたくはなかった。

 要するに、私は見栄っ張りなんだ。葉菜は胸中でふて腐れながら呟き落とした。

 昔は柾樹になんでも思っていることを伝えられたのに。――いや、でもそれは当たり前だろうと考え方を改める。この年齢になっても心の内を誰かにありのまま、明け透けに引き渡すなんていう精神状態は、情緒の発達不足というものではないか。


 ただ……、と視線を落とす。

 幼い頃は個々の区別などないかのように、自分と相手の感情、思考、取り巻く世界の全てを共有していた。

 そんな時代を切実に懐かしいと感じてしまうのは、今現在、葉菜の正直な気持ちだった。

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