03
学校から葉菜の家までは電車で二駅、約十分の距離。駅からは二十分と結構長い距離を歩く。
電車を降りて駅から外に出ると、景色は全てが夜色に席巻されていた。
葉菜の住んでいる町は都会とはいえない。駅周辺とはいえ、夕方七時にもなるとほとんどの店がシャッターを閉める。街灯と、時折通りすぎていく車のライトが照らす商店街を、園生と一緒にテクテク歩いていく。
「すっかり遅くなっちゃった。ゴメンナサイって彼氏に可愛く謝っといてね」
「誰が彼氏だ」
しかも可愛くってなんだ!
「えー、別に誰とも言ってないけど――誰のことだと思ったのぉ?」
ハメられた! 動揺する葉菜の心中を映し取ったかのように、先の方にある街灯がチカチカと点滅している。
切れた電灯はいつの間にか取り替えられているものだけど、誰かが連絡しているんだろうか。それとも定期点検でもしているのか。
片隅で全然別のことを考えながら葉菜が憎々しげに唸ってみせると、園生は「じゃあね、また明日!」と買い物袋をガサガサいわせながら手を振り、角を曲がっていった。
さっさと逃げられてしまった。
園生とは五分歩いた場所でお別れだ。最初から一人だとそうでもないのに、夜は人と別れてしまうと、なんとなく心細いような気分になってしまう。怖い、というわけではないのだけど。
ご近所さんの友達が吸い込まれていった路地の先を見詰めてから、よしと心を一人用に切り替える。万が一の危険に備える警戒を、目と身体の隅々に張り巡らせて。
葉菜は家までの道を、さっきよりも大分歩調を早めて進みだした。
園生が誰を指して彼氏と言ってみせたかなんて分かりきっている。ことある毎にからかってくるのだから。今回はそれを逆手に取られてしまった。大体、ああいう時に親ではなく柾樹の名前が真っ先に上がってくることからして、周りから隣家の幼馴染みが葉菜にとってどういう存在に見られているかが知れようというものだ。
彼氏? 冗談じゃない。
なんて傍迷惑なんだろうと、葉菜は心中でひとしきり悪態を吐いた。
住宅街に入ると、喧噪は背後に追いやられる。葉菜が自分で立てた靴の音を聴きながら生け垣と塀の間の道を歩いていると、前方に、外灯に照らされた人影が見えた。
学校指定のサブバッグを肩に掛けている見慣れた後ろ姿が、長い足でたらたら歩いている。少し遠くにいるその背中に向かって、葉菜は大きくなりすぎないよう気をつけて声をかけた。
「柾樹!」
人影が驚いたように立ち止まる。振り向くとこちらを認めたらしく、歩みよってくる。
「葉菜? お前、今何時だと思ってる」
「まだ八時前だけど」
言葉に含まれた非難の響きに気付かないふりをして、葉菜は柾樹の所まで小走りに近づいていった。柾樹が形のいい眉を曇らせて、不満げに溜息を吐く。
「八時といえば、子供はそろそろ寝る時間だろうが」
「刀根正樹さん、私を幾つだとお思いで?」
「御年十五歳におなりかと存じます――もう真っ暗だぞ。こんな時間まで何してたんだ」
「園生と遊んでたの。さっきそこで別れたとこ」
布地を決めた後、中に詰める綿、リボンやレースなんかを選んでいたら、いつの間にかこんな時間になってしまったのだ。葉菜が追いついたことを確認した後、柾樹が再び歩き出す。葉菜も半歩遅れてついていった。
「園生ちゃんか。じゃあ、『コットン』か」
『コットン』とは、葉菜たちがさっきまでいた手芸センターの名前だ。学校近くのその店に、柾樹も付き合わせて何度も三人で一緒に行った。
以前には、バレンタインにマフラーを作ってくれと懇願されて、ホワイトデーのお返し目当てに毛糸を選んだことがある。その当時葉菜には手に入れたいCDがあり、小遣いが心許なくて買えなかった。
園生に習ってなんとか仕上げた紺色のマフラーは、何故か編み進めるにつれて幅が狭くなり、向こう側が覗ける穴がいくつも空いているという悲惨な出来映えだった。
こういう物は、要は心であり見た目ではないと葉菜は開き直った。お返し期待しているからねという下心の沢山籠もったマフラーを、綺麗にラッピングして柾樹に渡した。外見だけは立派な贈答品に、決して人前では使わないようにと注意書きを添えて。
「園生ちゃんと言えば、どうしても名字を連想してしまうんだよな」
「それ、園生も結構気にしてる」
名字とも、名前とも取れる『園生』。彼女の場合、名字である『岬』も字面を見ずに耳で聞いただけでは、下の名前と勘違いしてしまいそうだ。「こんな紛らわしい名前付けてくれて、親を恨むよ」と勘違いされる度に文句を零している。
「でも柾樹だってそうじゃない? 『マサキ』って名字あるよね」
「あー、そうだよな。でも俺、名字と間違われたことないよ」
確かに、柾樹が園生のように間違われているところを見たことはなかった。
「勘違いされやすい名前と、されにくい名前があるのかもね」
一人で結論付けて、そういえばさ、と続ける。
「今日は何の用事だったの? またバイト始めた?」
柾樹は今までに付き合ってきた彼女たちのツテで、様々な職種のバイトを経験している。
華やかなところでは、ドラマのエキストラやモデルがある。これは雑誌のモデルを務めていた彼女と付き合っていた時の経験だ。その後優れた容姿を眠らせておくのは勿体ない、本格的に始めてみないかと誘われたそうだ。他にもやってみたいことがあるからと、断ってしまったらしい。贅沢な話だ。
ちなみに「葉菜だって俺が有名になったら嫌だよな?」としたり顔で言われた時は、勝手にすればと冷たく突き放しておいた。
後は子供向けイベントの着ぐるみに入ったり、工事現場の作業員という泥臭いのもある。さすがに中学生は雇ってもらえないだろうから、年齢は誤魔化しておいたようだ。
通訳の彼女と付き合っていた時は、英語を教わったらしい。おかげで英語圏へ旅行に行っても不自由はないと嘯いていたこともあった。そういえば、美大生で染色を学んでいる人もいたな、と思ったところで葉菜は心中で列挙することを止めた。
多分、他に葉菜が把握していない彼女もいるだろう。今はフリーのようだけど、たかだか中一から高二までの間に一体何人と交際してきたのか、この男は。
「いや、バイトじゃなくてタマと約束があったんだ」
柾樹が心持ちうんざりしたように答える。
「ファミレスでムサイ男同士二人、悲しく向き合ってたんだよなー」
タマさんとは、柾樹のクラスメートで仲のいい先輩のことだ。初めてその名前を聞いた時、葉菜は思わず猫を連想してしまった。永遠に歳を取らない、全国のお茶の間で大人気の某ほのぼの家族。飼われている白くて賢いオトコノコ。
よくよく訊き出してみると『タマ』さんというのは省略形で、どうやら『タマキ』さんという名前らしい。どういう漢字を当てはめるのかはわからないものの、葉菜は頭の中で勝手に『玉木』と置き換えている。園生が好きな俳優と同じ字を当てたのだった。
「タマさんと何話してたの?」
「おっ、気になる? そんなに俺のことなんでも知りたい?」
「やっぱいい。どうでもいい」
茶化してくる柾樹をそのまま置き去りにする勢いで、葉菜は早足に歩き出した。
「悪かったって。すいません、調子に乗りました」
全然悪びれない様子で謝ってくる柾樹に、すぐ追い付かれる。葉菜は忌々しい身長差を呪った。背の高い幼馴染みの肩までしか届かない。理由もなく、悔しくなってくる。
葉菜は、顔も、頭も、歳も、経験も、身体的能力も、何一つ柾樹に敵わないのだ。それが時々無性に腹立たしい。葉菜は歩く速度を元通りに緩めた。
「私も、バイト始めようかな」
別に何かの目的があったわけではない。柾樹には経験があって、葉菜はしたことがないもの。そのどれでもいい、何か一つでも差を埋めたかった。持って生まれたものはどうしようもない。でも動くことで縮まる距離があるのなら、努力してみたい。
「買いたい物でもある?」
葉菜に合わせて歩調を落とし、柾樹が訊いてくる。
「今のとこは特に」
「誰かに貢ぎたい?」
「誰にだよ!」
「じゃあ、なんで?」
本音など、とても口に出せるものではない。柾樹に対する対抗心だと言ったところで、よしよしと頭を撫でられて、いつものように天より高い自惚れを語られて終わるだけに決まっている。
葉菜は目線を道路に固定した。街灯に照らされたアスファルトに光の輪が出来ている。そこを通りすぎる。
「高校に入ったらバイトぐらい誰だってしてるよ。園生だってそうだし」
園生は入学後すぐ、喫茶店で週五日のアルバイトを始めた。葉菜たちの通っている学校は、常識的で節度があり、尚かつ勉学と部活動に支障をきたさないと学校が認める場所と職種だったら、アルバイトも許可される。専用の紙に必要事項を記載して、担任と校長にハンコを押してもらうのだ。
「園生ちゃんは手芸の材料が欲しいからだろ、ちゃんと目的がある。皆がしてるからなんて理由にならねぇよ」
偉っそうに。
葉菜は唇の内側を噛み締めた。確かに、葉菜だってこの理由はないだろうと口を衝いた瞬間に思った。でも指摘されたらそれはそれで反抗したくなってくる。そもそも、誰のせいで働きたくなったと思っているのか。
さっきからわけの分からない焦燥感と苛立ちに攻撃されていた葉菜は、やけに否定的な言葉を返してくる柾樹にその鬱憤をぶつけたくなった。
「随分上から言ってくれるじゃない」
斜め前方上にある柾樹の顔に、険の籠もった視線を飛ばす。突き刺さってしまえばいい。
「柾樹は何かご大層な理由でもあったわけ? 中学の時からバイトしてたけど!」
「俺のは社会勉強の一環。それで金まで入ってくるんだから、尚よろしい」
振り向いて葉菜を論破しようとする冷静な態度が、ますます神経を逆なでする。何としてでも言い負かされたくない。
「じゃあ、私も社会勉強のため!」
「じゃあって何だよ、じゃあってのは。まだ小遣いが欲しいって方が説得力あるね」
口の端を僅かに吊り上げながら、いかにもまともに取り合っていないという素振りだ。
「うう、うるさいっ!」
葉菜の感情は、一気に爆発してしまった。
「小遣いだって欲しいよ、文句あるか!」
「文句はある。残念ながら、二番煎じは認められません」
「なんで! 別に柾樹には関係ないじゃん。柾樹に認められなくても全然構わないんだけど。勝手にしてやるから」
「…………関係ない、ねえ」
突然柾樹の声が低くなる。葉菜は咄嗟に口を噤んだ。
「今の学校入るために、勉強見てやったの誰だったっけ?」
興奮して限界まで引っ張っていたゴムの先を、前触れもなく一瞬にして離された気分だった。若干の冷ややかさを抱き込み、元の何十倍もの威力とスピードで帰ってきた衝撃は、葉菜の戦意を微塵に打ち壊した。
二人が通っている高校は一応進学校とされている。葉菜の成績では1ランク上の学校だった。しかし仲のいい友達の多くが受検し、更に近くて通学に便利だという理由から、目標を高く取ったのだ。柾樹が指摘する通り、受験勉強時には随分お世話になった。
「バイトなんかしてて、授業についていける?」
葉菜の口から言葉にならない呻きが漏れる。
「来月中間始まるよな。成績落とさない自信、あんの?」
ぐうの音も出ない。
「返事がねーけど?」
立ち止まった柾樹が、かんで含めるように続ける。
「結果が判ってるのに曖昧な理由で学校行事以外に手を出して、勉強を疎かにするような奴を俺は助けたりしないよ」
「柾樹、冷たい……」
柾樹は時々、妙に突き放した物言いをする。葉菜も歩みを止め、口を尖らせた。
昔から付き合いのある巡君は知っているだろう。でも、今の柾樹を雪乃さんや他の人たちが見たらどう思うだろう? 学校で葉菜に対する態度とのギャップに、驚愕するに違いない。葉菜ですら、今の柾樹をお盆で叩こうとは到底思えない。こういう時に、昔の真面目だった頃の柾樹が垣間見える。
「で、まだバイトしたい?」
上から見下ろすように、柾樹が確認を取ってくる。
「したくなくなった……」
これ程完膚無きまで叩きのめされて、どうして逆らうことができようか。
「ならいい」
後輩である幼馴染みの答えに満足した様子で、柾樹が再び歩き始める。葉菜も諾々とその後に従った。
学校や人目のある所ではあからさまな好意を見せてくるくせに、二人きりになるとそれが嘘だったかのように鳴りを潜める。もう演じる必要はないというように。
外での残像を引き摺ったような軽口は叩く。でも変態発言とは程遠い。柾樹は、決して葉菜に手を出そうとはしないのだ。
――だって、柾樹の好みは年上の、面倒でない女の人なのだから。
だけれど行事ごとには葉菜の手からによる贈り物を欲しがり、嬉しそうな顔を返す。放課後や休みの日、暇があれば一緒に過ごそうとする。わけが分からない。
家の前に着いた。何となく、下から上まで順に見上げていく。
お飾りのような門があって、カーポート付きの駐車スペースがあって、物干し場を兼ねたベランダがあって。手前側に、よくある建て売りの葉菜の家がある。隣に目を転じると、やっぱり同じような建て売りで、でもデザインが全く違う柾樹の家がある。
いつも葉菜が先に家へと入り、ドアを閉めるまで柾樹はじっと見ている。
「じゃあね、おやすみ」
葉菜はライトの光を受ける玄関扉の前に立ち、柾樹の方を向いて手を振った。もう何度も繰り返してきた動作だった。
「おやすみ――あ、葉菜」
柾樹が手を振り返し、思い出したように付け加える。
「明日からしばらく、用事があって一緒に帰れねぇから」
「それってタマさん関係?」
別に一緒に帰れなくても困らないんだけど、と葉菜は内心で開き直りながら問いかけた。
「そ。どんな用事か知りたい?」
「知りたくない!」
最初にどうでもいいと言った手前、素直に訊けなくなってしまった葉菜だった。
「週二回しかないからな、部活には顔出すようにするよ。朝は今まで通り一緒に行こうな」
いやに大人びた顔で穏やかに笑う柾樹に「もう閉めろよ」と促され、葉菜は玄関扉を閉じた。眩しい屋内の明かりが、葉菜の心を浮き彫りにしようとする。
お隣の柾樹君。
格好よくて賢い柾樹君。
中学の頃から弾け気味。それでも皆に囲まれている。
葉菜にとっては近くて遠い、異世界の住人。
葉菜には、柾樹の気持ちがよく解らない。
葉菜には、自分自身が柾樹にとってどういう存在でありたいのかもよく判らない。
自分たちの年頃の幼馴染みという関係が、他に比べても近過ぎるという気もする。
でも葉菜はあまりにも、柾樹の隣に女の人がいるという状況に慣れすぎていた。
だから葉菜は学校で、柾樹が望むと思われる通りの反応を返している。