もしも葉菜が媚薬を飲んだら(四月馬鹿)
ダベリ部部室。
各人目の前に置かれた飲み物に口を付けつつ、和やかに部活の真っ最中である。
「媚薬?」
ホワイトボードに書かれた本日のお題を見て、形の良い眉をしかめた雪乃が皆を代表するように声を上げた。
「そう。ハウタ族の間ではカウアブ、日本語では『精霊の蜜』って呼ばれてるらしいよ」
「ハウタ族ぅ? なんだそりゃ。つか珍しい、お前がお題を出すなんて」
指で鉄砲を作り、ピッと差してくる柾樹に向き直り、眼鏡の位置を直しながら弓弦が答えた。
「僕のおじさんは旅行好きでね、身一つで色んな場所へ出掛けていく。今回はアメリカ南西部、アリゾナ州へ行っていたらしい。北部の保留地に住んでる部族、ハウタ族と仲良くなって、友好の印としてこれを貰ったんだそうだよ」
ホワイトボードの前に立っていた弓弦が、予め用意していたらしき物品を懐から取り出す。「少しだけ分けてもらった」と言いながら白い会議机の中央にコトッと置き、自分の所定位置である雪乃の横に座った。
一同の目が、弓弦が置いたモノに吸い寄せられる。葉菜が場違いな物を見るような目つきで呟いた。
「醤油入れ……?」
赤いキャップで封をされた、小さな小さな魚型の容器。よく、弁当や刺身なんかに付いているそれには、透明な琥珀色の液体が半分ほど入っていた。
柾樹がおもむろに手を伸ばし、指先で摘んで顔の前まで持っていき、しげしげと眺める。
「もしかして、これがその媚薬っての?」
「こんなのに入ってたら、ありがたみがないというか、なんというか」
「効くんですか、これ?」
「胡散臭いわね」
平凡な容器を満たす怪しい液体は、柾樹、葉菜、巡、雪乃の手を渡り、弓弦の元へと帰り着く。
持ち主は手の平の上にある醤油入れを眺めながら言った。
「ハウタ族は自然のあらゆる現象から好かれ、大地と共に生きる種族だそうだよ。これはその中でも畏怖と尊敬を集め、崇められている偉大な呪師が一族に伝わる秘技を以て作り上げた薬なんだって」
「ますます胡散臭い。で、そのインディアンが作った得体の知れない薬にはどんな効能があるって?」
「インディアンじゃなくて、ハウタ族。部族名が分かってるんだから、ちゃんとその名前で呼ぼうね、柾樹。効能は媚薬って言うぐらいだから、やっぱり惚れ薬さ。一滴で絶大な効果があるとか。使った相手はあなたにメロメロってやつ」
「俺にくれっ!」
「ただし人種が違うから、もしかしたら日本人が服用するとまた違ってくるかもしれないんだけど……」と付け足す弓弦を遮って、柾樹が彼の方へ身を乗り出しながら声を張り上げた。
「田畑に飲ますの?」
「当然っ!」
「ちょっと柾樹!」
何考えてる、この変態っ! と葉菜が、渾身の力で隣に座る柾樹の襟元を締め上げる。
「そう言うと思ったから、入れといた」
皆、二人の間で繰り広げられている一方的な乱闘に注目していて、ボソッと落とされた言葉の意味がよく掴めていなかった。
弓弦が、世間話をするような自然さで口にしたせいでもあるだろう。
「だから、入れといたの。田畑のコーヒーに」
――その、爆弾発言を。
数瞬の間、室内が静寂に包まれる。目を丸くして爆弾発言の主を見つめ、次いで中身が殆ど無くなったカップに目を移した葉菜の手が、脱力したように柾樹の襟元からポロリと落とされる。全員が凍り付いたように動きを止めた中、一番早く立ち直ったのは柾樹だった。
「テメエ弓弦、何葉菜にワケの分かんねえモノ飲ませてんだよっ!」
音を立てて会議机を乗り越え、怒りも露わに弓弦に掴みかかる。
拍子にずれた眼鏡を指先で押し戻しつつ、弓弦が平然と反論する。
「さっき飲ませたいって言ってたじゃないか」
「冗談に決まってるだろっ!」
「本当に?」
眼鏡越しに疑いの眼差しを向けられ、怯んだように柾樹が勢いを弱める。
「いや、そりゃ、ほんのちょっとはそういう気も……」
じゃなくてだな! と気を取り直した彼が盛り返した時だった。
「葉菜ちゃん!」
「葉菜!」
雪乃と巡が叫んだ後、椅子の倒れる音が響く。葉菜が崩れ落ちたのだ。
そして今度も柾樹は素早かった。葉菜の名を切羽詰まったように呼び、またまた会議机を跨いで彼女の元へと急ぐ。倒れている葉菜を床から奪うように抱き上げた。目は固く閉じられ、頬は上気して赤く、呼吸が浅く速い。じっとりと汗をかき、苦しそうだった。
「葉菜、しっかりしろ!」
痛みを堪えるような表情で葉菜の頬を叩く。すると応えるように短く唸った後、彼女がゆっくりと目を開けた。
柾樹が安堵したように、少しだけ目元を緩める。
「大丈夫か」
心配げに問いかける柾樹を、葉菜がまじろぎもせず見る。一言も発さず、ただ熱心に見つめていた。
「葉菜?」
やはり薬の影響で、どうにかなってしまったのではないか。
全員が憂慮したその瞬間、葉菜が動いた。八つの目が見守る中、彼女はせがむように両腕を伸ばし、柾樹の首に絡める。
そのまま甘えるように柾樹に抱き付いた。
空間が再び凍り付く。原因である弓弦でさえ「凄い威力」と呟いて目を瞠った。
そしてやっぱり、柾樹の立ち直りは早かった。
「そうかそうか。やっと俺への愛に目覚めたか。優しくするからな」
そうであるのが本来の形だというように葉菜を抱きしめ返すと、慎重に床へ押し倒す。あっという間に二人だけの世界を形成してから、蕩けそうな目で自分を見る彼女に熱い視線を注ぎ返し、顔を近付けていった。
しかしそうは問屋が卸さない。
「公衆の面前で何やってんですか、あんたは!」
あわやという所で巡がベシッと柾樹を蹴り倒し、二人を引っぺがす。
転がされた柾樹は脇腹を押さえながら、のっそりと起き上がった。
「先輩を足蹴にするとは、いい度胸だ巡……」
せっかくいいところだったのに、と恨みの籠もった低い声が響き渡る。
「大体ちょっとは躊躇ったらどうなんです。部室を18禁ルームにする気かっつの!」
巡は脅しつけてくる先輩に鋭く言い返し、「ほら、しっかりしろ」と葉菜の背に手を添えて抱き起こした。その自分をニコニコと見つめる幼なじみを目にして、巡が嫌な予感を覚えたように顔を引き攣らせる。
「巡くん……」
葉菜が、この場の全員が聞いたこともないような鼻にかかった声で囁いた後、幸せそうな素振りで彼に身を寄せた。
一同、驚愕に身を固める。そして柾樹が髪を掻き毟り、悲痛な声を上げた。
「葉菜、お前ってやつはそんなに節操のない女だったのか!? 相手間違ってるだろうが」
「刀根君にだけは言われたくはないでしょうね、葉菜ちゃんも」
雪乃が冷静に突っ込み、葉菜と、それから身を竦ませている巡に近付く。事情が全て解っているかのように微笑みを浮かべ、腕を広げて話しかけた。
「ほら、こっちへおいで、葉菜ちゃん」
優しげな声に誘い込まれるようにフラフラと葉菜が巡から離れる。安堵と共に身体を弛緩させながらも、若干名残惜しそうな彼を尻目に、葉菜はじゃれつくように雪乃に抱き付いた。よしよしと頭を撫でられ、安らぎきった表情で目を閉じている。
「葉菜、女でもいいのか!」
「それはもういいから。どうやら恋愛感情の有無関わりなしに、ちょっとでも好意を抱いている人間に懐いていくみたいだね。面白いなあ。これが人種の違いによる効能の落差か。僕が傍に行ったらどうなるかな?」
「だれが近寄らせるか。テメエなに落ち着き払ってやがる。あのまま葉菜が他人に見境無く抱き付いてったらどうするつもりだ!」
「自分の時は一生このままでもいいって思ってたくせに……。大丈夫だって。効き目はそんなに長く続かないらしいから」
気楽な調子で請け負う弓弦の言葉通り、校門が閉まる頃には、葉菜は正気に返っていた。媚薬が効いていた間のことは何も覚えていないという彼女に、誰も真実を教えようとはしなかった。
ちなみにそれまでの間、
「巡、葉菜が離れた時に残念そうな顔したの、見たぞ。どういうつもりだあれは」
「え? い、いや、やっぱ男としては、その……」
「聞き捨てならないわね、沖谷君」
という、巡に大変不利なやり取りが交わされていたのだが、その間中雪乃にべったり貼り付いていた葉菜はやっぱり覚えていない。
今回の結果如何で、園生に一服盛ろうかと考えていた弓弦が計画を中止したことも、一同には秘されたままだった。
ちょうど同時刻、園生は寒気を覚え、クチンとくしゃみを一つした。




