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葉菜の異世界  作者: せおりめ
拍手小話、季節ネタ等 時期はバラバラ
22/26

電話

 学生なら前日までのゆるゆる気分との落差に。

 勤め人なら休日の間に溜まっているだろう、FAXやメール、諸々の仕事を想像して。


 大方の人間がブルーな気分に陥る月曜日の朝。現在の時刻は午前九時、五分過ぎ。

 十時に出れば講義に間に合う。取り巻き共に崇拝される容姿に相応しい、身繕いも万全。

 リビングに置かれた六人掛けのテーブルに一人座り、テレビのワイドショーに目をやりながら、美智香はトーストとコーヒーの簡単な朝食をのんびり摂っていた。

 共働きの両親はとっくに会社へ。部活に燃える下の弟、中学生の青春小僧知道も恐らくは二時間以上前に学校へ。それからええと、上の弟柾樹は――と家族のスケジュールを頭に描いたところで、室内に電子音が鳴り響いた。音源は、入口のドア横に置かれてある電話だ。

 面倒。

 と思いつつも椅子から立ち上がり、リモコンを持って電話へ近づく。テレビのボリュームを下げながら、受話器を持ち上げ耳に当てた。


「もしもし」


 番号は電話帳に載せてあるが、一応防犯を意識してこちらからは名乗らないようにしている。どこまで意味があるかは分からない。


「あ、刀根さんのお宅でしょうか」


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、世慣れた中年男のような声だった。しかしこういう電話を取った場合、いつもイラッとさせられる。普通、掛けてきた方が先に名乗り、それからこちらの名前を確かめるべきではないのか?

 電話対応のマナーについて思いを巡らせつつも、相手の声の背景に、電車が線路を走るような音と、アナウンスの声を聞いていた。

 駅……? とナンバーディスプレイの表示を確認しながら、続いて飛び込んできた言葉を聴いて、美智香は息を呑んだ。


「わたし、南署の梶と言うんですがね、落ち着いて聞いてください」

「え……警察の方ですか?」


 質問しながら、急いでテレビの電源を切った。寸の間もおかずに切り替わる映像があると、話に集中できない。


「ええ、そうです。今、JRの駅員室からお掛けしているんですがね。あーっと、誠に申し上げにくいんですがね、お宅の息子さんが電車内で痴漢行為を働いてですね、それでお掛けしたわけなんですけども」


 相手はどうやら美智香を母親だと思っているようだが、そんな瑣末なこと今はどうでもよかった。

 申し訳ないと言いながらも事務的な、淡々とした調子で信じられない事実だけを伝えてくる言葉が、胸の中でヘビに変わってしまったかのように感じられた。ざわざわと蠢きとぐろを巻く感触は、どうやっても自分で制御できない。鼓動までが跳ね踊る。

 中学生の知道はとうの昔に学校へついているだろうし、そもそも電車を利用しない。ということは、相手が指す息子とは――


「本当ですか。本当に、柾樹が!?」

「そうです、その柾樹君です。お疑いになりたい気持ちはわかりますがね、お母さん、残念ながら本当です。朝のラッシュの中で息子さんはねぇ、身動きの取れないOLさん相手にちょっと、かなり非道いわいせつ行為を行ってですね。いわゆる強制わいせつ罪というやつですな。このOLさんもかなり気性の激しい勇ましい方で、泣き寝入りはしない、絶対に訴えてやるとお怒りになってましてねぇ」

「訴えるって……。でも、柾樹はまだ高校生で、未成年ですし」

「そうなんですわ。こちらでも、駅員の方が宥めてくださってるんですが、興奮状態で、許さないの一点張りでして」


 そういえばさっきから、梶の声に混ざって女性の金切り声のようなものが薄く聞こえていた。声は遠くても、そこに込められた強い感情が電話を通してはっきりと伝わってくる。

 女性の気持ちは、美智香にも痛烈なほど理解できた。満員電車の中では、上げた腕を降ろすことさえ難しい。自由の利かない身体を無遠慮な手に、いいように探られる恐怖、そして抵抗できないと高をくくっているだろう相手に対する身を焦がすほどの憤りは、美智香も何度となく味わってきたものだ。常々、痴漢を働く男など、裸に剥いてゲイの集団にでも放り込めばいいと思っていた。同等以上の屈辱を味わえばいい。死刑でも生温い。

 しかし、それが身内ともなると……

 腹の底から煮えたぎる怒りは確かに感じるが、どうしても、なんとか赦してやってもらえないかという気持ちが湧き上がるのを、抑えられない。

 エゴを剥き出しにした自分の思考にいささかのショックを受けながら、話し続ける梶の言葉を聞く。


「未成年で訴えることが出来ないのなら、学校へ抗議に行くとおっしゃるんですよ。普通でしたらこういった場合、被害者は表に出ることは嫌がりますし、学校には警察の方から連絡するんですんですけどねぇ。自分で直接言わないと気が済まない、と。いや、こちらとしては、大変勇気のある、ご立派な志だと感心しきりだったんですがね。どなたもがこうでしたら、泣き寝入りもなくなり、結果として痴漢の抑止にも繋がるでしょうからねぇ。――まあしかし」


 ここで梶が、声の調子を同情するようなものに切り変えた。


「そうなると当然補導歴は残り、息子さんの内申にも響くでしょう。大学受験は考えていらっしゃるんですか?」


 美智香は震える声で答えた。


「はい、一応」

「こちらとしても先のある未成年に、あまり厳しい手段はとりたくないんですわ。やってしまったことはやってしまったことで勿論許し難くはあるんですが、息子さんも自分の行為を顧みてかなり反省しているようですし、これからご家族にも叱責されるでしょうから、充分処罰にはなるだろうと思います」

「そ、それはもう。こちらでもきつく叱っておきます!」


 断罪を求めない梶の言葉に、一縷の望みを託して返事をした。


「それはもちろんお願いしますよ。それでですね、被害者の女性は駅員室に着くとすぐに弁護士の方をお呼びしてましてね。どうやら、以前に弁護士先生にお世話になったことがあるらしくてですね、その方が、今ここにいらしてるんですわ。ちょっと変わりますから、ここからは弁護士先生とお話してください」

「分かりました、お願いします。あ、それから私、柾樹の母親ではなく姉です」

「おや、そうだったんですか。お姉さんなんですな、これは失礼しました。どうりで声がお若いと。じゃ、変わります」


 先生、と小さく梶の声が聞こえ、ガサガサと音がした。


「もしもし、お電話変わりました」


 耳に届いてきたのは、年配の深みのある声だった。美智香はスーツ姿の初老の男性を想像した。きっと、髪は白髪交じりで、綺麗に撫でつけられていることだろう。


「被害女性の顧問弁護士をしております、長瀬法律相談事務所所長の長瀬と申します。この度、弟さんのわいせつ行為によって依頼人が受けた心の傷は甚大なものです」

「分かります。私も女ですから……」


 美智香は心の底からそう言った。


「しかし、息子さんが未成年ということもあり、こちらで話し合いました結果、二百万をお支払いいただければ示談に応じるということですが、どうでしょうか」

「二百万ですか!?」


 思わず、家中に響き渡るほどの大声で叫んだ。


「はい。このような場合の相場は大抵百万から三百万になります。今回、弟さんの行為は着衣の外からではなく下着の中へという、大変悪辣なものです。被害者の心中を考えれば最高額でも多いということはありません。これは、弟さんが未成年だという事実に対する私の依頼人からの特別な温情です」


 二百万とは考えるまでもなく大金だ。……しかし、と美智香は告げられた金額の衝撃から冷めつつある頭で思い直した。弁護士は被害者のことを配慮してか詳しく述べなかったが、下着の中に手を入れられたとあれば、その女性は相当苦痛な時間を過ごしたことだろう。美智香は自分の身に置き換えてみて、頭が沸騰しそうなほどの怒りと、膝から力が抜けそうな恐怖心に支配され、目が眩む思いだった。

 確かに、高くない。


「分かりました。なんとしてでもお支払いします」


 美智香の答えを受け、電話の向こうで長瀬が頷いた気配がした。


「それでは示談の話に移行します。被害女性はもうこの件を一刻も早く忘れ去りたいとおっしゃっています。出来れば本日中、なるべく迅速に示談金を指定口座に振り込んでいただきたいのですが」


 冷静に告げられた気短な申し出が頭に浸透し、美智香は慌てた。


「待ってください。本日中なんてそんな……とても。他の家族にも相談したいですし――」

「申し上げた通り、これは依頼人の譲歩です。今は納得していただいていますが、依頼人は今興奮しており、心理的に大変不安定な状態となっています。すぐに前言を撤回し、やはり学校側に報告する、という事態にもなりかねません。そうなると、お困りになるのはそちらの方かと存知ますが」

「で、でもそんな大金、急には」

「分かりました。依頼人にその旨お伝えします。よろしいですね? 忠告はしましたよ」

「待ってください!」


 今にも受話器の口を抑えそうな弁護士を、美智香は慌てて制止した。


「払います! 私の貯金からお支払いしますから」

「では、メモをご用意ください。今から指定口座、被害女性の銀行名と口座番号を申し上げます。それから当方の携帯番号もお教えしますので、振り込みが終わりましたらそちらへお知らせ願えますでしょうか。入金を確認次第書類の作成に入り、双方の署名、捺印を以て示談の成立といたします」

「は、はい。メモはありますのでどうぞおっしゃってください」


 それから美智香は、電話の横に備えてある白いメモ用紙に、長瀬の告げる指定口座と携帯番号を復唱しながら書き付けた。


「あの、すみません、少し柾樹と話をさせていただけないでしょうか」

「……少々お待ちください」


 またガサガサと音がした後、嗚咽混じりの声が聞こえてきた。


「ね、ねえちゃん……! ごめん、俺、大変なこと。魔が差して……。二百万、なんて大金……」


 ヒクヒクと途切れがちで、単語の一つ一つを聞き取るのも難しい。美智香は自分の耳を疑った。

 これがあの弟。

 柾樹だというのか。電話の向こうからは普段の態度からかけ離れた、みじめだと切り離すにはあまりに打ち拉がれた声がひっきりなしに届いてくる。胸の奥底から衝動が湧き上がりそうになり、腕を強く握ってどうにか堪えた。


「柾樹、なんて馬鹿なことを!」


 自身の声を詰まらせながら、美智香も犯罪行為をしてしまった弟に言い募る。


「いい? 今から二百万振り込んでくるから。そうしたら示談にしてくれるって言ってるからね。でもこれで許されるなんて思うんじゃないよ。痴漢なんて、殺されても文句は言えないんだからね! 誠心誠意被害者の人に謝ってなさいよ。帰ったら説教の嵐だから!」

「あり、ありがとう、ねえちゃん」


 そこで柾樹が盛大に泣き崩れ、変わって長瀬の平静な声が聞こえてきた。


「以上でよろしいでしょうか」

「はい。あと、被害者の女性に私からも謝罪させてはいただけないでしょうか」

「申し訳ないですが、ご家族の言葉は今この場では、火に油を注ぐだけになります。ご遠慮ください」

「……配慮が足りませんでした」

「いえ、それでは振り込みの件、よろしくお願いいたします。失礼します」

「はい、すぐに振り込んで参ります。失礼します」


 そして長瀬が通話を切ったのを確認した後、憤懣やるかたない息を吐き、美智香は受話器を電話に思い切り叩きつけた。ガチャンと派手な音を聞いて、おっと物に八つ当たりはよくないと少しだけ反省する。

 ――それにしても、非通知とはね。

 待機状態となった電話のディスプレイから目を離し、苛立ちを抱えながら美智香はリビングから出た。廊下を歩き、トイレの前まで移動すると、閉ざされた扉を足でガシッと強く蹴る。ショートパンツから覗く、すらりと長い自慢の足から繰り出される華麗な妙技は、一部から絶大な人気を博している。


「オラ、いつまで入ってる。さっさと出てきな!」


 さらにガシガシ蹴りを加えると、「うっせぇ!」という文句の声と共に、向こう側からも扉を殴りつける音が返ってくる。衝撃で扉が揺れた。


「便所ぐらいゆっくり入らせろ。腹の調子が悪いんだよ」

「知るか。まだ粘るんなら、葉菜にエロ本の隠し場所バラしてやろうか」


 わざと足を立てて踵を返すと、扉越しに慌てたような声が追ってきた。


「おい、待てって!」


 他人を狼狽えさせるというのは、格別な蜜の味がするものだ。少しだけ溜飲を下げ、美智香はリビングの席に着くとトーストの残りを食べ始めた。すっかり冷めた食パンは歯ごたえももそもそしており、美味しくない。またもや気分が降下するのを感じた。

 あと一口で食べきるというところで、廊下の方から扉がけたたましく開く音、ジャーッと水が流れる音、それが遮られるように小さくなって、扉がバタンと閉じられる音が聞こえてくる。そして最後の一欠片を口に放り込みながら、荒い足音がこちらの方へ向かってくるのを耳にしていた。

 果たしてリビングに勢い良く入って来たのは、痴漢犯罪という汚名の泥にまみれた美智香の弟、柾樹である。まなじりを険しくした柾樹は、喉にコーヒーを流し込んでいる姉の元へそのまま近寄ってくると、ダンッと拳をテーブルに叩き込んだ。


「どういうつもりだクソ姉貴」

「機嫌悪いじゃん。まだ腹が痛い?」

「うっせぇっつの」

「机の一番下の引き出し、古い教科書に紛れて下から三番目に一冊。ベッド下の衣装ケース、セーターの下に四冊、タンスの中にも二冊。あ、布団の下はさっと隠せて便利かもしれないけど、ベッタベタ過ぎてすぐ見つかるからやめといた方がよくない?」

「ストーカーかよ!」

「以上、タマキ君からのご提供でした」

「あんにゃろう!」

「でも気をつけな? 葉菜、あんたがエロ本持ってるんじゃないかって疑ってるみたいよ? 何かと潔癖な年頃だし? バレたら嫌われるまではいかなくても、よそよそしくはなるかもよ~? ただでさえ、あんたは女関係の素行が悪かったしねぇ?」


 ニヤリと笑って忠告してやると、柾樹が慌てた様子で身を乗り出してくる。


「マジで!? なんで知ってんだよ」

「前に葉菜が来て、すぐ帰ったことがあったじゃん? あんたが風呂入ってた時。葉菜の様子が変だったし、なんとなくね」

「……もちろん、可愛い弟と幼馴染みの間にヒビ入れるようなこたしないよな?」

「えー? そうしたいんだけどー、今、その可愛い弟にクソ姉貴って言われちゃったしー? 傷ついちゃったーみたいなぁ?」


 美智香は白々しく高い声を作って言い放った。我ながら、全く心の籠もっていない響きだと思った。

 柾樹が見たくもない物を無理矢理見せられたという風情で顔を歪め、「気色悪ぃ」と漏らす。立場の分かっていない弟の鼻先へ向けてマグカップを突きだし、そして命令した。


「おかわり」

「――仰せのままに、お姉様」



 コーヒーの香りが漂う。


「ところで姉ちゃん、二百万って何?」


 美智香の分と一緒に、自分の分も淹れてきたらしい。柾樹はそれぞれのカップをテーブルに置くと、美智香の斜め向かいの席に着いた。

「聞こえたの?」と言いながら、一口飲んだ。料理上手の柾樹は、コーヒーも実に美味く淹れる。腹立たしいことに、美智香よりも。


「あんだけデカい声で叫んでりゃ嫌でも聞こえる」


 マグカップに口を付ける弟に、姉は人の悪い笑みを見せた。


「さっき、あんたが痴漢で捕まったんだってさ」

「ああ?」


 怪訝そうな表情の柾樹に一瞥をくれ、忘れていたと美智香は電話の所まで行った。メモ用紙の一枚目を破り取って席へ戻る。

「これ見てみ」と書き付けの走る紙を渡す。

 無言で暫し文字に目を走らせていた柾樹が顔を上げ、美智香と目を合わす。そして言った。


「振り込め詐欺ってやつ?」


 振り込め詐欺。オレオレ詐欺、架空請求詐欺に代表される、読んで字の如く被害者に金銭の振り込みを要求する詐欺のことだ。銀行の張り紙やテレビでよく注意を勧告されるが、実際に体験するのは美智香も初めてだった。電話の場合、交通事故、連帯保証人、ヤクザの拉致監禁、パターンは千差万別で、いずれも家族や友人がやっちまったと泣きついてくるというものだが、刀根家の場合は痴漢騒ぎが選びだされたらしい。

 しかし手が込んでいたと思う。背景の電車の音はもちろん。警察役、弁護士役、身内役。あれだけ淡々とこちらが考える間もなく話を進められては、まともな判断を下すことなど難しい。柾樹役など、痛々しくも取り乱した演技を披露していたのだ。こちらもつられて動転してしまい、声の些細な違いなどには気づけない。被害女性の声を遠くに配置し、感情を逆撫でするから電話口には出さないなどと、細かいところも考えられている。

 まあ、柾樹がトイレに籠もっていることを知っていた美智香にとっては筋書きの見えた舞台劇だったのだが。


「いやぁ、面白かったわ。あんた役の子が泣きながら謝ってきた時は、吹き出しそうになってどうしようかと思ってさ。腕つねる勢いで掴んで堪えて、痛いやらおかしいやらで、お姉ちゃんもう必死」

「相手、振り込むの待ってんじゃねぇの」

「待ってるかもね。向こうの得意げな態度にはちょっと腹立ったし、いい気味。ま、カモが土壇場で正気づくなんてよくあることなんじゃない?」

「払う気ないならなんでわざわざメモ取ってんだよ」

「犯罪心理学研究室の教授が渋くってさ、これが中々いい男なんだわ」

「それがどうした枯れ専」

「ガキ。体験談とか集めてるらしくて、上手くいけば飲みに連れてってくれるんだよね。振り込め詐欺なんて話は腐るほど集まってそうだけど、そこは私の美貌と話術でカバーするとして」

「へいへい頑張ってくださいよ、ウツクシイお姉様」


 柾樹が揶揄するようにメモ用紙をひらひらさせる。美智香は忌々しい思いでそれをひったくり、ついでに生意気な弟の脳天に拳骨を叩き込んでおいた。

「痛ぇよ暴力女!」と頭を抑える柾樹のことは当然無視する。

 そして美智香はメモ用紙を丁寧に畳んだ後、それにしてもと落ち込んだ。


「なんかさあ」


 両手でマグカップを包み込み、半分程になった中身を見つめる。


「色々シミュレーションになったんだよね。自分が結構勝手だったんだとか。まあこれが、肉親の情ってやつなんだろうけど」

「はあ? 意味分かんねぇんだけど」


 いかにも疑問で一杯だという表情を浮かべる柾樹には構わず、しかしその顔を見つめながら、美智香は「うん、反省したわ」と自分に納得させるように頷いた。

 ますます意味が飲み込めないといった様子の弟を、険しく睨めつける。


「予め言っとくけど。あんたが本当に痴漢したら、情け容赦無くボコボコにした上で、薬を盛って眠らせて、カズちゃんに引き渡すから覚悟しておくように」

 とはいえやはり、例え柾樹がどんな凶悪犯罪を行ったとしても、その結果何百万、何千万の和解金がかかろうとも、自分は払おうとするだろう。そう美智香は確信していた。身内の情とは厄介なものだと思う。

 そんな海より深い姉ゴコロも知らずに、「するかよ!」と弟は噛み付いてくる。浅慮な。


「弟をなんだと思ってんだっつうの! つか、カズちゃんって誰だよ」

「麗しのオネーサマの友達だよ。料理が得意でおしとやかな二十一歳。彼氏募集中。趣味は筋肉を鍛えること。身長百八十五センチ。ちなみに性別はオトコ」

「ホモかよ! どんだけ交際の幅広いんだよ」

「それ侮辱語なんだって知ってた? 同性愛者とおっしゃい。正確も可愛いし良い子よぉ。尽くしてくれるしお勧めよぉ。その分、裏切った時がそりゃあ怖いけど」

「いらん。女の方がいい」と柾樹がキッパリ断言する。

「そういや、今日は開校記念日で休みだっけ? いいよなぁ、高校生は。で、葉菜とどっか行くわけ?」


 柾樹が「当然」と返してくるだろうと思って発した問いかけだったのだが、意外にもムッツリ黙りこまれてしまった。隙だらけの反応を目にして、意地悪な笑いが込み上げてくる。その感情を正直に正確にありのままに伝える面持ちで、美智香は言った。


「捨てられてやんの」

「うっせぇ! 園生ちゃんと暁とで買い物に行くんだとよ」

「暁って――ああ、タマキ君の」


 そこまで言ったところで、柾樹がうっと背中を丸め腹を押さえだした。そのまま立ち上がり、廊下の方へフラフラと歩き出す。


「便所行ってくる……」

「あれだけ拾い食いすんなって言ったのに」


 情けない背中にかけられた声に、「してねえ……」と弱々しい返事を残し、柾樹は便所の住人になるべく立ち去ってしまった。では一体何を食べたというのか。憐れな弟は、今朝は腹痛で目が覚めたらしい。そうでなければ休日の午前中、用も無いのに起きているはずがない。身内びいきを差し引いても顔は上等なのに、残念な弟だと思う。

 その弟も姉に対して全く同じ感慨を抱いているのだが、美智香は全く気づいていないのだった。己のことは見えないのが人間の性というものだ。

 間抜けな姿を晒す柾樹を見送ってから時計を見ると、もう十時を数分過ぎていた。早く出なければ。

 美智香は慌ただしく鞄を掴み、メモ用紙をその中へ丁寧に入れてから、玄関へと向かった。途中、トイレの前で立ち止まる。


「じゃあ柾樹、行ってくるから。それから私、今日は遅くなる予定だからね、母さんたちにも言っといて」

「例の教授センセ?」

「そ。あんたは気が済むまでそこに入ってな」

「フラれてしまえ!」


 扉の向こうから放たれた悔しげな叫びに対して返事の代わりに扉を一蹴りし、美智香は悠々と玄関を出たのだった。


※オチが汚くてすいません……。

 書き手は刑法やら示談金等の知識は皆無です。作中の弁護士やら警察は全部詐欺師なんで、会話に出てきた金額やらなんやらは、全て詐欺師がでっち上げた戯言だと思ってください。実際、なりすまし詐欺は犯人がそんなお粗末なレベルでもうっかり騙されてしまうみたいなので。

 これを書いた当時は「母さん助けて詐欺」なんて名前なかったんです。


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