02
柾樹は葉菜が繰り出した渾身の一撃を頭蓋に受け、頭を抱えてうんうん唸っている。一同は自業自得の部長を放って、何事もなかったように健やかな部活動へと戻ることにした。
「えーと」
お盆を机に戻し、コーヒーを啜って気を取り直した葉菜が口火を切る。
「それでどういう話になってたんだっけ?」
「もし異世界に行ってたら、ってことじゃなかったか?」
コロッケパンを食べ終わった巡君が空になった袋をグシャグシャと丸める。袋の立てる乾いた音がした。
「美形王子がなんとかかんとか」
「そういう、ハーレクイン的な物語を実際に体験したという話は聞いたことがないけど、日本の昔話で実話を基に編纂された迷い込み話があったような。私もそういうのがあるってことしか知らないんだけど――確か、仙界で天狗と過ごしていた子供の話だったと思うんだけど」
「なんですかそれ」
顎に手を当てながら発言する雪乃さんに、葉菜はカバンの巾着に入れておいた個包装のチョコを一つ差し出しながら訊いた。
「『実録! これが仙人の暮らしだ!』みたいな?」
残りは巾着をひっくり返して机の上にバラまいた。まだ十個以上残っている。雪乃さんは、ありがとうとお礼を言って受け取りながら続ける。
「そんな感じ。”仙境異聞”って題名だったかな。平田篤胤がその子供に話を訊いて纏めたらしいわね」
「あ、俺ちょっと知ってます。その子、仙童寅吉って呼ばれてたんですよね」
「へえ、巡君よくそんなの知ってたね」
葉菜は声に感嘆を絡めて言った。
少し意外。巡君がその類の本を読むとは思えなかったからだ。
「まあな。俺だってたまには雑誌や実用書以外も読むんだよ――と言いたいところだが、残念ながら読んだ奴の話を聞いただけなんだよな。頼んでもないのにベラベラ読書感想を喋ってくのがいるんだよ」
「ああ、鳴瀬君ね」
最後の方は眉根を寄せながら喋るクラスメイトに納得がいって、頷いた。
鳴瀬君は葉菜たちと同じクラスの男子で、いつも休み時間には本を読んでいる。巡君とは従兄弟同士らしく、気心が知れているらしい。
「そ。だから俺は本を読まない割に、題名と簡単な内容は結構知ってんの」
「それって沖谷君にとってはいいかもね。読書のとっかかりになる」
「うげ……」
巡君がいかにも読みたくない的な表情をしてみせる。次いでそういえば、と続けた。
「さっき出てきた”ハーレクイン”って何ですか?」
「知らないの、沖谷君!?」
雪乃さんがかなりの勢いで食いつく。ガバッと顔を巡君に近付けた。異性の後輩は「な、なんですか」と仰け反りながらの及び腰だ。俺、何か悪いこと言った? と葉菜の方を窺っている。
男子の巡君が知らなくても無理はないでしょう、雪乃さん。葉菜は巡君を援護しようかと迷ったものの、いつになく勢いが良いお姉様を見て口出しは止めておくことにした。今、この人に逆らってはいけないような気がする。
「ハーレクインと言えばロマンスよ、ロマンス! 古今東西女性のあらゆる理想を詰め込んだバイブル! ままならぬ現実を忘れ、本の中では悲劇のヒロインや大金持ちの令嬢、絶世の美女になれるのよ」
「そ、そうっすか」
巡君は胸の前に両手で壁を作り、なんとかコメントしている。
「でも、雪乃さんは金持ちのお嬢さんでしかも美人じゃないですか。それに悲劇って、不幸になりたいんですか?」
「勿論ハッピーエンドは大前提。私の顔を褒めてくれたことに関してはありがとう」
取り乱した己を繕うように、雪乃さんが体勢を戻して眩しい笑顔を巡君に向ける。
月のように輝かしい表情を眺めながら、葉菜はそれにしてもと考えを巡らせた。
雪乃さんのお父さんはソフトウェアハウスの社長だ。聞くところによると支社を幾つか持つ中堅企業で、業績も上向きだという。巡君の言う通り、お金持ちだと思っていいだろう。そして人も、ついでにいえば当然葉菜も羨むほどの麗しい顔を持っているのに、どうしてシンデレラストーリーに憧れたりするんだろうか? いや、平凡を地でいく葉菜は勿論大好物なのだけど。
視界の中では巡君も居住まいを正してミネラルウォーターを飲んでいる。
普段の穏やかな佇まいを崩壊させて熱弁をふるう雪乃さんに、ちょっとした疑問を抱いてしまう葉菜だった。
「ま、雪乃の憧れは今日の議題には関係ないから次に回すとして」
突然、葉菜の隣から聞こえてきた声がその場を仕切った。いつの間にか立ち直ったらしい柾樹だ。全員の目が、片手で頭を撫で、もう片方の手がコーヒーに伸びている彼に集まる。
「もう大丈夫なの?」
「当たり前ですよ、と。俺の声が聞けなくて葉菜が寂しがると可哀想だからな」
コーヒーを飲みながら雪乃さんに応じた後、「な、葉菜」と柾樹がいい笑顔を見せる。
葉菜はもっと強く叩いておけばよかったと後悔した。タフな奴め。
「で、だ」
改めて柾樹が言う。
「さっきの仙境異聞とやらの話に戻るんだが、天狗と異世界と揃えば、神隠しを思い出さないか?」
かみかくし? オウム返しに呟く葉菜に、柾樹が頷く。
「昔話なんかでよくあるだろ? 神社で子供数人が遊んでいて、気がついたら一人いなくなっていたとか」
「それってホラーじゃん」
「よし、葉菜。怖いなら俺の胸に飛び込んでこい」
おいで、と柾樹が慈愛の微笑みを湛えて腕を広げるも、葉菜が黙ってお盆へ手を伸ばすと急いで引っ込めていた。
「堪えないわねえ、刀根君」
雪乃さんの言葉に、葉菜は心中で激しく同意した。
「でも柾樹さん、神隠しって言ったら、誘拐とか教訓の意味合いが強いんじゃないですか? 親が子供に、いい子にしてないと鬼に連れていかれるぞ、みたいな感じで」
「ハーメルンの笛吹き男もそんな感じだよね。あれも実話を基に作られた童話じゃなかった?」
大勢の子供たちが、笛を吹く道化師のような男に連れ去られたという有名なグリム童話。かつてドイツのハーメルンで実際に起こった事件だと、中学の時に世界史の先生が雑学として話してくれたことがある。
「史実はともかく、話のなかでは男がちゃんとネズミ退治をしたのに、村人がとぼけて報酬を払わなかったのよね。約束を守りましょう?」
「村ぐるみの詐欺みたいなもんだよな。誠実に生きないと、後で報いを受ける」
「誠実って柾樹さん……。あんたがそれを言いますか」
「厚顔だよね」
「巡、後で殴る。葉菜までなんつーことを!」
顔を両手で覆ってさめざめと泣くフリをしだした柾樹を無視して、葉菜はチョコの包みを解いた。両端を捻った透明のセロファンで覆われている。パクリと口に入れると、甘い味が口の中に広がった。
「身近な異世界というのもあるわね」
「どういう意味ですか?」
問いかけてくる後輩を見て思い出したようにチョコを食べ、ふと思いついたという調子で雪乃さんは語り出した。
「”世界が違う”って言うじゃない? 芸能人とか、政界人とか。自分のよく知らない領域で過ごしている人たちは、何かのとっかかりがないと近寄ることさえできない。そういった特別な人たちは得てして強い光を放っているから、相手が受け入れてくれないとっていう卑屈な気分にさせられるのよね」
「雪乃さんでもそんなこと思うんですか」
「巡と同感。いつも高い所で澄ましてんのにな」
「どういう意味かしら、刀根君?」
葉菜も、巡君の意見に賛成だった。自信に溢れて確固たる自己を備えているように見える雪乃さんが、範囲外の分野や、地位や知名度に臆するとは思えなかった。
でも多分、雪乃さんは『強い光』側の人間だ。例えに出てきた芸能人や政財界人たちの隣に立っても、決して霞んだりはしないだろう。恐らくは巡君も、そして柾樹も。
葉菜はいつも、雪乃さんが言うよりもっと身近で、しかも頻繁に『異世界』を感じている。
二つ目のチョコを口へ放り込み、コーヒーを含んだ。おっとりと圧力をかける雪乃さんと、押され気味な柾樹、取りなしている巡君のやり取りを黙って眺める。口の中に食べ物が入っているから意見を挟めない、という体裁を整えて。
言葉にできるのは、ある意味割り切っているからだ。
喉を絡め取り、声を沈めるコンプレックス。
葉菜には何も言うことができない。
「葉菜さあ、付き合ってくれるのは嬉しいんだけど、柾樹先輩と帰らなくていいわけ?」
赤地に小さな白いドット模様の端切れを手に取りながら、園生が問いかけてくる。三枚で税込み五百二十五円のワゴンセール。一枚選んでは「これも可愛い」と呟いて、目移りしている。
部活が終わってから葉菜は、中学からの友だちであるクラスメート、岬園生と手芸店にやってきた。二階まである広い敷地には、眺めているだけで何かを作ってみたくなる細々とした道具や、色や種類の豊富な毛糸が並んでいる。出来上がりに必要な材料全てが揃っているキット等、種類別に整然と配置されていた。
中学の頃から手芸部に所属している園生と行動すると、大抵この店へ寄ることになる。
「付き合うったって、私のも作ってくれるんでしょ? 自分で選びたいし。それに、柾樹も今日は用事があるんだってさ」
葉菜がオレンジの小花柄に目を留めながら答えると、顔を上げない園生が「ふーん」とどうでもよさそうな返事をした。自分から訊いてきたのではなかったかな、園生さん?
余計な気遣いのない親友が、今度部活の課題で小さなヌイグルミを制作し、それをストラップにするという。少し厚かましいかなと思いながらも葉菜が私にも作ってと頼んでみると、「下手でもいいんだったらね」と念を押してから了解してくれた。
下手でもなんて謙遜する必要ないのにと、葉菜は思う。友だちになってから、園生はクリスマスや誕生日ごとに手作りの品をプレゼントしてくれている。小さい頃から細々とした手作業が好きだったらしい彼女の作品は、一見したら見落としそうな所まで手が込んでいて、充分売れるレベルまできている。
両手に端切れを持って、あーでもないこーでもないと悩んでいる園生をこっそり窺う。顔立ちは美人とはいえない。それでも校則違反に引っかからない程度に染められた濃い茶の髪は肩口で緩やかに巻かれ、お手本のように整えられた眉、各部分を際だたせるように乗せられたポイントメイク、グロスが乗せられた唇は巧みな技術で装われている。肌は、自分で手入れに命を賭けていると言うだけあって、ニキビ一つ見当たらない。
園生は自分を華やかに、可愛く見せる方法を知っている子だ。どちらかというと派手めな彼女が、手芸という地味に分類される趣味を持っているだなんて、クラスメイトの殆どは知らないだろう。
「決めた。私、これにする」
園生が葉菜の目の前に広げて見せたのは、チェックとドットが組み合わさった水色の生地だった。水玉模様が好きな園生らしい選択だ。
「葉菜はどうする?」
うーん。
「どうしよう?」
葉菜は、名前が『はな』というだけあって花柄模様が好きだったりする。この素朴な名前には、花のような女の子に育って欲しいという両親の願いが込められているらしい。でも田畑という姓に葉菜という名前は、あまりにもローカルではないか? と複雑な思いがよぎる時もある。実際、小学校の時にはそれで男子にからかわれたりしたこともあった。勿論、中学や高校になった今はさすがになくなったけど。
なんとなく、二回に一回は素直になれなくて、花柄模様を選べなくなる葉菜だった。
今回は――
「私はこれ」
葉菜が選んだのは、涼しそうな生地で出来た緑のストライプ模様だった。
「花柄にしないの?」
好みを把握してくれている園生が、僅かに眉根を寄せる。でも葉菜はかぶりを振った。
「可愛いじゃん。これに黄色のリボンを合わせて、金具部分にトーションレースを結んだらいいと思わない?」
「あ、確かにかわいいかもね。形はクマかウサギ、どっちにするか決めた?」
「んー、園生は?」
「私はウサギ。片耳垂らすんだ」
「じゃ、私もそれで」
「何それ、張り合いないなあ」
「だって、園生が作るんだったらどっちも可愛いだろうし。だったら制作者様のより好きな方に、私は追従します!」
不満そうに口を尖らした園生に、葉菜は冗談めかして返した。同じ形にした方が少しでも園生が楽だろうし、とは口に出さない。遠慮するなと文句を言われるに決まっているからだ。良い子だな、と思う。
「ま、お揃いになるか。あと一枚はどんな柄にしよっかな」
納得してくれたらしい園生の態度に内心でほっと安堵しながら、葉菜も最後の一枚探しに協力することにした。