17
催促するように振られている手を前にして、朝っぱらから葉菜は悩んでいた。
「さっさとしろ、遅刻する」
だったらこんな無茶なことを要求するなと言いたい。
「手は繋いでいいっつったろうが」
確かにそうは言ったけど、TPOを考えるべきではないだろうか。
はあ、と柾樹が芝居感たっぷりに悲しげな溜息を吐いてみせた。
「三ヵ月待てとか言ってヘビの生殺しみたいなことさせといて、自分は何一つ俺の言うことを聞いてくれないつもりなのか……」
「だからって、登校する間中ずっと手を繋ぐってのはさすがにないんじゃ……」
「付き合ってる奴らは誰でもやってることだろーが。それとも」
一度言葉を止めて、柾樹が何かを含んだような笑みを見せる。
「そんなに俺のこと意識してる? 恥ずかしい?」
「誰が!」
と反射的に言い返すものの、続きは出てこない。
意識はしているに決まっている。もう何度も繰り返してきたいつも通りの朝であるはずなのに、玄関を出ると柾樹が待っている――そう思っただけで髪のセットには普段の何倍もの時間がかかった。
気は急いていても念入りに、しかも何度も鏡を見ることを止められなくて、余裕を持って出ようと思っていたつもりがぎりぎりになってしまった。
いつまでも苦悩している時間はない。それになんだかんだで、新たに変わった葉菜との関係を柾樹が周りに知らしめようと思ってくれているのは、嬉しくもある。
意を決すると、葉菜は差し出された手をおずおずと掴んだ。
学校までの道を辿る間、柾樹はやたらと機嫌がよかった。
「見たよ見たよ見ーたーよ」
いつもこちらより遅く教室へ入ってくるくせに、どうしてこんな時だけ先に登校しているのか。
不満に思いながら、葉菜は渋い表情で園生を見上げた。その思考を読みとったのか、にやにや顔の親友は鼻を摘んできた。
「今日は単純に葉菜が遅かっただけでしょ」
やめてよ、と葉菜は園生の手を軽く叩いて外させた。
「これからどうなるんだろー……」
葉菜は疲労と共にがっくり机へ突っ伏した。
『あ、あの子。なんか、刀根君取り合ってクラスの女子とバトったんだって。ほら、最近お昼一緒に食べてた』
『うわ、ソーゼツ。正妻の意地ってやつ? じゃあ、元サヤ?』
堂々と手を繋いで登校してきた結果、学校の敷地内に入る前から様々な種類の視線に晒されてきたのだ。好奇が入り交じったものもあれば、鋭く冷たいものもあった。たまらず手を離そうとしても、人の目を気にしない幼馴染みは当然力を緩めようとしない。
クラスメイトからは「おめでとう!」「上手くいったんだね!」等祝福とも冷やかしともつかない言葉を散々かけられた。
この中の何人かがスピーカーになって昨日の出来事をバラ撒いたのだ。そう恨めしく思いながら、席に着く頃にはすっかり精魂尽き果てていた葉菜だった。
これから、柾樹関連の呼び出しが増えるかもしれない。
「何言ってんだか」
どれほど項垂れようが、園生はにべもない。
「そりゃ、話題の人物とあんな派手な真似してたら注目浴びまくりだって。あんた自身も噂のタネ作っちゃったしね。でもやっと決着ついて、やきもきしなくて済むようになったんじゃん。ここ最近、私がどんだけ気を揉んでたと思ってる。――ほら、これあげるから元気出す」
後ろ頭に何か軽い物を置かれ、疑問に思った葉菜はふわふわしたそれを掴んで身を起こした。
「あ」
片方だけ垂れた耳、金具部分ではなく、マフラー風に首へ巻かれたトーションレース。ぴんと張った耳に、蝶ネクタイ風のリボンが巻かれているところなんて小技がきいている。
葉菜は目を輝かせ、うわぁと歓声をあげた。心労などどこかへ吹き飛んでしまった。
「ストラップ、返ってきたの!? めっちゃ可愛い。これ、ほんとに貰っていいの」
「お、そこまで喜んでくれたら作った甲斐あったなぁ。どーぞどーぞ、かわいがってやって」
「ありがとー、超嬉しい」
どの鞄につけようか、それともスマホか携帯を買った時用に取っておこうか、とためつすがめつ眺めていて気がついた。
「あれ、この子の生地、選んだのと違くない?」
葉菜が園生と一緒に見にいって買った布地は、確か緑色のストライプ模様だった。ところがこのウサギストラップは、全体がオレンジ色の小花柄で出来ている。葉菜が最初に目をつけて、結局止めておいた生地だった。
「んー、やっぱりそっちの方が――」
「田畑さん」
園生が言いかけたところで、割り込んできた声があった。
途端に腹の底に緊張が走る。けれど弱気な内心は努めて胸の奥底へ押し隠した。こんな風に、わざわざ机にまで来て声をかけられたのは初めてだ。
「日向さん、おはよー」
笑顔で相手と向き合った。つい昨日殴り合いをしたことは過去として葬り去り、おくびにも出さなかった。
「これ見て、園生が私の分も作ってくれたんだ。日向さんのクマも良かったし、こっちのウサギも可愛いよね」
「あ、うん、岬さんって腕もセンスもあるから。私も結構参考にさせてもらってる」
「え、うそ」
園生は目を丸くしながらも、評価している日向さんに褒められて満更でもないようだった。いつもクールでシニカルなこの親友が照れ含みに目を泳がせる場面なんて、滅多に見られるものではない。
「それでね、えっと」
こちらも珍しく、日向さんは言葉を詰まらせた。降ろした両手を所在なさげに擦り合わせている。
「うん、どうしたの?」
「班のことなんだけど」
「あ、考えてくれた?」
葉菜は心持ち身を乗り出して日向さんを見上げた。彼女の方から出向いてくれたのだ。もしかしたら、いい返事が聞けるのかもしれない。
「その、だから」
「うん?」
口ごもって逡巡していた様子の日向さんは不意にそっぽを向いた。
「……田畑さんが、そこまで入ってほしいんだったら一緒の班になろうと思って」
葉菜は思わず園生と顔を見合わせた。視界に映る日向さんの横顔は膨れた子供のようで、頬は赤い林檎を連想させる色付き加減だった。
段々、この人の扱い方が分かってきたような気がする。意外なところで感情表現が子供っぽく、放っておけない。これは柾樹も構ってあげたくなるはずだ。
園生も同じことを考えたのか、気がつけば二人で同時に笑い出していた。
「何がおかしいの」と日向さんが憤慨したように睨みつけてくる。
「ううん、嬉しいなって思って。ね、園生」
「そうそう。よろしく、日向さん」
それからすぐに予鈴が鳴って、園生は席へと戻っていった。
日向さんも即座に自分の机に向かうと思っていたら、スカートのポケットから取り出した物を躊躇いがちに葉菜に差し出してきた。
「これ、私のも受け取って」
凝ったワンピースを着たクマが、凛々しくもつぶらな瞳で葉菜の顔を仰いでいる。
「え、でもいいの?」
思っても見なかった申し出を受けて、葉菜はどぎまぎした。
「田畑さん、気に入ってくれたみたいだから」
そこから先、照れ屋の友人は目を逸らしていた。勇気を振り絞ってくれたであろうせっかくの台詞は、トーンを落とした小声で消え入りそうに呟かれた。でも、葉菜にはしっかり聞こえた。
「受け取ってもらえたら、私も……嬉しい……」
「――ありがとう」
頭の中がいっぱいいっぱいで、それだけしか言えない。せめて胸の中で弾むこの気持ちが喉から出ていって、言葉に乗って伝わればいい。
クマを葉菜に手渡すと、日向さんは逃げるように自席へ戻っていった。
ホームルームの間、葉菜は二人の友達に貰ったストラップを机に並べ、ずっと眺めていた。緩む口元はどうやっても引き締まってくれなくて、始終手で隠しておかなければならなかった。
葉菜の好みを理解した上で、わざわざ生地を買い直してくれた園生。
歩み寄りの印に、自分の夢である、染色した素材で作った小物をくれた日向さん。
どちらの作品にも、葉菜の好きな”花”がモチーフとして描かれている。
――ああ、教えたいな。
すぐに柾樹のところへ駆けていって、今あった出来事を喋ってしまいたい。今の気持ちを漏らさず聴いてほしい。
そんな相手がいることが、この上なく幸せだと思った。
お昼は少し前までの通り、グラウンド脇で柾樹と一緒に食べた。
一週間前よりも、肌に感じる気温は高くなっているように感じられた。これから梅雨に向けて雨も多くなる。そうなったらしばらくは、昼ご飯の場所は部室になるだろう。
柾樹作の弁当は恐ろしいことにパワーアップしていた。
白ご飯という土台の上に卵と鳥肉のそぼろ、それから鮭フレークがまぶされている。その黄、茶、ピンクの三色を使って、見事なハートマークの中にデカデカと、”LOVE”と書かれてあったのだ。
無言で目線を移すと制作者は無邪気に笑っていて、「告白弁当。さあ食え」と促してくる。
――どうしてこういうことが平気でできるかなぁ? 葉菜は結構ぎりぎりで、余裕がないというのに。
葉菜は自分だけが振り回されているような気がして悔しくなり、いつものようにぐしゃぐしゃとかき混ぜてやった。
「俺の告白が!」と柾樹は悲壮な声を出していた。
教室に戻ると、園生と日向さんは一緒に帰ってきた。後で訊くと、手芸部の仲間と食べてきたと言っていた。
良かった、と思った。
「あ、弓弦さんがいる」
「お、ほんとだ、珍しい。ちわっす」
部室に巡君と入っていくと、寝癖頭で眼鏡をかけた、レアな人が座っていた。後から来た柾樹や雪乃さんも驚いていた。
「全員揃うなんて滅多にないよな」
定位置に座った意見交換促進部部長が感慨深く言う。柾樹は雪乃さんの向こうにいる弓弦さんに顔を向けた。
「おい、お前もっと顔出せよ。部員なんだから」
「気が向いたらね。それより柾樹、やっと田畑と付き合うことになったの? おめでとう」
本当にめでたく思っているのか今いち掴みきれない、抑揚のない調子で弓弦さんが言い添える。こういうことを改めて、しかも親しい人みんなの前で発表されても、葉菜としてはどう返せばいいのか分からなくなる。
柾樹と二分されているだろう視線に対処のしようがなくて、葉菜は俯いてしまった。
武士の情けなのか、巡君は教室で葉菜がしてしまった大胆な告白を黙ってくれているようだった。まあどうせ、この場にいる先輩たちは既に噂で聞いているんだろうけど。
しかしそんな繊細な心の機微は、柾樹には備わっていないようだ。
お、とほくほく顔が想像できる声で弓弦さんの発言に乗っている。
「興味のあること以外はどうでもいいって顔に書いてある朴念仁の割に、よく気付いたじゃねーか。だろ、だろ? めでたいよな。やっと俺の気持ちに葉菜が応えたんだよ。葉菜が生まれて十六年目、これまでよく待ったと俺は自分を褒めてやりたい。――まあ、まだ待たされてんだけど」
「柾樹!」
直ちに顔を上げ、余計なことを言うなと葉菜はお盆をたぐり寄せた。
「十六年ってあんた……」
呆れたように呟く巡君の後を、雪乃さんが引き継ぐ。
「赤ちゃんの頃からなんて筋金入りね。刀根君ならあながち言い過ぎ、って切り捨てられないのが怖いところなんだけど」
「本当のことだもんよ」
「で、まあそんなことはどうでもいいんだけど」
自分で話題を振っておいて、弓弦さんは流れをぶった切った。「聞けよ……」と虚しく呟く柾樹を放置して葉菜と巡君の胸辺り、クラス章を交互に見ている。
「田畑と沖谷って1-3だね?」
「はい」
「そうですけど」
葉菜は、自分と同じく不思議そうな表情をしている巡君とアイコンタクトを取りながら答えた。
「君らのクラスに、”もりやまかわこ”って女子いる? 漢字はそのまま”森山川子”でいいと思うんだけど」
「はあ?」と葉菜は巡君と同時に声を上げた。
「なんだその名前は」と柾樹が文句をつける。
「いかにも偽名くさいけど」雪乃さんも訝しげに意見を挟んだ。
「田畑葉菜って名前もかなりハマってるから、もしかしたらあるのかもって思ったんだけど……」
「放っといてください」
葉菜は口を尖らせ、失礼な見解をシャットアウトした。それでも親切に教えてやった。
「そんな名前の女子いませんって。どうしてそんなこと訊くんです。何かあったんですか?」
「何かあった、というか会ったんだけど――――じゃあ、座敷童だったとか……?」
「はあ!?」
独り言のように呟いた弓弦さんに向けて、今度は全員が同時に声を上げた。
やっぱりこの人のことはまだよく掴めない。そう心の底から思った葉菜だった。
日向さんは葉菜とやり合ったことである程度心の内を吐露し、自分を覆っている壁を低くしてくれたようだ。他のクラスメイトたちとも楽しそうに喋っている姿を時々見かけるようになった。
ある日宮内さんと二人で向かい合っている場面を目にして、安堵したことは本人にも秘密にしている。園生によると、部活帰りの誘いにも乗ってくれるようになったということだ。
それから、日向さんを加えた三人で行動することが増えた。
「ま、田畑さんの強みなんて幼馴染みってことだけだし。柾樹君だっていつかは私の方がいいって目が覚めるでしょ」
などと本気とも冗談ともつかないことを言って、葉菜を慌てさせてくれることもある。まだまだ油断はならないようだ。
柾樹と日向さんが一緒に帰っていたのはあの木曜日が最後のようだった。
葉菜のアルバイトがない日は、今まで通り二人で家路を辿っている。
尤も柾樹は葉菜の帰宅が遅くなることに不満を持っているようで、「危ないから毎日迎えにいく」と言われた。そんなことをしたら朝は一緒に登校しないと宣告して、なんとか思い止まらせている。それでも時々迎えにくることはあって、そんな時は素直にお礼を言って、二人であの公園を散歩してから帰ったりしている。
もちろん、手は繋いで。
何度か試してみたものの、もう自室の扉が不可解な世界に通じることはなかった。
あれは、葉菜の心の揺らぎが引き寄せてしまった現象なのかもしれない。
柾樹に向ける想いがしっかり定まった今は、異世界を感じることはない。
後日、母親がアルバムの整理をしている場面に行き当たった。ピンクの布地で、表紙に葉菜の名前と生年月日が刺繍されている、中々気合いの入ったアルバムである。
「へぇ、我ながら可愛い」
赤ちゃん期、幼児期と、ページをめくるごとに小さくあどけない葉菜が成長していっている。柾樹が”ガチ天使”と評していたのもあながち間違いじゃないな、などと自画自賛しながら見ていた。
とはいえ、となりにくっついている子供服の外国人モデルのような幼い柾樹に目を移すと、その自惚れも瞬時に霧散するのだけど。
そして気付いた事実に葉菜は眉根を寄せた。
「なんか、やけに柾樹が一緒に映ってる写真が多くない?」
多いというよりも、ほとんどの写真がそうだった。はっきりいって、父親といるものよりもよほど多い。
「そりゃあんた」
葉菜の母親は何を思いだしているのか、豪快に笑い出した。
「柾樹君はあんたの傍をてこでも離れようとしなかったから」
笑いを収めようとしない葉菜の母が語るところによると。
お隣同士、さらには引っ越してきた時期もほぼ同じということもあり、葉菜が生まれる前から田畑家と刀根家の母親たちは仲がよかった。田畑家の母が妊娠中、赤ん坊の柾樹は遊びにくるたびに這っていって、葉菜が入っているお腹を撫でてあーうーと語りかけていたという。
葉菜が生まれてからは、柾樹自身たっち、あんよの時期で歩き回りたいはずなのに、新生児の傍に誇張ではなくべったり貼りついていたらしい。
「一歳の幼児なんて力の加減も知らないし、していいことと悪いことの区別もつかないからね。柾樹君があんたの所行くたびに、慌ててこっちもついていってたんだけど」
ここでまた、堪えきれないように母が笑う。
「柾樹君ったらほんと丁寧にあんたの頬やら頭やら撫でまくっててねー。くんくん匂い嗅いだりとか。そりゃもう可愛くて可愛くてしょうがないって感じでにっこり笑いかけて、舌っ足らずにはな、はなちゃんって呼びかけてんのよ。柾樹君が最初に覚えた言葉って”はな”じゃなかったっけ? こっちが傍につけない時にあんたをベビーベッドに入れて柵を上げてたら、届かないってぎゃんぎゃん泣き喚くのよね。まだ赤ちゃんって言ってもいい時期の子が、勝手に家抜け出してあんたの横で一緒に寝てるの見た時は、ほんとびっくりしたわ。ベビーゲートもちゃんと閉まってたのにね、どうやって開けたのやら」
おかしそうに言いながら、母はある写真を指し示した。
幼児が赤ん坊の手を握り締めて仲睦まじく眠っている、平和そうな写真である。無心な顔からは寝息さえ聞こえてきそうで、偶然にも同じ角度に二人の首が傾けられており、笑いを誘われた。
「葉菜には絶対乱暴なことをしないし、一緒に置いといたら二人ともにこにこしてるって分かってからはもう放っといた。柾樹君がいるおかげで、あんたの子育て楽だったわ。刀根さんと、この二人生まれる前から恋人同士だったんじゃない? って話してよく笑ってたわー」
あっけらかんとした昔話を、葉菜は口を挟む余裕もなく聴いていた。
いや、笑えないって。
どれだけ徹底しているのだ、柾樹は。
そして部活中、幼馴染みが言っていたことが脳裏に蘇った。
『葉菜が生まれて十六年目、これまでよく待ったと俺は俺を褒めてやりたい』
――まさか、あれは本気だったとか?
いやいやいや、と一瞬で考え直し、葉菜は勢いよくかぶりをふった。
その後この件が頭をかすめる時はあったものの、はっきりとした疑問として浮かび上がってくるわけではなく、柾樹に問い質したことはなかった。現実離れしていると、いつも葉菜自身がすぐに否定しているせいでもあった。
だって、まさか……ねえ。
<終わり>
※これにて完結です。
最後までのお付き合い、どうもありがとうございました。