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葉菜の異世界  作者: せおりめ
本編
15/26

15

 ここの本屋では、一日の業務が全て終了すると一度全員で集まり、「お疲れさまでしたー」と挨拶し合う。

 葉菜はアルバイト自体が初めてなので、他の所がどうなのかは知らない。ただ、この習慣は従業員の団結に一役買っているとは思う。このアルバイト先は、割と皆の仲が良い。

 ぞろぞろと出入口を通過し、社員がシャッターを閉めたところでお開きとなった。

 日はすっかり落ちて、空は暗くなっている。とはいえ駅に程近いこの界隈には車のライトや店の灯りなどの光が満ちていて、人通りは少なくなかった。

 さて、とお目当てを捜すべく顔を上げると、目線の先に電柱にもたれて手を上げている人影を見つけた。店で見た時から思っていたけど、どうやら一度帰宅したらしく、シャツにパンツという楽そうな格好に着がえている。


「彼氏のお迎えなんてやるねー」


 三つ年上の、よく面倒をみてくれる先輩が肘で突く真似をしてくる。葉菜が返事をする前に、「おやすみ」と素早く言い残して去っていった。気を利かせてくれたつもり――なんだろうか?

 その背中を僅かな時間見送る間に躊躇いを振り払い、一歩一歩ゆっくり電柱の方へ歩いていった。

 柾樹の方も途中で身を起こし、葉菜に近付いてくる。


「お疲れ」


 向けられる反応が不安だったらしい。自分でも知らないうちに、肩を強張らせていたようだった。案外ねぎらうような調子で声をかけられ、葉菜は身体から余計な力が抜けていくのを感じた。


「腹減ってねぇ? どっかその辺でなんか食う?」

「お腹は空いてるけどやめとく。お母さんが用意してくれてると思うから」

「そうか……じゃあ、ちょっとでいいから付き合って」


 ん、と当然のように手を差し出される。

 葉菜は内心でええいとかけ声を上げながら、でも逡巡無く指を絡めた。肌と肌の隙間を少しでもなくすためにぎゅっと握り込むと、同じだけの強さで体温が伝わってくる。自分から恋人繋ぎをしたのは、これが初めてだった。

 今、何を考えているんだろう?

 目的地に着くまで喋るつもりはないのか、柾樹は進行方向を見据えたままだんまりを通している。

 ブラウス一枚で過ごせる気温の中、柾樹と並んで歩きながら、葉菜は今まで気にも留めなかった手の平にかいているだろう汗のことが気になった。

 落ち着かない胸の内が口を開いた途端に溢れ出てきそうで、葉菜も終始無言で俯いていた。




「そこに座ろう」


 視界の先に、電灯の明かりが降り注ぐベンチがある。高い位置にある光源には、白く染まった無数の羽虫がまとわりついている。

 柾樹に促されてやってきたのは、近くにある広い公園だった。遊具があるわけではなく、計算されて植えられた樹木や花を、整備された遊歩道を進みながら楽しむタイプの場所である。

 街の明かりも離れたこの場所には影響を及ぼせないようだ。柵の外に広がっている眺めが、黒い台紙に小さく裂いた黄色い折り紙を無数に貼りつけてある、図工作品のように感じられた。

 おかげで、店の前ではほとんど拝めなかった星も綺麗に見える。


 ベンチに近付くにつれて虫の声が遠ざかり、水の音が大きくなっていく。

 真後ろに、結構大きな噴水がある。段差を水が落ちていく作りのもので、一時間に一度だけ頂上の仕掛けが水を噴き上げる。

 今はざあざあとした流れに電灯の光が陰影を作る静かな場所だけど、昼間は跳ねる雫が陽光を反射する、待ち合わせ場所にも使われるこの公園の目玉だった。

 残念ながら夜の間はその機能も止められている。

 まずは柾樹がベンチに腰を落とし、続いて葉菜も倣った。手は繋いだままで、どちらも離そうとしない。


「お互いに色々訊きたいことがありそうだけど……」


 葉菜よりも大分長い足を組み、ぼんやり前を向いたままで、柾樹が口火を切る。


「どっちから質問する?」

「……じゃ、私から」


 質問をするときの正しい姿勢、自由な方の手を緩く上げて、葉菜は一番手を譲ってもらうことにした。まずは直近に感じた疑問を解消したかったのだ。


「どうぞ」

「私のバイトのこと、いつから知ってたの?」


 本屋に現れた柾樹は偶然葉菜を見つけて驚いたという風ではなく、分かっていて敢えて訪れたような態度を取っていた。


「ああ、暁に教えてもらった」

「日向さん?」


 予想通りでもあり、意外でもある答えだった。

 彼女に、葉菜からわざわざ知らせたことはない。レジで対面した覚えはないけど、店に来ていたんだろうか。

 首を傾げていると、言葉を止めてしまった葉菜の反応を確かめるためだろう、柾樹がこちらを向いた。


「ああ」


 納得したように言う。


「暁は昨日、部活の時に園生ちゃんから聞いたって」

「あー」


 合点がいって、葉菜は唸りとも返事ともつかない声を出した。今朝、園生は葉菜について日向さんと話したと言っていた。多分、このことなんだろう。

 それにしても園生、と心の中で毒突いた。園生は、柾樹に伝わることを見越して日向さんに喋ったのではないだろうか。

 最近の親友は、どうにも不甲斐ない相方に対して厳しいような……。好意的に解釈するならば、わざと愛のムチを振るってくれているとも表現できて、それは裏を返せば心配してくれている、気にかけてくれているということで、ありがたいことではある。

 あるのだけど。

 葉菜としてはどうしても、そっちに何かあった時は首を洗って待ってろよ、という不穏な方向にしか考えを持っていけないのだ。どうやら自分が素直になれないのは、柾樹に対してだけではないらしい。


「じゃ、今度はこっちの番な」


 柾樹が口を開く。葉菜は膝に置いた手で制服のスカートを掴み、身構えた。


「バイトのこと、どうして俺には黙ってた?」


 必ず訊かれるとは思っていた。とはいえいざその場面に立たされると、返答に困る。

 多分理由はいくつもあって、けれどその一つ一つの強さに大きな差はなくて――だからどれを抜き出して、こうなのだと説明すればいいのか選びきれない。

 でも、一歩を踏み出そうとしたきっかけははっきりしている。


「柾樹の知らない所で、ちょっと頑張りたいと思って……」

「俺の知らない所? どうして俺が知ってちゃ駄目なんだよ」


 繋いでいる手に、力を込められる。痛い程でないとはいえ、葉菜は柾樹の機嫌が降下していると感じた。


「だって」


 葉菜も唇を尖らせ、でも柾樹から目を逸らせながらふて腐れたような声を出した。


「柾樹反対したじゃん」

「確かに反対はしたけど……」


 柾樹が複雑そうに頬を掻く。


「あん時はお前、いかにも思いついて言ってみましたって感じだったし。アルバイトって働くってことだからな。そんなんで続くとは思えなかったんだよ」

「携帯だって欲しかったんですー。それに私、入ってすぐ辞めるようなこらえ性のない人間じゃない」


 園生に言われて初めて気付いた携帯電話のことは、いかにも自分の意見として取り入れてみた。働いてお金を稼ぐことについては、たった三日の間に何度も注意され、理不尽なことにも頭を下げ、学校の勉強とは違う難しさといくつかの厳しさを味わってはきた。

 それでも逃げだそうなどとは思わなかったのだ。

 だから柾樹に侮られていたのかと思うと、少々カチンとくる。


「まあ、確かに俺が悪かったよ。頭ごなしだった」


 柾樹が軽く息を吐く。どういう心境の変化なのか。

 まさか謝罪の言葉をもらえるとは思わず、内心では大いに驚いた葉菜だったけど、ふくれっ面は崩さなかった。


「でも勉強はもう見てくれないんでしょ」

「あれは俺が意地を張ってただけ。ちゃんと今まで通り協力する」

「ふーん……」


 ――それならありがたいんだけど。いやに優しい空気に包まれているようなこの状況に気後れして、葉菜はぶっきらぼうな声でそう付け足した。

 無意味に空を仰いで、夏の大三角を見つける。

 一度は柾樹に頼るのは止めようと決意したはずなのに、受け入れられたらもう決心を翻している。年上の幼馴染みに甘やかされることにすっかり慣れてしまっている自分を不甲斐ないと思うものの、あるべき形に収まって心はすっかり安堵していた。

 人は、一朝一夕には変われないものらしい。

 まあせめて、授業はもうちょっと身を入れて受けるようにしよう。それからバイトにもっと慣れてきたら、帰宅してから復習する時間も捻出しよう。

 そうそう、いつも会計を持ってもらっているのだから、初給料が出たら柾樹に何か奢ってあげるのもいい。

 そうやって、少しずつでも柾樹の背から抜け出せるようになったら。


 そうしたら、誰に何を言われても顔をぐいと上げて、隣の位置で自信を持って柾樹に笑いかけることができるのかもしれない。

 なかなか遠大な計画ではないか。

 そう思うと楽しくなり、葉菜は柾樹と繋いでいる手をぶんぶん振った。

 突然の行動に、葉菜が好きな人は目を丸くしている。


「私ね、日向さんに柾樹を取られたと思って悔しかった。もう、胃の中が沸騰しそうなくらい腹が立って、こんだけ悲しいのは初めてだってくらいいっぱい泣いた。あんな努力しててキラキラしてる、かっこよくて可愛い人にはとても敵わないって」

「暁は……、タマの妹だ」

「うん、そうなんだってね」


 日向さんは、自分のことを”友達の妹”だと言っていた。柾樹は、”タマさん関連の用事”で日向さんと帰っていた。

 でも、どうしても分からないのが。


「タマさんって”たまき”さんって言うんでしょ? なんで日向さんと名字が違うの?」


 へ? と柾樹が素っ頓狂な声を出す。次いで、「ああ、なんだそういうことか」と噴き出すと、おかしそうに身を屈めて笑い出した。

 葉菜としてはきょとんとするしかない。


「なに、なんなの」

「お前、勘違いしてるよ」


 上体を起こすと柾樹はそのまま背もたれに寄りかかり、愉快そうに目から頬にかけてを拭った。それでも表情から笑いの名残は取り切れてないようだ。


「あそこんちの名付けは特殊だって言ったろ。女の暁が男みたいな名前。とくると、兄貴のタマは逆に女みたいな――あいつの名字は暁と同じ日向だよ。たまきは名前の方。環境のかんって書いて、”環”だ。あいつたまきって呼ぶと嫌がんだよ。だから友達連中にはタマって呼ばせてる。ネコみたいな名前とどっちがマシなんだよっつー話なんだけどな」

「あっ……そうなんだ……」


 葉菜は拍子抜けして肩を落とした。タマさんのことはずっと、”玉木”さんだと思っていた。種明かしされてみれば実に自明の理な事実だったのだ。

 大体よく考えてみれば、柾樹は友達のことは下の名前で呼ぶ。思い込みとはまことに恐ろしい。

 挫折感を味わいながらも、真相解明したい事柄はもう一つある。


「日向さんと帰ってたのって、もしかして元カノのとこ行ってた?」


 今日、日向さんと言い合っている時に思い出した。かつて柾樹には、染色を習っている彼女がいた。

 この問いかけは、何故か柾樹の動揺を誘ってしまったらしい。浮気がばれた亭主のように、何か上手い言い訳を捻り出そうとする様子で落ち着きなく視線を彷徨わせている。わざとらしく上を向いたり、街の明かりを追い求めて遠い目をしたり。


「……暁も一緒だったし、なんも含むとこはないからな?」

「分かってるからさっさと言ってよ」


 別に、今さら柾樹の元彼女についてどうこう疑いを持とうとは欠片も考えていない。葉菜の興味の対象は、あくまで日向さんの方だった。

 しかしその存在を盾にしていることからすると、どうやら柾樹にとって友人の妹は本心から恋愛対象ではないようだ。ただし、ここまで元彼女について反応を示されると、逆にそちらの方を疑いたくなってくる。

 意図的に疑いのまなこを向けてやると、柾樹は自分を落ち着かせるためか、こほっと空咳をした。


「前々から暁と約束してたんだ。高校に無事入れたら、染色やってる知り合い紹介するって」

「知り合いねぇ……」

「いや、だからもうそういう関係じゃねーって」


 葉菜の常識からすれば、別れた恋人とは気まずくて、もう関わり合いを持ちたくないと思う。ただ、恋人を持ったことはないからあくまで想像でしかないのだけど。

 その後もこだわりなく連絡を取れるのは、よっぽど軽い付き合いだったのか……。なんにしろ柾樹の人柄によるものなのだろう。

 それにしても、さっきから柾樹は葉菜に誤解させないようにとやけに言葉を重ねてくる。昔は大っぴらに報告してきたくせに、これはどういうわけなのか。


「中学の時、あいつすげぇ頑張ってたよ」


 気を取り直したように柾樹は目線だけを上に向け、前髪をつつきだした。


「俺からしたらほっそい身体で肩肘張って、倒れないように足を踏ん張って。目を見開いて、暗い後ろは振り返らずに前だけを目指してた」


 葉菜が日向さんの事情を知っていることは、もう本人から聞いているのだろう。

 柾樹は目の前にある手を、何かを投影させているように暫し眺めると、憂うつそうにポケットへ移動させた。

 繋いでいる手に、強くなったり緩まったりする力を感じる。存在を確かめるような仕草に応えるべく、葉菜は握り返してやった。


「その時点で、何度か告白されてたんだ。暁は気位の高いネコみたいなとこがあるだろ? 最初の頃は俺がいかにも遊んでそうな感じが気に食わなかったみたいで――まあ事実遊んでたんだけど。みるからにこっち来んなって感じでつんけんしててさ。面白がってつついてる内になーんか態度が可愛くなってきたなと思ってたら、寄越してくる目に熱心な温度みたいのが混じりだして。やばいな、ってそれからなるべく構わないように気をつけてたんだけど遅かった。葉菜の存在はしょっちゅう話題に出してたんだけどな」


 いやぁ、モテる男は辛い辛い、と茶化すように呟いている。葉菜は繋いだ手に敢えて必要以上の力を込めて、ぎりぎりと締め上げてやった。


「二回目以降は冗談混じりだったけど、本気なのは分かってたから。暁は俺にとっても妹みたいにかわいい存在で、どうしてもOKしてやれなかった。その分あいつが苦しんでた時はなんとか励ましてやりたくなって、ちょっとでも元気づけられたらいいと思って目の前にニンジンぶら下げたんだ」

「そんなご褒美なくても、日向さんは充分だったって思ってるよ」


 葉菜はぼそりと呟いた。え? と聞き返してくる柾樹には、かぶりを振っておいた。聞こえなかったのなら、別にそれでもいい。

 結局の所、柾樹は今回一つも嘘を吐いていなかった。タマさん関連の用事というのは、多分妹想いのお兄ちゃんによろしく頼まれたのもあって、その通りだったのだろう。

 以前、何も事情を知らなかった葉菜が柾樹を問い詰めたときに、『葉菜が何も訊かなかったから』と答えが返ってきて大層憤慨したものだった。けれどこれも全く事実を反映していた。

 折に触れて柾樹が説明しようとする素振りを見せても、葉菜自身が必死で耳を塞ぎ、聴こうとしなかったのだ。

 言いがかりをつけられ、勝手に誤解されていた柾樹は被害者と表現していいほど――いやいや、でもこれまでの素行の悪さが原因でもあるのだし、柾樹の自業自得だともいえるのでは。


「なんだかなぁ……」


 背後で流れる水の音が耳に優しく注ぎ込まれてくる。目の前に横たわる薄闇の遊歩道を通過するのは、時折吹く弱い風ばかり。

 今まで自分が取ってきた行動や勘違いを思うと、世界中の全てから身を隠したいような気分になってくる。

 葉菜はベンチの上に靴のかかとを乗せ、膝を抱えた。少しでも小さく縮こまっていたかった。


「……パンツ見えるぞ」


 柾樹が呆れたように忠告する。

 すぐさま葉菜は反論した。


「ちゃんとスカート、膝に巻き込んでるから見えないってば」


 女子高生として当然の作法だ。


「柾樹さぁ」


 くぐもった声が出る。膝に顔を埋め、その状態で葉菜は訊いた。


「年上の人ばかりと付き合ってたのって、私のため?」


 今、とてもじゃないけど顔を上げて柾樹の顔を見る勇気はない。スカートに包まれた膝と身体の間にある空間は狭く、自分が吐く息だけですぐに温まってしまう。そのせいで顔は熱くなり、息苦しい酸欠状態だ。


「め、巡君がね」


 早く答えてほしいと返事を望みながらも、それを得るのが怖くてすぐに言葉を継いだ。


「そうじゃないかって。私を周りの目から逸らすために、柾樹はそうしたんじゃないかって」

「巡が……?」


 柾樹が意外そうな声を出す。葉菜としてはそんな所に注目しなくていいから、早く正直なところを打ち明けてもらいたい。

 きっと、手の震えは繋いだ手からも伝わっているに違いない。


 そんな期待に満ちた緊迫を粉みじんに打ち壊してくれるのが柾樹だと、長年の付き合いで分かっているはずなのに。

 どうしていつも学習しないのか自分は。

 後に葉菜は、そう忌々しく思ったものである。

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