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「日向さんおっはよー」
「え? あ、おはよ……」
「今日もお昼休みよろしくね」
必要以上に元気な声で挨拶し、ついでに昼の約束を取りつけると葉菜は自分の席へ戻っていった。
「あんた、どうしたの?」
園生は呆気に取られているようだった。
まあ驚くのも無理はない。予鈴が鳴るまでの短い時間お喋りしていると、葉菜が急に席を立ち、登校してきた日向さんの所までわざわざ声をかけに行ったのだ。接触の機会が増えてきたとはいえ、大した用もないのに話しかけたのはこれが初めてだった。
「んー」
少しあからさま過ぎただろうかと若干落ち着かない気分になりながら、それでもなんともないような顔をして葉菜は答えた。
「もうちょっと親しくなれたらいいかなって思って」
「親しくってあんた……」
何考えてんの? と園生が葉菜の思考を推し量ろうとするかのように、あきれ顔で見つめてくる。
いささか居心地の悪い思いがして、葉菜は落ち着きなく視線を彷徨わせた。
葉菜が園生にとって奇妙に思える行動を取ったのは、もちろん昨日宮内さんから聴いた話が原因だ。ちらりと隣の席を見ると、鞄は掛かっているけど本人はいない。教室内にも姿が見えないから、どこかのクラスへ遊びに行っているのかもしれない。
降りかかった災難のような過去話を聞いて今までの態度を翻すなんて、葉菜としても自分の行動に胡乱な視線を向けたくなる。安っぽい青春ドラマか何かのようだ。
でも、葉菜も一晩色々考えた。なんにしろ、宮内さんとファミレスへ行く前から日向さんは気になる存在であったのだ。しかも彼女の夢の話を聞いて、心のメーターの針はいくらか好意寄りになってきていた。
だから日向さんと友達になりたいと思うのは中学時代の話だけではなく、自分の希望に添うことなのだと葉菜は無理矢理結論付けた。取り敢えず、柾樹のことは脇に置いておいて。
ただ、いざ仲良くなろうと思っても、今までの関係が関係だったため具体的な方法が思い浮かばない。
結局は細かな挨拶を積極的に行い、移動教室の時には一緒に行こうと誘い、何かの機会を見つけて話しかけるという作戦でいくことにした。
しかし最も自然だろうと思って決めた作戦も、園生や肝心の本人、日向さんの反応から判断すると逆に不自然に見えるらしい。
――柾樹みたいに対人スキルが上級レベルだったら、違和感なんて持たれないんだろうな。
そう考えて、微妙にへこんでしまう葉菜だった。
ひとまず、園生にはこう返しておくことにした。
「まあ、もっと時間のある時に説明する……」
「ふーん。裏目に出るようなことになんなきゃいいけどね」
人の心を読んだようなことを言う上に、不吉な予言をしてくれるではないか。
どこまで分かっての発言なのかと逆に探るように見返してやると、園生はそういえば、と後れ毛を摘んで引っ張った。今日の彼女は整いすぎないお団子ヘアだ。
「昨日の部活では結構日向さんと話せたよ。用事があるって途中で抜けてっちゃったけど」
「どんなこと喋ってたの?」
「まあ、色々? 手芸のこととか――あと、葉菜のこととかもね」
「え、何」
二人で一体自分の何を肴にしていたのか?
気になって身を乗り出すと、デコピンしてやりたくなるような含み笑いに迎えられた。
「ふふーん、ひみつー。あ、予鈴鳴った。じゃね」
この学校のチャイムはいつも肝心な所でストップをかけてくれる。
実は見張っているのではないかと、やさぐれたくなる葉菜だった。
そしてこの日一日葉菜は、作戦を実行するよう奮闘し続けた。
休み時間になるとそそくさと日向さんの席までおもむき、たっぷり残っているにも係わらず、シャーペンの芯がないのだと訴える。
「園生も予備が残り少ないんだって。ごめん、貸してもらえないかな」
などと頼み込んで、ついでに雑談に付き合わせたり。
次の時間が体育の時は日向さんが席を立つタイミングをさりげなく計り、園生を引き連れて丁度いいからと移動を共にする。
「日向さんも今から? 着がえる時間なくなっちゃうよ、急ごう」
などと白々しく言って、更衣室でも隣をキープしたり。
学食では柾樹が葉菜に会話を振ってくればそこに日向さんを引き込んだりと、幼馴染み二人だけのやり取りにならないよう気を配った。
行動すればするほど台本の筋に登場人物の動きを従わせているような、わざとらしさが付きまとってくる。葉菜自身そんな気はしていた。
日向さんはどことなく不快そうで、園生は肩を竦めたり口をすぼませてこめかみを掻いたりと、『苦言を呈したいことは沢山あるが、敢えて何も言わないでおいてやる』と、ありありと書いている仕草と表情をしていた。
弁当を食べる僅かな時間しか接触してない柾樹にさえ、時折怪訝そうに眉根を寄せられた。
日向さんの不器用なほど真っ直ぐな性格、そして周囲から好く思われようとは考えもしない、折衝能力の低さ。
それらを踏まえると、葉菜の行動がどんな結果を産むのか――
ある意味当然の成り行きだったかもしれない。
木曜日は普段よりも授業時間が長く、七時限ある。最後の一時間はロングホームルームが宛てられていた。
来月の中間試験が終わってからすぐ行われる校外オリエンテーションについて、概要の確認、それから各係が取り決められた。
他に男女織り交ぜて各五、六人の編成で班を作らなければいけない。それは来週のロングホームルームまでに好きな者同士で決めて、ついでにその中から班長と副班長を選んで専用用紙に書いて、先生に提出することになった。
時間が中途半端に余ってしまい、以降は自習にしますと克美サンが出ていくと、途端に教室の空気が弛緩する。他の皆と同じく立ち上がると、葉菜は廊下側の中央にある園生の席へ向かった。
「班、どんな風にする?」
「男女混合ってとこがねー。しかもまだ六月にならない時期で、女子間でさえぎこちなさが残ってるってのに。先生も、男女関係について微妙なお年頃の心理を分かってくれりゃいいのに」
女子ならともかく、男子には声をかけにくい。いっそのこと、クジか何かで決めてくれればよかった。
しかしそういえば、このクラスには葉菜とも気心の知れた男子がいるのだった。
思いつき、ふり返るとちょうど後ろに思い浮かべていた幼馴染みが立っていた。
「あ、巡君」
「葉菜、班の人数もう決まった?」
「ううん、まだ。巡君誘おうと思って」
「じゃあ、俺と慶一郎入れといて」
慶一郎とは、巡君の従兄弟である鳴瀬君の名前だ。
「鳴瀬君だけでいいの?」
葉菜は教室を見回しながら訊いた。巡君には、他にも何人か仲のいい男子がいるはずだ。
「柾樹さんから厳命されてんだよ」
途端に巡君が苦い顔を寄越してきた。
「葉菜に余計な男を近づけるなって」
なんとも返答のしようがなく、唇の端と端を下げるという奇妙な表情で巡君を見上げた。
「ま、今さらといえば今さらな行動だろ。俺に文句はないよ、どうせお前と岬以外に組む女子なんていなかったし」
いや、巡君と同じ班になりたい女子なんてクラスにいっぱいいると思うんですけど。心の中で反論していると、指で額を軽く突かれた。
「言いたいことがあるんなら、ちゃんと柾樹さんに言えよ」
じゃな、と言い置いて、巡君は席へ戻っていった。
額をさすりながら再び廊下側に向き直ると、三日月を目と口に配置したような笑みに迎えられ、葉菜は顔をしかめた。
「何さ」
「いやぁ? 沖谷も柾樹先輩に使われて大変だなって思って。でもヤツがいる限り、先輩も安心だね」
「だーかーらー」と言い返しかけて、もっと大事な用を思い出した。
何を考えているのかさっぱり分からない柾樹と、頑なに思い込みを変えようとしない園生に構っている場合ではない。
「班員、あと一人空きがあるよね。日向さん誘ってくる」
「はいはい行ってらっしゃい」
古女房のような園生の声に送り出され、葉菜は日向さんの席に歩いていった。案の定誰と喋るでもなく、一人でオリエンテーションの栞を読んでいる。
「日向さん」
机に両手を置き、声をかけた。
「まだどこの班に入るか決まってないんだったら、私たちのとこに入らない?」
聞こえないはずはないのに、日向さんは顔を上げないままだった。
不思議に思い、もう一度名前を呼ぼうとすると、ぼそっと何かを呟かれたような気がした。
「え、何?」
よく聞こえない。詳しく聴き取ろうと耳を近づけた瞬間、日向さんが焦れたように顔を上げた。
「いい加減にしてって言ってんの」
敵と認めた者に送るような激しい眼差しに見据えられ、言葉も出ないまま葉菜は立ち尽くした。
それほど大きな声でもなかったのに、まず葉菜たち二人のすぐ傍の席から。それから外側に向かって、あっという間に教室中が静まりかえっていった。日向さんの声は、泉を打って波紋を広げる小石のようだった。
至るところから視線を感じても、たった一人から目を逸らせない。
「昨日田畑さん、宮内さんとファミレス行くって言ってたよね。どうせあらいざらい打ち明けられたんでしょ、私のこと」
僅かに首を動かすと、顔を真っ青にして口を押さえている宮内さんが視界に入った。どうやら昨日の放課後、園生と話していた内容が日向さんの耳に届いてしまったらしい。
「こそこそ探んなくても、ここで私が教えたげるよ」
両肘を机に突いて、組んだ手に顎を乗せる。微笑さえ浮かべる余裕のある日向さんが、葉菜には異質に映った。
「私は中学の時にクラス中から総スカン食らってました。イジメられていました」
教室のあちこちから、「え、ほんとに?」等囁き声が届いてくる。
これで満足? と問うように首を傾げられ、葉菜は困惑した。
「お優しい田畑さんは友達のいない私が寂しい思いしないように、何かと話しかけてくれたんだもんね? ここんとこは柾樹君まで譲ってくれようとしちゃって、内心は邪魔で邪魔で仕方がないって思ってたくせに」
「別にそんなこと……」
「誤魔化さないでよ、もううんざり!」
突然立ち上がると、日向さんは怯む葉菜と鼻面を突き合わせた。
「私が柾樹君と帰ってるってゆさぶりかけた途端、物分かりいいふりして弁当に誘ってきたり。そのくせ私たちが喋ってるのを恨みがましい目で追って。どっちつかずで気持ち悪いのよあんた。何善人気取っちゃってんの? 恋を譲って陰で泣く女してるのがそんなに気持ちよかった? 物欲しそうに見てるぐらいなら、さっさと正直に告えばいじゃない!」
隠しておきたい自分の醜い部分を的確に暴かれ、しかもクラス中に公開されてしまい、葉菜は羞恥で全身が真っ赤になるのが分かった。心臓が激しく脈打ち、身体中、末端にまで血液が張り巡らされる。髪の毛一本一本までに神経が行き渡り、ざわざわと揺れているような気がした。
さらには背後から、葉菜の感情を逆撫でするように「そうだそうだ。いいぞー、もっと言ってやれー」と日向さんに対する声援までが小さく飛んでくる。
葉菜はピクリとこめかみを引き攣らせた。
――園生のやつ、後で覚えてろよ!
怒りや、湧いて出てきた説明のつかない感情を膨らませるために、大きく息を吸い込んだ。
「善人気取りで悪かったね!」
ここまで好き放題に言われて黙っているわけにはいかない。葉菜も、伊達に今まで柾樹に関する修羅場をくぐり抜けてきたわけではないのである。
戸惑いの表情をかなぐり捨て、眉間に力を込めて日向さんを睨む。
「そっちだってその口の悪さ、相当のもんじゃん。いくら柾樹に気に入られてるからって、ちょっとは直そうと努力しないわけ? ちっとも周りに馴染もうとしないでさ。宮内さんだって中学の時は悪いことしたって後悔してるよ。何もできなくてごめんって謝りたいと思ってるよ。でも日向さんがそんな態度とり続けるから出来ないんだよ!」
言い募るごとに声が大きくなっていく。感情が入っていく。
葉菜は、息が切れても訴え続けた。
「可哀想な私してんのはそっちの方じゃないの? いつまで終わったことにこだわってんだよ。あんなバカ女こっちからシカトしてやればいい。あんな風に逃げるんじゃなくてさ、しつこいって鼻で笑ってやる方がよっぽど日向さんらしいよ。ここに友達になりたいって人間がいるんだから、素直に受け取っとけばいいじゃんか!」
「うるさい!」
パシン、と肉がぶつかるような音がして、周りがヒッと息を呑んだのが分かった。見えている光景が強制的にずらされ、無意識に頬を押さえてからやっと熱さと痛みを認識した。
――ぶたれ、たんだ。
「黙れ黙れ!」
信じられない思いで視線を戻すと、葉菜の頬を張ったであろう手を胸の前で握り固め、日向さんは必死に声を振り絞っていた。その目が充血し、潤んでいた。
「あんたみたいのが知った風な口きくな。持ってるものの価値も知らないで、平気で捨てようとして! 行きたくもないのに学校通って、眠たくなっても寝つけない日々が続いて。そんな時に、柾樹君が話を聴いてくれたのよ。自分の体験談話して励ましてくれて、夜中でもいいからかけてこいって長電話にまで付き合ってくれて。受験勉強まで見てくれた。ただ、友達の妹ってだけの私に。今だって、私の夢に協力してくれてて」
日向さんの目尻から、とうとう涙が零れる。
「教室での馴れ合いなんていらない。私には、柾樹君さえいてくれたらいい」
頬を伝い、顎にまで到達すると、綺麗な透明の雫が机に弾けた。葉菜はそのさまをじっと見ていた。
友達の、妹。
夢――日向さんの、染色小物の夢。
頭の中が、どこまでも広がっていく。もつれていた疑問や感情が、滑らかにほどけていく。
柾樹が、放課後日向さんと一緒に帰っていたのは――
「あんたなんかより、私の方がいっぱい好きなんだから。簡単に諦められるんなら、柾樹君ちょうだいよ。心ごと、こっちに向けさせてよ……」
最初の勢いが嘘のように張りのない声を出すと、日向さんは下を向いてしゃくり上げだした。これまでの毅然とした態度からは考えられないような、葉菜と同い年の、傷つきやすくてか弱い女の子がそこにいた。
葉菜は、喉から這い出そうとする苦い感情を奥歯で噛みしめた。自分が今まで柾樹に向けていた姿勢が、どれほど日向さんの目には傲慢に、贅沢に映っていたのか。
どれほど日向さんを追い詰めていたのか。
目の前で、突きつけられた気分だった。
葉菜は、かなり辛い思いをさせられてきた。けれどまた、日向さんも苦しんできたのだ。
何か、色々考え直すべきことがありそうだ。
でも、今は――
床をしっかり踏みしめ、へそに力を入れた。
「日向さん、ごめん」
突然の謝罪に顔を上げた恋のライバルに対して、葉菜は容赦なく腕を振りかぶった。
教室に、再びいやな音が響く。「うわ、あれ鬼だろ」と呟いたのは巡君だろう。他にも「女子って怖ぇ」等、怯えたような男子の声も複数飛び交っている。この草食系どもめ。失礼な、やり返しただけだ。しかもこちらは事前に謝っている。
「い、ったぁ……」
頬に手をやった日向さんの目が、みるみる険しくなっていった。目元に名残はあっても、もう新しい涙は溢れてきていない。
「何すんのよ。絶対私より強くぶった!」
「いーや、私だって痛かった。むしろこっちの方が手加減してた!」
断固として言い張ってから、葉菜は頬に当てられている日向さんの手をそっと包んだ。一瞬身を竦まされたものの、特に抵抗はされなかった。
「ごめん、日向さん。私、馬鹿だった。下手な気を回して余計にいやな思いさせた。誰になんて言われたって、自分から諦めようとするべきじゃなかった。でも、もう紛らわしいことしない。これからお弁当に日向さんは誘わないし、前みたく二人っきりで食べる。日向さんには負けない。割り込ませない。柾樹は私のもの、誰にも渡さない」
僅かに口調を変えて、でも、と切り出す。
「日向さんと友達にはなりたい」
「友達って……」
毒気をぬかれたような声が、呆れかえっている。
「くっさい台詞をよくもまあ。それちょっと図々しいと思うんだけど」
そう憎まれ口をたたきながら、日向さんは葉菜の言葉を反芻するように、本心を見抜こうとするように目を覗き込んできた。
「だって、思っちゃったから」
葉菜もしっかり受けて立ち、斜に構えて見えるよう心持ち顔を傾けながら見つめ返す。ああ、これも結構な熱血青春物語かも。柾樹のことは言えない。葉菜も今、昭和の話を地でいっている。
「いくら協調性がなくても、めんどくさい性格してても、仲良くなりたいって思っちゃったから」
「へぇ……」
日向さんは葉菜が添えていた手を、軽い素振りでふり払った。
「私のものって、言ってくれるじゃない」
刹那。見逃してしまいそうになるほど一瞬だけ、視線の先にある瞳が切なげな色に染まる。
でも気付いたと思った次の間にはそれも掻き消え、今度は唇の端が面白がるように吊り上がった。
「柾樹君に好かれてる自信、あるんだ?」
うっと詰まる。
言葉に出して答えるには、多大な勇気と思い切りが必要だ。けれど、分かってしまえば昔からごく当たり前に受け入れてきた事実でもあったのだ。
初めて日向さんに暴言を吐かれた先週の金曜日を思い出した。今はもう、彼女がどんな心情を込めてぶつかってきたのかを、葉菜は理解している。あの時葉菜は、意地を張るべきではなかった。
柾樹の矢印が日向さんに向いているわけではないと分かった途端態度を翻すなんて、葉菜自身調子がいいことだとは思う。
ぐっと胸を反らし、堂々と言い放ってやった。
「まあね、あるよ」
周囲がどっと湧いた。
教室中、四方から、口笛と囃したてるような声が襲ってきた。え? え? と狼狽えながら首をきょろきょろさせると、皆がやんやと拍手喝采している。園生は自席で笑い転げ、巡君は俺の方が恥ずかしいと言いたげに、机に突っ伏していた。
クラス全員の前でキャットファイト、並びに対象不在の告白合戦まで繰り広げてしまったのだ。お祭り騒ぎの教室とは裏腹に、葉菜はシベリアの氷河にでも一人静かに旅立ちたかった。心も身体も凍りつかせてしまえれば、どれほど気楽なことか。
あまりにやかましかったのだろう。「こら、うるさい!」と隣のクラスの先生が怒鳴り込んでくる。喧噪の中で、授業の終わりを告げるチャイムの音が小さく聞こえた。
「と、とにかく、同じ班になること明日までに考えててね」
慌ただしく日向さんに言い置いてから、にやにや笑いの中をいたたまれない気持ちで席に戻った葉菜だった。
噂は学校中に飛び火するかもしれない。
明日は、学校休みたい……
アルバイトも三日目になると、仕事の流れは大体掴めてくる。
「日が浅いんだから遅いのは当たり前。お釣りの金額を間違えないよう丁寧に」と初日に社員の人から教えてもらった通り、レジ打ちは慎重に、でもなるべく早くを心がけた。
時々学校の顔見知りが訪れては、葉菜に気付くと「お疲れ」と声をかけてくれる。
アルバイト仲間には年上でもせいぜい大学生までの人が多くて、仕事の合間を見て雑談も結構する。
大変ではあるけど初めての体験は新鮮で、楽しかった。
葉菜の苦手な業務内容に、電話対応があった。かかってくるのは大体が外商部からで、顧客から依頼された本がないかフロアを探しまわらなければならない。答えを待ち侘びる受話器を置いて、本を求めてうろついている最中に店内の客に尋ねられることもある。いかに素早く探せるか、自分を試されているような気分になる。たまにとんでもない場所にお目当ての本が移動している場合もあって、後で発見して悔しい思いをすることもあった。
その本はありませんでした、と外商担当の人に報告するのは、結構な屈辱でもあるのだ。
注文された本の入荷連絡をいれるのもアルバイトの仕事で、電話をかけ終わり、専用の棚に戻してさあ次の分に取りかかろうとしたところで、手元に影が射した。
客だろうと思い、愛想のいい表情で顔を上げる。葉菜はそのまま固まった。
「バイト、何時に終わる?」
頭一つ分よりも少し高い位置に、ハーフのような顔立ちがあった。怒るでもなく、笑うでもなく、たんたんと事務的に訊いてくる。
「お店、は八時までだけど、片付けとかあるから八時半くらい……」
なんとかたどたどしい声で答えた。
「あと一時間ぐらいか。その頃迎えにくる」
レジにあるデジタル時計で確認してからそう言うと、踵を返して行ってしまった。
思っていたよりも随分早く、柾樹に知られてしまったようだった。