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葉菜の異世界  作者: せおりめ
本編
13/26

13

 水曜日、弁当後の五時間目。葉菜は閉じそうになる目を必死で開けながら、古典の授業でノートを取っていた。

 突然、紙の切れ端をたたんだ物が飛んできて、驚いた。

 眠気も飛んでそちらの方を見ると、少し離れた先、隣の席の女子が机の上に置いた手を目立たないように振っている。それから葉菜の机をくいくいと指さした。

 そこで葉菜は意図を理解し、小さく笑いながら親指と人差し指を輪の形にしてOKマークを作って見せた。

 飛来物の紙片を開くと、案の定文字が書かれてある。これを読めということなのだろう。


 メモを寄越してきた彼女の名前は宮内さんという。身長百五十センチという低い背丈にくるくるとよく変わる表情がトレードマークの、動いているところを思わず捕獲してしまいたくなる愛くるしいクラスメイトである。それほど親しいわけではないものの気さくな性格で、雑談くらいは交わす間柄だ。


《最近学食に行ってるね。刀根先輩と日向さんって仲いいの?》


 手紙には丸い文字でこう書かれてあった。日向さんと食べ始めて三日、この質問は彼女で五人目だった。

 これがまたおかしな具合だった。

 今まで、柾樹と接触の多い葉菜は結構な悪感情を向けられてきた。ところが日向さんという対抗馬が現れたことによって、微妙に変化が生まれてきている。

 なんと、押しの強い日向さんが葉菜と柾樹の間に割り込み、しかも幼馴染みの彼氏は突然現れた美少女に迫られてまんざらでもない様子。見飽きた地味な彼女の方は捨てられるのも時間の問題、という噂が立っているらしいのだ。


 ある先輩などには「大丈夫、最後は大抵幼馴染みの方に還っていくのがパターンだから」というわけの分からない慰めをもらってしまい、絶句して立ち尽くしてしまった。どうやら葉菜は、一転、同情を買う立場になってしまったらしい。

 今度は日向さんが女子たちの嫉妬を受け、おまけに略奪女のポジションに立たされている。これは予想外だった。どうしたものかとしばし悩んでから、結局葉菜は積極的に誤解を解いて回る必要もないと結論付けた。――まあ、日向さんなら屁とも思わないだろうし。

 葉菜の作戦は概ね功を奏しているらしい。

 そんなことを考えながら返事をしたためた。


《仲はいいみたい。付き合ってるかどうかは分かんないかな》


 書き終わると、先生の隙を狙って持ち主に放り投げた。横目で確認するとお隣さんは返信を熟読し、また書き込んでいる。そして再び葉菜の元に紙片が届いた。


《刀根先輩って葉菜っちと付き合ってるんだと思ってた》

《それ間違いだから》

《でもさ、ちょっとは好きだったんじゃないの? あんなカッコイイ人が子供の時から一緒だったら、私だったら絶対捕まえとくなー》

《ただの幼馴染み!》


 ぽんぽんと、ノートの切れ端が机の間を行き交う。黒板を写し、返事を書きと、大忙しだった。


《それはそうと、日向さんから中学の時のこと聞いてる?》


 返ってきた内容を確認して、葉菜は考え込んでしまった。

 中学の時――

 連想してしまうのは、昨日廊下で出会った六組の居丈高な女子のことだった。あの後、なんとか先生が来る前に生物教室へ滑り込んだ葉菜は、先に行った日向さんをまず捜した。生物教室は流し場付きの七人掛け大机が七台並んでおり、日向さんはちょうど園生と同じ机に着いていた。

 手招きする園生に応えて葉菜もそちらへ向かい、日向さんと一緒に授業を受けるような形になった。

 日向さんには特に先ほどのことで動揺したような様子も見られず、なんとなく安心した葉菜だったのだけど、その考えは楽観的だったらしい。

 先生の趣味なのか、翼を広げたコウモリの不気味な骨格標本が各机に回されていた。その最中、「キモーい」やら「ありえねぇ」やらの悲鳴が飛び交う騒がしい中で、さり気なく訊かれた。


「さっきの人、何か言ってなかった?」

『ぼっちじゃなくなって良かったねって伝えといてくれる?』


 気分の悪い伝言が頭の中で瞬時に再生される。

 葉菜はすぐさま頭を振って、揶揄するような声を耳から追い出した。


「特に何も。用事でもあった? あの人中学か何かの友達?」

「別に。それならいいの」


 問いかける眼差しが不安から安堵に変わったと思ったのは、葉菜の取り越し苦労ではないはずだ。でもそれからずっと、日向さんの態度に変わったところはなかった。

 ふと、宮内さんが今回手紙を回してきたのは、本当は柾樹のことではなくこの問いかけをしたかったからではないかと思い当たった。


《聞いたことはないけど。日向さんとは同中だったの?》

《うん。クラスもね。変なこと訊いてごめんね? ありがとう》


 これで打ち切る気満々の内容にざっと目を走らせて、葉菜は腕を組んだ。唇を尖らせてうーむと小さく唸る。

 ――深入りするか、そのまま授業に戻るか。

 気にしないでいた方が、あらゆる意味で賢いことは明白だった。アルバイトを始めて、普段優先度の低い勉強に割ける時間がこれからさらに減っていくことは間違いない。少しでも先生の話に集中した方がいいに決まっている。

 とはいえ、誰かが何かについて尋ねてくる時は、その題材について暴露したいということでもある。

 十中八九、メモを回してきたこのクラスメイトは日向さんと六組の女子の間にあった経緯について知っているのだろう。今訊けば、あらいざらい打ち明けてくれるかもしれない。逆に、このタイミングを逃せば口を閉ざしてしまうかもしれない。――まあ、そこまで大層な話なのかどうかは分からないけど、幾分重い事情ではありそうだ。


 首を動かして窓の外を見やると、昨日の雨に洗われた景色が広がっていた。木立の緑色もいつもより艶やかに見える。紫外線量の多そうな日射しに照らされて、校舎前のアスファルトが白く光っている。テニスコートでは授業を受けている生徒たちがラケットやボールと戯れていた。

 暑そうだなとぼんやり思いながら、葉菜は自分の心を探っていた。

 日向さんの事情を知りたいと思う。知ってどうするのかとも思う。

 知りたいのは詰まるところ、興味本位というやつなのではないだろうか。

 最近色々と目につく彼女のことが心配で、何かあった時には少しでも事情に精通していた方が力になりやすい。また、過去を共有することでより一層彼女の心情に寄り添える――などと友情に厚い綺麗事を並べ立てられるほど、日向さんと仲がいいわけではない。むしろ、柾樹を間に挟んでお互い腹に一物抱えている状態だ。

 どちらかというと、今回の一件に決着がついたら日向さんとは必要以上の接触は避けて通りたいと思っている。まあ同じクラスなのだから、毎日顔を合わすのは仕方ないとしても。

 ただ。

 ――よぎるんだよなー。


 シャーペンを指に挟んだまま、葉菜は両手で頬杖をついた。

 昨日、昼休みが終わる直前に過ごした同じ時間、好きなことについて語る日向さんの表情。あの時、確かに葉菜は日向さんに対して仲間意識を感じていた。葉菜自身、熱が冷めた今になると素直に認めたくはないものの、彼女がどんな物事に喜びを見出し、例えば苦手な科目はなんなのだとか。

 知りたいと思ってしまったのだ。

 それはつまり、もっと親しくなりたいと願った……そういうことなのだろう腹立たしいことに。

 だから、六組の女子が取る日向さんへの態度に憤りを覚えてしまった。

 葉菜はしばらくノートの切れ端を睨みつけ、それからシャーペンを走らせた。


《中学時代に関係あるかどうかは知らないんだけど……》


 続きの文を書き終えると、狙いをつけて隣の席に放った。



 放課後の教室は解放感に包まれている。騒がしさの中帰り支度をしていると、後ろからぽんと肩を叩かれた。


「よ、勤労学生」


 園生だ。振り向いて、いつもながらに葉菜は感心した。マメな彼女は、化粧や髪型を崩さないよういつ見ても綺麗に保っている。ホームルームが終わった後に、チェックと化粧直しを済ませてきたんだろう。そのポリシーには頭が下がる思いだ。


「自分だってそうじゃん」


 葉菜は笑って返事をした。


「園生はこれから部活だっけ?」

「そうだよ。ちくちくしに行ってくる。葉菜は? バイトまでの時間どうすんの?」

「あ、それがさ」

「葉菜っちー」


 説明しようとしたところで隣の席から名前を呼ばれる。ちょうどいい。応えるために軽く手を上げてから、園生に視線を戻した。


「これから宮内さんとファミレス行こうって話してて」

「え、いいなー。ちくしょー、部活なかったら私も行きたかった」


 園生が軽口を叩くと、宮内さんが喜んだように手を叩いた。身長に見合った小さな手は包み込みたくなるほどかわいらしい。


「園生っちも来なよ。部活なんてサボっちゃえサボっちゃえ」

「いいや、真面目な私は出る」


 冗談じみた仕草で拳を固め、宣言している。


「まあ君たちは楽しんできたまえ」


 格好つけたように言い残して、園生は颯爽と教室を出ていった。見送りがてらにそれとなく目を走らせると、日向さんも荷物を持って席を離れるところだった。

 宮内さんが園生を誘ったのは、どこかで打ち明けたくないという心理が働いていたからではないだろうか。

 どうせ園生には、実はこんなことがあったのだと後で葉菜から話すことになるだろう。だから葉菜としては園生が同席してもいいのではないかと一瞬思ったのだけど、やはり自分一人の方がベターなのかもしれないと考えを改めた。

 宮内さんを見やり、カバンを肩に掛ける。


「じゃ、行きますか」




 宮内さんは学校からそう遠くない場所に住んでいるらしく、自転車通学をしているようだった。カゴに葉菜の分の荷物も積んでもらって、アルバイト先の本屋に近いファミレスに二人で向かった。

 今は三時五十分過ぎで、中途半端な時間のためか店内はぽつぽつと空席が目立った。

 多少の余裕があるとはいえ、雑談に興じていると時間はあっという間に過ぎてしまう。ドリンクバーを頼み、それぞれ好きな飲みものを席に持ち帰った。


「それじゃあ、早速教えてもらってもいいかな」


 葉菜は前置きなしに切り出した。


「日向さん、中学の時に何があったの?」


 宮内さんは大きくて丸い目を瞬かせ、ストローからコーラを一口飲むと、ふうと息を吐いた。


「ほんとはね、あんまり思い出したくないんだ、日向さん関連のことは」


 困ったように眉を曇らせている。


「何もしなかった分、こっちも優香に荷担したようなもんだから」

「優香……?」


 問いかけの意味に気付いたのか、ああ、と言いながら宮内さんはとんとんとテーブルを指で叩いた。


「葉菜っちが会ったっていう六組の女子。あの子、中三ときのクラスの中心だったんだ」


 やっぱり。ソーダフロートを飲みながら、葉菜は納得した。あの女子はいかにもリーダーっぽい雰囲気だった。


「日向さん――前はあきちゃんって呼んでたんだけど」


 目線をテーブルに落とし、ストローの袋を弄りながら宮内さんは話し始めた。


「今はクラス内で存在消してるようなとこがあるけど、日向さんって中学の時は明るくて友達も多かったんだ。運動も得意だし、勉強もそこそこできて、顔だってかわいい。皆の中心で笑ってるような子だった。私は優香と友達で日向さんとはグループ違ってたんだけど、普通に仲良く喋ったりしてた。あの頃はクラスの雰囲気も良かったんだけどねー」


 その当時を懐かしむように話を切ると、宮内さんは再びコーラに口を付けた。葉菜も倣ってソーダフロートのストローを咥える。同じ動作を真似すると、相手との親近感が芽生えやすいと何かで聞いたことがある。効果の程は疑問だけど、これで宮内さんが言いにくいことも包み隠さず話してくれるのならありがたい。

 宮内さんは続ける。


「どこも大体同じ時期だと思うんだけど、十月に体育祭があったの。私たちの通ってた中学は年ごとに体育祭、文化祭が入れ代わりで開催されて、三年生はその行事を区切りとして受験に本腰を入れ始めるから、みんな結構真剣に取り組むのね。最後のお祭り騒ぎだって」

「あ、そうなんだ。こっちの中学は毎年両方あったよ。大抵、文化祭が後だった」


 ただし、三年生の出し物は自由参加だった。その時は受験勉強を別にしても文化祭の準備などかったるく、喜んでお客さん側に回ったものだった。ただ、文化祭が終わった後の一、二年生の表情がやり切った人特有の清々しさに満ちていて、その感情を味わえなかったことに妙な寂しさを覚えたことを思い出す。

 その時間がもう取り戻せない、貴重なものだったと実感するのは、いつも後になってからだ……柾樹のことにしても。

 余計なことまで芋づる式に考えてしまい、葉菜は密かに苦笑いした。


「学校によって違うんだね」


 向かう相手の内心には気付かない様子で、宮内さんの表情が心持ち和む。


「優香も運動は得意な方で、そういう行事ごとにも熱心なタイプだった。絶対勝つぞ! って意気込んでて、それがクラスの皆にも伝わって、クラス全体が燃え上がってた。いいムードメーカーだったと思う」


 葉菜は一度だけ対峙した六組の女子を思い浮かべた。自己中的にも見える強気な態度は、裏を返せば牽引力があるということなのだろう。


「競技の中に、二人三脚があったの。葉菜っちのところはどうだった?」

「うん、うちのとこもあった。男女混合じゃなかったけど」


 葉菜は思い出しながら答えた。

 宮内さんは嬉しそうに同じ同じ、と首を何度か縦に振っている。


「一人が何種類かの競技に出るんだけど、優香は二人三脚にもエントリーしてたんだ。体育の時間や放課後にも何度か練習して、ペアの子――友達なんだけど、その子との連携もばっちり取れてた。本番前日には、明日は頑張ろう! って気合いいれたりして。……でも、当日ペアの子が風邪引いて休んじゃって」


 そこからが憂うつの始まりなのか、宮内さんの口が言い辛そうに重くなる。


「代わりに誰が出る? って話してた時に、たまたま先生の傍にいた子が指名されたの。その子、人数の関係で皆より出る種目が少なかったから、丁度いいって」

「なんか、その流れからいくと嫌な予感がするんだけど」


 思わず口を挟んでしまった。他の人たちが張り切っている中で、一人だけ出場回数が少ない女子。それは何故なのか、相場は決まっているのではないか。

 案の定、宮内さんは正解と複雑そうに言ってストローでコーラを掻き回した。からからと氷の音が鳴る。


「その子ね、運動神経の回路がどこの器官とも繋がってないんじゃないかってくらい、壊滅的に体育が苦手だったの。出場種目は玉入れとか、綱引きとか全体競技ばっかだったし。先生の立場からすれば正当な判断だったのかもしれないけど、勝ちに行きたい生徒たちとはちょっと温度差があったかなー。まあ予想通り、結果はメタメタ」

「ビリだった、と」


 語尾は葉菜が引き取った。宮内さんはその通り、と大きく首肯した。


「しかもダントツでね。途中でつっかえて転ぶのは当たり前。靴は脱げる、尻餅は突く、挙げ句の果てには優香を巻き込んで、派手に倒れ込む。よく、かけっことかでビリが決定してる子に頑張れーって声援送ったりするでしょ? 健闘を讃える的な意味で。そんな応援と、笑い声が半々ぐらい飛び交う中で、二人はゴールしたみたい。総合的には勝ったから、皆それほど順位のことは気にしなかったんだけどね。競技が終わった後では、むしろよく走りきったってその場が和やかになってたくらいだって」

「でも本人たちにとっては、特にその優香さんにとってはほのぼのエピソードじゃ済まなかった?」

「――そういうこと」


 宮内さんが疲れたように溜息を吐く。


「優香はいつも一番にゴールしてて、あんな経験初めてだったと思う。あの子、プライドが高いから」


 葉菜はこっそり店内の時計を確認した。ここから話は核心に迫ってくるのだろう。時間はまだ大丈夫。


「運動には自信があって練習もしたのに、ペアのせいとはいえ出場した競技が最下位ゴールで、しかも散々無様な姿を晒して笑われて。ちょっと独断専行なところはあったけど、嫌な子じゃなかったんだよ、本当に」


 先手を打つように、宮内さんが上目遣いで葉菜の反応を窺う。かわいい恋人がするおねだりのような仕草には、めろめろに参りきっている彼氏の気持ちで丸め込まれてあげたいのだけど……

 昔からの知り合いである宮内さんがそう言うのなら、優香さんとやらは愛されるべき点も持っているお人柄なのかもしれない。ただ、日向さんに対してはネズミをいたぶるネコのような態度で接している。

 彼女の横柄な場面しか知らない葉菜としては、残念ながら宮内さんのフォローには乗ってあげられない。

 葉菜は曖昧な笑みだけを返して続きを催促した。


「体育祭は金曜日にあって。週明けからすぐに、優香はその子に嫌がらせをし始めたの。挨拶はシカト。誰か何か言ったー? とかわざわざ周りの友達に聞いてみたり。授業中にその子が発言したら、聞こえませーんとブーイングを飛ばす。休み時間にはその子の方を見ていきなりクスクス笑ってみたりとか」

「何それ……超インケン……」


 葉菜は顔を強張らせて呟いた。


「だよね」


 心持ち俯き、宮内さんも同意する。


「最初は周りの皆も眉をひそめてたんだけど、影響力の強い優香がやることだから、段々追従する子たちも出てきたの。男子の中にも。イジメとか無視とかないクラスだったんだけど……。受験のストレスもあったのかもしれない。心の中には、恥をかかされた優香に同情する気持ちもあったんだと思う。大半の子は、止めも参加もせずに見て見ぬ振りしてるだけだったんだけど」


 私も含めてね、と宮内さんは自嘲の笑みを漏らした。天真爛漫なイメージがある彼女には似合わない、何もしないのも加害者に手を貸しているのと同じことだと理解している表情だった。そういえば、宮内さん自身が一番初めにそのことを前置きしていた。


「そんな状態が一週間ぐらい続いた時だったかな。その子の席を通り過ぎざま、優香が机の上に乗ってるふでばことか教科書とかを落としていったの。ごめーんとか軽く謝ってたけど、わざとだってクラス中の誰もが気付いてた。そしたら、そのまま行こうとした優香に、拾えば? って言ったの。自分が落としたくせに何そのまま歩いていこうとしてんの? バカじゃない? って」


 ああ、彼女ならものすごく言いそうだ。葉菜はつい笑ってしまった。


「それが日向さん?」


 そう、と宮内さんも微笑んだ。


「なにいつまでも根に持ってんの? いい加減度が過ぎてて気分悪いんだけど。全校生徒の前でこけたぐらいで、イジメに走る方がよっぽど恥ずかしいって教えられなきゃ分かんないかな?」

「それ、あの人全部言ったの?」


 真剣な目をして宮内さんはこくりと首を振る。

 うわぁ、と葉菜は口の中で感嘆を漏らした。ぜひその場にいて、ナマの日向さんの口調で啖呵を拝聴したかった。さぞかし痛快だったことだろう。

 でも多分、気持ちいいのはその場限りのことだったのだ。

 いらっしゃいませーの声と共に、五、六人の団体が葉菜たちの横を通っていく。見覚えのある制服は、同じ高校のものだ。わいわいと楽しそうな声が、どこか違う場所から響いてきているように感じられた。

 その団体が離れていくのを待ってから、宮内さんは口を開いた。


「結果はもう、予想がつくよね」

「ターゲット、変更?」

「そう。日向さん何されても平気な顔してたから、余計に酷くなった。持ち物は隠されるし、教科書や上履きには落書きされる。日向さんの場合はそれでもまだ友達はいたんだけど、あの人自身から離れていったみたい。とばっちり受けた子がいたから。もちろん二人三脚の、今まで無視されてたペアの子も日向さんには近付こうとしなかった。一部からはそのことで突かれてたみたい。でも、そんなの日向さんに比べたら……」


 沈痛そうに宮内さんがかぶりを振る。


「一度遠足があってね、独りでお昼食べてる日向さんのそばをたまたま通りかかって、お弁当を見たの。――とっても美味しそうだった。果物もたくさん入ってて」


 宮内さんが悲しそうな顔をして口を噤んだ。

 彼女が今何を考えてその表情を作っているのか、葉菜の方にもおぼろげに伝わってきて、胸が痛くなった。

 柾樹曰くの料理上手なお母さんが、真心を込めて作ってくれたのだ。友達と、おかずを交換するであろう娘のことを考えて。少しでも楽しい時間を過ごせるようにと。


「先生もクラスの様子がなんか変だぐらいには思ってただろうけど、確かにそうだって確信を持つまでにはならなかったみたい。それか、受験を間近に控えた時期に波風立てたくなかったのかも。年が明けてからは授業もほとんどなくなったし、登校日数も少なかったから」


 宮内さんは顔を上げて、遠いどこかを探るように葉菜の背後へ目をやった。


「実質、たった二ヶ月ちょっとの出来事だったんだよね。卒業してからはなんとなく優香と連絡取らなくなって。今もクラス離れちゃったし、ほとんど喋ってない。――でも、私いまだに日向さんには声かけられない」


 呟き落とす宮内さんの声には言葉以上の気持ちが滲んでいた。

 過ぎてしまえば”たった”で済む。でも過ごしている最中の二か月は、結構長い。それが辛い期間であれば、なおさらに。今までの中学生活がどんなに楽しくても、そんな有様では全ての思い出が台無しになってしまったことだろう。

 高校に入っても積極的に皆の中に入っていこうとしない日向さん。

 罪悪感から逃れられない宮内さん。

 当事者も、傍観していただけの人もまだ傷ついている。

 六組のあの人もいまだに過去から抜け出せず、意地悪な笑みを顔に貼りつけていた。それは、本人にとっても不幸なことではないのか。

 言い表しようのない感情が喉に込み上げてきて、葉菜はそれを打ち消すためにソーダフロートを飲んだ。炭酸はすっかり抜けてしまっていて、ベタつく甘さだけが口に残る。

 時計を見ると、アルバイトの時間が間近に迫っていた。そろそろここを出なければ。


「葉菜っち、時間ないんでしょ? 払っとくから先に行きなよ」

「わ、そうしてもらえたら助かる。ありがとう」


 自分の分の小銭を置きながら、葉菜は慌ただしく席を立った。


「あのね」


 踏み出そうとする背中に声がかかる。振り向くと、宮内さんがこちらへ手をのばし、追いかけてこようとするような体勢で立っていた。


「捨てちゃいたい思い出だったけど、聞いてもらえてよかったと思ってる。私がこんなことを言うのも何様だって感じなんだけど……、このまま日向さん、あきちゃんの友達でいてあげて」


 ――体育祭の日に、熱出して休んでしまったのは私なの。

 葉菜はその内容には答えず、急ぐ素振りで、けれど明るい仕草でばいばいと手を振ってから店を出た。

 早足で歩きながら、人が行き交う歩道の先を真っ直ぐに見据えた。ガードレールを隔てたすぐ隣を大型トラックが通過する。巻き起こった風が葉菜の髪を吹き上げた。

 傍に、いたかった。髪を押さえながら、どうしようもなくそう思う。

 その時の雰囲気を知らない部外者だから、もう過ぎてしまったことだから、軽い同情でそんな呑気なことを考えるのかもしれない。雰囲気に押し出された正義感を心の中だけで振りかざして、悦に入っているだけなのかもしれない。

 実際その場に居合わせたら、葉菜も傍観者の立場に回るのかも。


 ――でも。

 先ほど感じた胸の痛みが残っているような気がして、ブラウスの心臓辺りを皺が寄るのもかまわず掴んだ。

 日向さんの一番辛い時に傍にいて、友達でいたかった。

 妬みさえ抱いている人に対して、変わり身の早いことだと自分でも少々呆れる。

 けれど、話を聴いている間中、切実にそう願った。

 巡君が語った柾樹の話が頭に浮かぶ。柾樹は現状を打破するために立ち向かい、打ち勝ってきた。

 日向さんは酷い状況の中でも休まず登校し続けたという。自分が休むことでまたイジメが元の女子のところに還ってしまうのを、防ぎたかったのではないだろうか。被害が及ばないように、友達まで遠ざけて。

 日向さんも、逃げずに戦い続けた。

 二人はよく似ている。優しいところも、強くあろうとするところも。

 もしかしたら、柾樹は日向さんを支えてあげていたのだろうか。自分の経験を思い出して。


 ――勝てないな。


 アルバイト先の自動ドアをくぐりながら、その時初めて葉菜は、心から思い知った。

 打ちのめされていた。


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