12
翌日は、朝から小雨がパラついていた。
今日は火曜日、週に二回の小テストがまたもや巡ってくる日で、科目は英語だと聞いている。多分、単語の問題になるだろう。それから、アルバイトの初出勤日でもある。
朝と放課後に控えているちょっとしたイベントを念頭に置いて、葉菜の気分はいささか高揚している。学校への道を辿りながら、その気分のまま柾樹にあれこれ話しかけたかったものの、口数はどうしても少なくなった。
最近、話題にしづらい物事が多すぎる。
今、葉菜の最大の関心事は日向さんについてである。そうかといって彼女について下手に投げかけて、返ってきた柾樹の口調や表情に打撃を受けたくはない。恋の当事者とは時に、弾かれた者に残酷な鈍感さを示すものだ。
一番話題にしやすいのは昨日、園生とコットンに行ったことだろう。園生のおかげで財布の中身が寂しくなった、と面白おかしく言えば気分も楽しくなる。とはいえ、だったらどうして奢らされる羽目になったのかと問われたら、葉菜の企みまで白状しなくてはならない。柾樹のお相手として、日向さんを学校中に認知させることを。
心の整理がついていない今はまだ、日向さんと柾樹、それから自分と柾樹の関係についてはっきり決着をつけたくはない。結果を先送りにしているだけだとは、充分承知しているのだけど。
じゃあ自分たちに身近な彼、巡君についてはどうか。ところがこれも上手くない。昨日の部活を思い出し、うっかりその内容を口に出して事実を問い質してしまいたくなりそうだ。過ぎてしまったことは考えてもどうしようもないことで、柾樹が葉菜に黙っていたいと思うなら、知らないふりを決め込むのが正しい方法なのだろう。まあ、巡君のためにも。
本当は、アルバイトを始めるという報告をしなければならないのだろうけど……
「これから梅雨入りに向けて、段々雨が多くなってくるのかね」
改札を出て、傘を差しながらぼやく柾樹をこっそり見上げる。今、話してしまえばどうなるのだろう。空から降ってくる透明の糸に向けられているうんざり顔が、葉菜に対してそっけなく変貌してしまうのだろうか。
「蒸し暑いし登下校で濡れるしうっとおしいよね」
灰色の雲を仰ぎ、パラパラと落ちてくる水の粒を顔で受けとめる。うわのそらで葉菜は答えていた。
アルバイトを決めた時から、さりげなく知らせようか、改まって実はと発表しようか散々迷っていた。そして結局伝えあぐねている状態だ。彼とは徐々に距離を開けていこうと覚悟を決めたはずなのに、告げる言葉は中々出てこない。
濡れた顔をぐいと拭う。
まあ、こういう時は成り行きに任せるしかない。葉菜も柾樹に続いて傘を広げながら、方針をやや消極的な方向に定めた。
帰りが別々の現在、放課後から午後八時までのアルバイトが早々に露見することはないだろう。週二日、部活の日はシフトを入れないようにしてもらっている。休日は、別の用事をでっちあげればいい。そもそも柾樹も日向さんと過ごしたいはずだ、深く追求されることもない……と信じたい。
柾樹が本屋を訪れて鉢合わせてしまった時、その時こそ腹を括ろう。それは、そう遠くない未来に実現してしまうのだろう。
そうしよう、そうしようと今後の方策が固まってすっきりし、葉菜の足取りは軽くなった。
「なんかいいことあった?」
隣を歩く柾樹が傘を向こう側に傾けて、話しかけてくる。
「どうして?」
「顔がによによしてる」
「……他にもっと言い方ない?」
葉菜は渋面を作った。
せめて、にこにこしているとかもうちょっと耳障りの好い表現があるのではないだろうか。なんとおいうか、自分が気持ち悪い笑みを浮かべている場面しか想像できない。
「いいと思うけど」
柾樹が不思議そうな顔をする。朝のテストが頭にあるせいか、簡単な英語を喋ったつもりが相手に通じなかった、と訴えているような面持ちに見える。
傘さし運転の自転車が、通り過ぎざま「ういっす」と柾樹に声をかける。当人は、持った傘を振っておーっすと返していた。クラスメイトだろうか。
「可愛いよ、葉菜は」
走っていった自転車を目で追いながらの言葉だったので、一瞬何を言われたのか分からなかった。呆けた顔で相手を見る。柾樹も葉菜に顔を向ける。笑いかけるでもない、照れている様子もない、今日の授業は六限あるとでも語るような、ニュートラルな表情だった。
どれほど柾樹の顔立ちが整っていても、平素の一部として見慣れているはずなのに。
え、ちょっと待った。雨の膜の効果か、はたまた葉菜の目に特殊な機能が貼りついてしまったのか。
嘘でしょう、こんなの。
自分で驚く。
葉菜は今、柾樹以上に見るべきものはこの世のどこにもない、という信じ難い気持ちに支配されている。恐らくは、すぐそこに隕石が落ちてきても目が逸らせない、目の前にいる幼馴染みから。
立ち止まる二人を、同じ制服を着た生徒たちが追い越していく。注目を浴びていることは嫌というほど承知していた。でも、葉菜は目を見開いたまま道端の標識のように身動きが取れないでいた。
人前での柾樹がこの程度の、歯の中に砕いた金平糖を詰め込んだような台詞を吐くのは日常茶飯事で――本気で真に受けたことはなかったのだ、今までは。
「え、あ、あの」
どうしよう何これ。傘を持った手が震える。いつから日本の本州は亜熱帯気候になったのか、特に耳たぶなどは電気ストーブで炙られているんじゃないかと思えるくらい火照ってきた。
よろしくない。今さらこんな心理状態になるのは全くよろしくない。不毛すぎる。そう、理性は必死で冷静になろうとするのに、視線は意地でも離れないとばかりにただ一つの場所へと吸い寄せられたままだ。
――マズイってば!
身体中から分別をかき集め、総掛かりで動こうとしない首に捻挫覚悟で力を入れる。やけに眩しく感じられる柾樹から無理矢理視線を引き剥がした。
足掻くように再び歩きだすと、葉菜は正反対側にある車道の信号機を凝視した。そう、あの緑色がどうして青信号と呼ばれるのか、考察しなければならないと常々思っていた。今がその時だ。
「葉菜?」
数歩遅れて追いついてきた柾樹の訝しげな声が耳に届く。この場をなんとかしなければ、と葉菜は必死で話題を捜した。
「き、昨日の部活来なかったね」
バカじゃないか自分。結局話題に出してはいけないと思った問いかけをしている。咄嗟の時には、やはり心のウエイトを占める物事が飛び出てくるらしい。
「ああ、急に用事ができて。悪い、言う暇なかった」
「別にいいけど……」
まだ柾樹に視線を戻せないままだけど、前を向くことはできた。気付かない内にどうやら早足になっているようで、同じ制服の何人かを追い越した。柾樹も葉菜に歩調を合わせている。
そして脳の容量がいっぱいいっぱいになって他のことを考えられなくなっているのか、さらに訊いてしまった。
「日向さんと?」
「そう」
柾樹が答える。
「なんだ、気になる? 何してたか教えようか?」
「気にならない。別にいい」
ああ、どうして私はこう。
強くかぶりを振りながら、心の底ではどんより落ち込んでいた。思いっきり気になるくせに、またお決まりの反応を返している。こんな自分のどこが可愛いというのか。全く前に進めていない自分をモグラ叩きのハンマーで穴にめり込ませたい葉菜だったけど、どのみち知りたくないのは偽らざる本音だった。二人が放課後に、どう過ごしていたかなどと。
葉菜の普段通りの反応を特に気に留めることもなく、柾樹が会話を続ける。
「今日の昼も、園生ちゃんと暁が一緒?」
「……まあね」
これも本当は俎上に載せたくない内容だった。
「園生にはもう言ってあるし、日向さんも誘おうと思ってるけど」
「ふーん……」
柾樹はそれ以上、突っ込んで訊く気はなさそうだった。
葉菜たちの高校は二学期制を導入しており、約二週間後の六月中旬に、初めての前期中間試験が始まる。
その試験では、もうこの年上の幼馴染みを頼れないのだろう、そう心構えをしておいた。
小テストは満足のいく出来だった。終わりを告げるチャイムが鳴ってから、葉菜は悪くない気分で日向さんを待っていた。
「田畑さん?」
何故自分の席から退かないのかと、不審の念も露わな声が届く。
「あ、おかえり」
愛想良く迎えながら葉菜は立ち上がった。きっと今なら、日向さんにどんなつれない態度を取られても気にならない。
机の一点を指さす。
「これ読んで」
日向さんは不可解そうな面持ちで葉菜と入れ替わり、席に着くと示された箇所に顔を近づけた。
机には、『今日もお昼一緒に食べよう』と書かれてあるはずだ。
葉菜を見上げ、日向さんは意図が分からないと言いたげに小首を傾げた。その仕草が存外にあどけなく感じられて、僅かに緩みそうになる頬を引き締める葉菜だった。見咎められたら、このクラスメートは怒りだしそうな気がする。
「ほんと、何考えてるのか分かんないね、田畑さん。どうして私を誘うの?」
「どうしてって言われても……せっかくだから?」
葉菜も日向さんの真似をして、同じ角度で首を傾げた。
今回も即答すると思っていた日向さんは、寸の間何かを考えているかのように虚空へ目を漂わせた。
「ひょっとして……」
葉菜を見て、ためらうように何かを言いかけてから、思い直したのか口を噤む。日向さんの目は頼りなく揺れていた。
「なに?」
「ううん、なんでも」
視線を机に落とし、日向さんは首を振った。
「一緒に、食べる」
「うん……。じゃあまたお昼に」
力ない返事が気になったものの、深く追求しても拒否されるだけだろう。
不可解に思いながらも、葉菜は自分の席へと戻っていった。
昼休みも終わり、五時間目は生物の移動教室がある。ギリギリまで学食にいて、帰る途中でトイレに立ち寄っていた葉菜は、急いで教室に入っていった。付き合わせたら悪いので、園生には先に行ってもらうように伝えてある。
みんなもう既に移動しているのか、教室はがらんとしていた。隙間だらけの空間はいつもより数倍広く、学校中から取り残されたように感じられる。そこに、一人だけいた。
「あれ、日向さん」
まだ残っていたのか。
何かに集中していたのか、日向さんはびっくりしたような表情で顔を上げた。机の上に、ごちゃごちゃとお店を広げている。
「何してんの、遅刻しちゃうよ?」
すっかり油断していたところを奇襲された、といった思いもかけない仕草に興味を引かれ、葉菜は日向さんの机に向かった。
「別に。今から行こうと思ってたとこだから」
葉菜が近付いていくと、机の上を急いで片付けようとしている。
「何をそんなに――」
隠そうとする日向さんの手よりも、葉菜の目が捉えるスピードの方が速かった。
カラフルなぼんぼんがついたいくつかの髪ゴム、以前に日向さんが前髪に留めていたような和布の小物を使ったピアス。モチーフは蝶で、ほんのり桜色のつまみ細工に金色の触覚が綺麗で、とても華やかに見える。
そして、葉菜の目を一番惹いたのは。
「超かわいい!」
思ったままに大声で感想を言った。これが多分、手芸部の課題なのだろう。手の平よりも二回りは小さいサイズで、全体のボディは無地の布で作成されている。ただし色が特徴的で、なんとも言い表せない温かい風合いを持った黄色だった。葉菜はたんぽぽを頭の中に思い浮かべた。
つぶらな瞳は炭を連想させる色の糸で刺繍され、眉は制作者の性格を反映しているのかきりりと凛々しい。同じ色の口はバッテンマークで表現されている。頭にちょっこり付いた二つの小さな耳が、やあと自己主張しているような気がした。
園生に貰う予定のぬいぐるみストラップ、どうやら日向さんはクマを選んだらしい。
「この子が着てる服も、日向さんが作ったの?」
眺めることについ夢中になり、持ち主の了解も得ずにふっくらと柔らかいクマを持ち上げた。ぬいぐるみは、ワンピースを身につけていた。肩から胸までの部分がかぎ針編みで出来ていて、編み目の所々に細かい花模様を織り交ぜてある。糸の色は薄いラベンダー。そこから膝部分までは鮮やかな藍色の布地が覆っていた。実際にこんなデザインの服があったら、着てみたいと思う。
――もう。
とにかく一言でいうと、凝りまくっている。
「おしゃれさんだね、このクマ君。園生が日向さんのことべた褒めしてたけど、同感かも」
岬さんが? と小さく呟きが聞こえたものの、手の中にある存在に気を取られていた葉菜は聞き流した。
ストラップを見ている間に片付けられてしまった髪ゴムも、ピアスも、思わず手に取ってみたくなる出来映えだった。手作りの品は高いものだけど、値段の折り合いがつくならあれは買いたくなる。他にもあるのだろう、見てみたい。
「全体の色もなんて言うんだろ」
興奮のままに葉菜は続けた。
「こう、優しいって言うのかな。中々見ない色合いだよね」
ふと日向さんの反応を窺うと、無言でじっと葉菜を見つめていた。自分と温度差のある態度に水を差され、やっと葉菜は我に返った。
「あ、ごめん……」
日向さんは葉菜のことを心好く思っていない。葉菜としても、諸々の事情から彼女を好ましからざるクラスメイトだと位置づけてしまっている。さっきまでお昼をともに過ごしていたことや、ここ二日の接触で多少の親近感が芽生えていたとはいえ、いささか馴れ馴れしかったかもしれない。
ストラップを元の通り机にそっと置いた。
「勝手に触っちゃって。不躾だったね」
謝ると、日向さんは夢想から覚めた人のようにピクリと両眉を上げ、どういう風の吹き回しなのか勢いよくかぶりを振った。おや、奪うように隠して二度と触らないで、くらいのことは言われると思ったのだけど。
失礼なことを考えていると、日向さんはクマのヒモ部分を持って掲げ、葉菜によく見えるようにぶらさげた。
「これ、草木染めの糸と布を使ってるの」
日向さんの視線は斜め下を向いていて、決して葉菜と合わせようとしない。頬は上気したように赤く染まり、口調はややぶっきらぼうで。
――褒められて、照れてるんだ。
憎まれ口を叩いてくれて、葉菜にはつんけんしているばかりだと思ったのに。何この人、こんな分かりやすい人だったの?
気分は、警戒心の強い野良猫を一撫でした瞬間だった。
「草木染め?」
はからずも発見してしまった日向さんの一面が嬉しくて、恋のライバルという関係も忘れて葉菜は問いかけた。
「日向さんが染めたの?」
もっと、この会話を続けたい。
「ううん、こんなに綺麗には、まだ」
まだ目は合わず、挙動はぎこちない。
ためらいがちな口調で、それでも相手は乗ってくれた。
「材料は、人から譲ってもらったもので……でも興味があるから、勉強したいと思ってる」
「勉強って……。じゃあ、将来は染色関係の仕事に就きたいってこと?」
「染色関係っていうか――布と糸を自分が想像する色、時には想像以上の色になるみたいなんだけど。そうやって染めて、出来上がった素材で色んな物を作れたらいいなって。田畑さん、さっき優しい色合いって言ったでしょ?」
喋っている内に熱が入ってきたのか、言葉にジェスチャーが混じり出す。
そうなの、それが天然染料の魅力なの。そう言って一つ頷き、日向さんはしっかり話し相手の顔を見る。葉菜もうんと合いの手を入れた。
「味わいがあるって言うのかな。こういう染色小物って私たちみたいな年代向けのが少ないから、自分で作れたらいいってずっと思ってて。でもね、染色ってただ染料の中に布なんかを放り込んで乾かせばいいってものじゃなくて、化学の知識も持ってた方がいいの。どうして染まるのかっていう基本的なこととか、各布が持つ性質と相性のいい染料、違いはなんなのかとか。そういったことを専門にしている研究室もあって、大学はそこへ行けたらいいなって。お裁縫なんかは学べる所がいっぱいあるから――」
突然、正気に戻ったように日向さんは語るのを止めた。寸の間、全ての動きが一時停止状態になる。それから熱弁をふるっていた自分を誤魔化すように机の中を探り出した。
「時間ないから早く行かなきゃ」
下を向いたまま、生物の教科書や筆記用具を取りだしながら言う。時計を見ると、授業開始まで三分を切っていた。これは確かにヤバイ。
そう分かってはいながらも、この一時が唐突に打ち破られてしまったことを、葉菜は残念に思った。
「あ、ちょっと待ってて」
だったらせめて。
「私もすぐ用意するから。一緒に行こう」
「ええ?」
急いで自分の机に取って返す。文句を返す声に、打ち解けた相手との軽いふざけ合いめいた空気を感じて、葉菜は心臓が高鳴るのを感じていた。
「すぐだから、すぐ」
夢を語る――そう言葉に表してしまうと、どこか陳腐で青臭く、腰の据わりが悪くなって逃げ出したくなるような気恥ずかしさを覚える。けれどその真っ最中の本人を前にすると、中味を伴わないイメージは吹き飛ばされ、内に巻き込んでしまおうとする力に圧倒される。
好きな分野を喋り続ける日向さんは進む道だけを見据え、自信が身体の中から溢れてキラキラしていた。その姿は非の打ち所がないほど格好良かった。
打ち込める何かを持っていない葉菜には、とても綺麗に映った。
「田畑さん、早くってば」
例え先生に見つかって注意をされようが、遅刻の可能性を前にすれば廊下は競技場になる。少し前を行く日向さんに急かされながら、生物室をゴールに据えて二人で徒競走を頑張っていた。
「あれ、暁ちゃんじゃん」
六組の前を過ぎ、階段を昇ろうとしたところで声をかけられた。立ち止まって振り向くと、女子生徒が立っていた。髪型に気を使っていて、スカート丈も短い。立ち居振る舞いが堂々としていて、教室での地位も高そうな印象を受ける。クラス章には1-6とあった。自分の教室に帰っているところなのだろう。
名前の呼び方から日向さんの友達なのだろうと見当はついたものの、正直後にしてほしかった。もうじき授業開始のベルが鳴ってしまう。
ところが挨拶を返すと思っていた日向さんは、今までの活発な表情を拭ったように消し去り、相手の女子を見返すだけだった。
「友達できたんだ?」
片手をもう片方の肘に添えて、足元はいわゆる休めの体勢。友好的に見せかけていて実は、生態ピラミッドは自分の方が上だと確信している余裕で傲慢な勝者の笑み。隣に立つクラスメートを横目で窺うと、噛みしめた口元が見えた。
『中学の時はどうだったんだろ、まさか全然友達いないってことはないだろうけど』
周りに打ち解けようとしない日向さんの態度や、園生から聞いた話が断片的に葉菜の頭を駆け巡る。
「行こ、田畑さん」
日向さんは挑戦的に話しかけてきた女子には何も返さず、すいと回れ右すると階段を駆け上がっていった。
「あらら、冷たいの」
逃げた獲物をいたぶるように、あざける声が追いかけていく。
彼女の態度の何もかもに嫌悪を感じて、まなじりを険しくした表情で相手を一瞥してから葉菜も踵を返した。
「ぼっちじゃなくなって良かったねって伝えといてくれる?」
――誰が伝えるか。
チャイムが鳴る直前背中に投げかけられた声に、一段飛ばしで階段を昇りながら苦々しく言い返した。