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「葉菜ちゃん、なんだかお久しぶり。金曜日はどうしたの? 寂しかった」
「あの日は用事でクラスを出るのが遅くなって。そのまま帰っちゃったんです」
「あれ、雪乃さん一人? 柾樹さんはまだなんですか」
月曜日の授業は終了し、今、葉菜たちは部室にいる。
クラスが同じ巡君とは、教室を出るタイミングが別々だった。旧校舎の玄関で鉢合わせ、そのまま部室である教室まで来ると、座っていたのは雪乃さんだけだったというわけである。
一週間ぶりに会う雪乃さんは、相も変わらず目に嬉しい麗しさを放ってくれていた。癒しの笑みで一年生二人を迎えてくれる。
「そうだったの、お疲れ様。そうそう、刀根君も金曜日の葉菜ちゃんじゃないけど今日は用があるとかで、こっちには顔を出さないって」
雪乃さんはまず葉菜に対して返事をして、それから巡君の疑問に答えた。
葉菜にはピンときた。柾樹、きっと日向さんと一緒に帰ったんだよね。
部活の方を優先させるって言ったくせに、と腹の底がぴりぴりするような不快感を覚えそうになったものの、慌てて沈静化させた。違う違う、これはヤキモチとかそういうやましいものではなくて、いい加減なことなら口にするなという至極当たり前な、そう、常識の概念から湧きでた感情だ。
いじましい方向に転がっていきそうな気分を変えるために、葉菜は荷物を置いてからお茶コーナーへ向かった。教室後部に備えつけられている棚の上に、カップや電気ポット等の飲みもの用品をまとめて乗せてある。気温的に、そろそろ冷たい物が恋しくなってきたかもしれない。
目端で確認すると、雪乃さんは既に自分の分を淹れているようだった。オレンジのマグから、ミルクティーの甘い香りが辺りに漂っている。巡君は持参のミネラルウォーターを机に置いていた。
「へぇ、葉菜がいる所に柾樹さんが現れないなんて珍しい……」
背後から、巡君の独りごちたような声が追いかけてくる。なんなのだろう、その葉菜に取り憑いた背後霊のような認識は。
「なんか聞いてなかったの、葉菜?」
「聞いてない。っていうかそもそも、なんで私が柾樹の行動をいちいち知ってるなんて思うの? 私、別に柾樹の連絡係ってわけじゃない」
視線を棚の上に留めたまま葉菜は答えた。若干固い声になっていたかもしれない。ポットのお湯はもう沸いていて、残りも充分にあった。雪乃さんが自分の分を淹れた後に補充しておいてくれたんだろう。
葉菜の思わぬ反応に戸惑っているのか、巡君からも雪乃さんからも応答の声はなかった。妙に気まずい空気の中、ピンクのマグカップにコーヒーを用意しながら、それでも葉菜はこれ以上自分から言葉を重ねるつもりはなかった。
葉菜が感知しない柾樹の行動などあり過ぎるほどにある。むしろ、肝心な内容ほど柾樹は葉菜に教えてくれない。
「何、まさかお前らケンカしてんの?」
「別に」
いい加減に返事して、コーヒが注がれたカップを片手に振り向く。
葉菜の目に入ったのは、いやにげんなりした様子で机に片肘を突き、こちらを見ている巡君だった。ちなみに雪乃さんは「珍しい」と感心したように目を瞠っている。
「おいおい勘弁してくれよ」
あれ……? 葉菜は内心でたじろいだ。そこは不味いところに触れてしまったと心持ち神妙になってから、わざとらしいほど突然に別の話題を振るのが、今みたいな状況の正しい対処なんじゃないの巡君?
葉菜が正面の席に座る間にも、巡君の愚痴めいた言い分は続いている。
「お前のことで機嫌悪くした柾樹さんの矛先は、ほとんど俺に向かってくるんだからな。今まであの人が何回相手しろって道場に押しかけてきたか。うちの祖父さんは筋がいいからって、面白がって色々教えようとするし」
「あら、刀根君も合気道習ってるの?」
雪乃さんが頬に手を当てて尋ねる。巡君は隣を向いて、今の心境を表すように髪をくしゃりと掴んだ。
「習ってる、って言ったら語弊がありますけどね。基本、自分から攻撃を仕掛けない合気道は性に合わないって本人も言ってましたから。だったら来るなっつーのって話ですけど」
葉菜は同意のために軽く頷いてあげた。いつになく巡君が正直だ。柾樹がいない分、安心した本音が出口を求めているのかもしれない。
「柾樹さんあの通りのご面相で、しかも無駄に目立つ雰囲気持ってて女関係のトラブルが多いから、やっかみ買って男連中に絡まれたりしてたんですよ。あの人負けん気が強くて、やられた分だけやり返すんです。俺も巻き込まれたことがありました」
巡君は思い出を辿るように遠い目をして、憂うつそうに溜息を吐いた。そこには色々な何かが込められているように葉菜には感じられた。鬱憤とか、諦観とか、恨めしさとか。
「実践で場数踏んでるもんだから、畳の上での稽古でも型を無視して蹴りいれてきたりする。それをうちの祖父さんがまた、いい経験になるから対処法を学べって黙認するし」
やってられませんよ、と珍しい長口上でぼやいていた巡君は一度ミネラルウォーターを飲んだ。
「――まあ」
気を取り直したように上を向いて言う。
「なんだかんだで柾樹さんと向かい合うのは嫌いじゃないんですけどね。次に何仕掛けてくるか読みにくくて、楽しいっちゃ楽しい」
「巡君」
らしからぬ態度に気を呑まれ、じっと話を聴いていた葉菜はやっと口を挟んだ。
「柾樹って、そんな嫌がらせ受けてたりしたの?」
「え、あれ、もしかしてお前知らなかった――うっわやべっ、そういや喧嘩のこととか葉菜には言うなって口止めされてたような。っていやでも小中の時の話で大分前のことだろ、いい加減いまさらもう」
でもやっぱ葉菜が知らなかったってことは……、とひとしきりぶつぶつ言ったあと、巡君はあちゃーと額を押さえて情けない顔をした。
「俺、絶対シメられる」
「何それ。柾樹には内緒にしとくから教えてよ、巡君」
葉菜は勢い込んで、向かいにいる同い年の幼馴染みの方へ身を乗り出した。
昔、確かに柾樹は擦り傷やあざ、時には噛み痕をつけて帰ってくることがあった。
とはいえ重篤なケガはなく、心配する葉菜に対して本人も、
『ただの喧嘩。男には色々あるのさ』
などと格好をつけた台詞を吐くものだから、そういうものなのかもしれないとあまり気に留めてはいなかった。事実、年齢が上がるごとに柾樹が傷を負ってくることは少なくなってきていた。彼が高校に入ってからは一度もない。
「葉菜が黙っててもお前に関することはすぐに見抜きそうだけどな、あの人は」
幼馴染みの言葉に目を細め、疑わしそうに吟味していた巡君は、でも次の間にはまあいいかと承知してくれた。
「別に際だって大したことがあったわけでもなし、時効だよなもう」
巡君はもう一度ミネラルウォーターを飲んで喉をしめらせて、話し始めた。
「俺だって詳しいことはいちいち知らないからな。今はもう辞めた、当時道場に来ていた一個上の先輩に聞いた話だ。柾樹さんハーフっぽい顔立ちしてんだろ。幼稚園の時はともかく、小学校の低学年の時は一部のクラスメートから容姿のことについて結構からかわれてたらしい」
「それは、女子から? 男子から?」
雪乃さんが疑問を差し挟む。
「両方みたいです」
質問者に視線を向けて答えてから、巡君は葉菜の方に顔を戻した。
「その時はなんか言葉をぶつけられるたびに言い返したり、とっくみあいしてたって。ま、子供らしい喧嘩だな。小四になってそろそろ男子女子って風にお互いが意識し始めた頃、今までいじられていたのが嘘のように柾樹さんモテ始めたんだ。これもありがちな話だよな」
葉菜の記憶の中でも、柾樹は一時期から目に見えて人気が出だした。バレンタインにチョコを貰いだしたのもこの時期からだったか。ちなみに葉菜は分けてもらって単純に喜んでいた。
「で、面白くないのが柾樹さんバカにしてた野郎ども。これまでの調子で顔のことからかったら、一転女子連中から猛反発くらいだしたんだよな。テメエが大した顔持ってないからってひがんでんじゃねーよ、とかっつって」
ああ、それは男子諸君、深く深く傷つけられたかも。けれど残酷で厳粛な摂理でもある。多分、葉菜でも女子の皆さんと同じ意見を持つ。思わず葉菜は雪乃さんと目を合わせ、理解を確かめ合った。
しかし柾樹は、男子からは余計に反感を買ったのではないだろうか。
「またクラスのヒエラルキー頂点みたいな奴が当時好きだった子にそれ言われて、いっとき柾樹さんそいつの命令でクラス中の男子敵に回したみたいになったんだ。無視とか、それから授業中に消しゴムが飛んでくるとか」
「イジメ、ってこと……?」
葉菜が恐る恐る訊くと、巡君は軽く噴き出した。
「いやだから、最初に大したことなかったって前置きしといたろ。しかもいっときって。昔のことだって、心配しすぎ。まあ、柾樹さんだったから変な方向に大袈裟なことにならなくて済んだのかもしれないけど。これ、ある意味いつの時代だっつう熱血友情話だからな――ハブにされだしたその日の帰りに、柾樹さん首謀者のやつ待ち伏せしたんだ。あの人行動早すぎ」
巡君は語る。
件の首謀者、クラスのリーダーはその名を佐々木君というらしい。それから腰巾着の二人と。柾樹の相手は三人いた。
場所は遊具が砂場しかない公園だったそうな。ひょっとすると、冷たい北風が吹いて二人の間を舞台効果満点に枯葉が舞っていたのかもしれない。夏のことかもしれないけど。
三人を相手にしても勝つ見込みは少ない。まず、柾樹は立ち向かう相手をリーダー佐々木君一人に絞った。ランドセルを投げ出すと、腹に頭突きをかますため、猛突進していったそうだ。
佐々木君もさすがはリーダー、クラスを統括しているだけある。後ろに下がりつつ、少しでも柾樹の勢いを殺しながら、それでもタックルを受けとめた。
もんどり打って地面に倒れた二人は、それから掴み合いの喧嘩を始めた。柾樹が相手のマウントを取ったと思ったら、次の瞬間にはごろごろ転がって攻守が入れ替わっている。相手が頬をつねって引っ張れば、もう一方が腕を引っ掻く。お互いガチンコでやり合うときの礼儀は心得ていたのか、落ちている石等の武器を使うこともなく、また致命的な急所を狙うような、卑怯な真似をすることもなかった。
両者一歩も退かぬ攻防戦は中々に見応えがあったらしく、いつの間にか周りには帰宅途中の小学生の壁が出来ていたという。そこからは時々「いいぞ、やっちまえ!」「あ、バカ、避けろよ!」などの声援まで飛ばされ、腰巾着の二人も観覧席にちゃっかり納まっていたらしい。
「それでまあ、拳で友情を確かめ合った二人は最後に固く握手しあって、次の日からはクラスの雰囲気も元に戻ったそうだ。佐々木さんの初恋は見事に砕け散ったみたいだけど。今も仲いいみたいだよ、柾樹さんとその人。確か、男子校へ行ったとかなんとか」
きっと、握手をした時は双方妙にさっぱりした顔で、お前やるな、お前もな、とかなんとか熱いやりとりを繰り広げたに違いない。
「何それ、昭和の話?」
思わず眉をしかめて文句をつけてしまった葉菜だった。
「だから熱血友情話って言ったろ。こういうおかしなノリに持ち込むのは得意技だろ、柾樹さんの。中学に入ってからは先輩に因縁つけられたりとか、全く面識のない他校の男子に呼び止められたりとかもあったみたいだ。全部あの人らしく対処したみたいだけど。それで彼女作ってからかな、トラブルが段違いに減ったのは」
「刀根君のふざけた態度は、処世術でもあったのかしらね」とミルクティーが入ったカップの縁に口を当てながら、雪乃さんが納得したように言った。
葉菜は膝の上で手を握り合わせ、じっとコーヒーの琥珀色を見つめていた。
ずっと、葉菜だけがとばっちりを受けていたのだと思っていた。突然呼びだされて言いがかりをつけられたり、心ない悪口を浴びせかけられたり。柾樹が人生の明るいスポットライトの下を堂々と歩いて、その脇に出来た影の部分で、自分だけが嫌な思いをしているのだと。
少なくとも葉菜は、あからさまなイジメを受けたことはない。肩を押される程度はあったものの、酷い暴力を受けたこともなかった。
柾樹の方が、よっぽど……
「あのな、葉菜」
ゆるゆると顔を上げると、視線の先に巡君の目があった。声音と同じく遠慮がちな、自分の考えを探るような、どこかおぼつかない眼差しだった。巡君は今、葉菜と同じことを考えている。
「あの人確かに中学入ってからは短いスパンでばんばん彼女変えて、下半身の緩い女好きみたいな行動取ってたけど。や、実際ただ節操がないだけで、むしろそっちの可能性の方が大きいかもしれないけど」
「フォロー入れたいのか、評価にトドメを刺したいのかよく分からないわね」
雪乃さんが小声で合いの手を入れている。
「でも柾樹さんが今まで付き合ってきたのは、いつでもすっぱり別れられる年上の、あの人に見劣りしない綺麗で華やかな人ってパターンが多かった。それか、動じない女の人。こっちから訊いても、前の部活の時みたく冗談に紛らわせたりしてあんま正直なところを言ってくれないけど……これは俺の憶測でしかないんだけど」
巡君は中々本題に入らず、言葉を選ぶように視線をあちこちへ飛ばして言い淀んでいる。やっと決意したように目の力を強くすると、再び葉菜に固定した。
「前々から思ってたんだけどな。柾樹さんがああいった後腐れのない、ある意味周りに分かりやすい美人タイプの人と途切れなかったのは、目を向けさせたくなかったんじゃないかって。世の中変な奴がいっぱいいる。酷い手合いに目をつけられて、万が一の逆恨みが行かないように」
巡君は、逆恨みが行く先が誰かとは、はっきり言わなかった。
葉菜は唐突に思い出した。昔々、小学生の頃、いつだったか。
柾樹と帰っていると、途中の道で見知らぬ男子にからかわれた。大層恥ずかしくて、もう柾樹とは帰りたくないと衝動的に伝えてしまったことを覚えている。柾樹がどんな顔をしていたかは記憶にない。ただ、口にした直後に激しく後悔したことだけは感情として頭に残っていた。
次の日からその男子たちは遭遇しても何も言わなくなって、そんないざこざは有耶無耶になり、結局はそれまで通りほとんど毎日一緒に帰っていた。
――カムフラージュだったのは、一体、誰?
「何があったか知らないんだけどさ。柾樹さんは柾樹さんなりに考えて行動してるんじゃないかと思う。ちゃんと話し合ってみれば?」
一見友情に厚い美しい忠告をしてくれているようだけど、ぼそっと付け加えられた「何よりも、俺の平穏のために」という呟きを葉菜は聞き逃さなかった。台無しだよ巡君。
もし、意地を張らずにもっと早く素直になっていたら、今柾樹はこの場にいたのだろうか。
葉菜がぐずぐずしている内に、柾樹は見つけてしまった。優しい幼馴染みは、別の人にかっ攫われた。
手の中にあったはずの宝石は既に風化し、砂になって指のすき間からこぼれ落ちてしまった。
「あ、もうこんな時間」
雪乃さんの視線を追うと、壁と一体化した柱に掛けられている時計は下校時間二十分前を指していた。
「今日のお題は”刀根正樹”だったね」
おかしそうに言う雪乃さんに巡君は笑い返し、葉菜はそうですねと答えた。
「お、これこれ。色がいいし前から欲しかったんだけど、どうしても要るってわけじゃない贅沢品だから買うの迷ってたんだよね」
部活が終わった後、途中まで一緒に帰るかと巡君に誘われたものの、園生と待ち合わせしているからと断った。彼女も今日は手芸部がある日だった。
現在、葉菜たちは園生行きつけの店、コットンに来ている。約束通り、交換条件の品を選んでもらうためだ。
一口にミシン糸・ミシン針といっても種類は膨大にある。ずらりと棚を占めているとりどりの色やサイズの巻糸を前にして、園生は水を得た魚状態で生き生きしている。どれが何やらさっぱり分からない葉菜は一歩下がり、楽しそうに選んでいる友人を見守った。
「じゃ、これよろしく」
園生が、厳選した針とそれから糸をいくつか葉菜に手渡す。どれどれいかほどですか、と価格を確かめると――げ、結構なお値段で。手芸用品とはこだわろうと思えば天井知らずに金がかかるものらしいけど、さすがは親友、遠慮がなかった。
「分かった……」
約束だからと自分に言い聞かせ、唇を引き攣らせながらも園生に笑いかけて一緒にレジへと向かう。店内はまずまずの混み具合で、順番待ちの列に葉菜たちも加わった。
「あ、そうそう」
並びながら傍にある棚の小物を眺めていた園生が、不意に葉菜の方を向いた。
「ストラップ完成したよ」
「え、もう?」
材料を買いにいってから、まだ一週間しか経っていない。しかも手芸部の活動は週三回で、課題は家には持ち込まないと言っていた。確かに、朝進み具合を聞いた時は結構仕上がっていると園生は言っていたけど。
「ま、自分でも思ったより早く出来たとは思ったけどね。一年生用の簡単な課題だったしちょろいちょろい。めっちゃ可愛いの出来たから期待してて。今、先生に採点してもらう用に提出してる。返ってきたら渡すから」
「うん、ありがとう。楽しみにしてる――じゃあ、日向さんももう出来てるの?」
会話している間にも列は進んでいく。レジ待ちの順番は、残りあと三人というところだ。
「ああ、日向さん今日は部活休んでたみたい。来なかった」
「そう……」
答えるのに一拍置いた葉菜を、園生が黙って見つめる。
「柾樹も、来なかった」
それからなんとなく会話が途切れ、レジの順番はすぐにきた。
コットンを出ると、園生が本屋にも寄りたいと言いだした。駅に向かう途中に、三階建ての割と大きな書店がある。近くに葉菜たちが通っている高校もあるため、制服姿が目立つ。会社帰りらしきサラリーマンやOLなど、店内に人は多かった。これが、三階の洋書や専門書を置いてあるフロアに行くと、途端にがらんとしている。まあ、葉菜もまず用がないので三階には立ち寄らない。
「私あっち行ってくるから。後でね」
園生は手芸関連の実用書が置いてある方向を指さすと、軽く手を振ってそちらへ向かった。葉菜はというと特に捜している本もなく、漫然と雑誌コーナーへ行くことにした。ちなみにこちらの書店にコミック本は置いていない。辻を挟んだ向こう側に別館が建っており、そこがマンガ専門の店になっている。
途中、フロア中央にあるレジを通り過ぎようとして、張り紙を見つけた。
《レジ係募集中。高校生可。土・日も可能な方。委細面談》
葉菜は思わず立ち止まり、じっくり見入ってしまった。
一週間前の帰り道で、柾樹に言われた言葉が頭に浮かぶ。
『結果が判ってるのに曖昧な理由で学校行事以外に手を出して、勉強を疎かにするような奴を俺は助けたりしないよ』
あの時の葉菜には特に強い目的意識もなく、思いつきでバイトをしたいと口に出して、完膚無きまでにやり込められてしまった。
今だって状況は変わっていない。働くことを通して学校では得られない経験をして様々な人と触れ合いたいだとか、お金を貯めてどうしても欲しかったアレが買いたいなどの、人に理解を得やすい整った理由があるわけではない。ああ、携帯は持ちたいかもしれない。
別の声が、スッと入りこんできた。
『柾樹先輩を理由に葉菜が何もできなくなるようじゃ、この先困るのはあんた自身なんだからね。もうちょっと自分主体に考えるようにしたら?』
時間を置いて、思ってもみないタイミングで背中を押してくれる言葉がある。
葉菜は園生がいるであろう実用書コーナーの方へ首を巡らせた。至るところに配置されている棚に遮られ、目的の友人の姿は見えない。
口が微笑みの形を作る。
――ありがとう、親友。
人の心は変わる。常に流れに身を任せ、揺らぎの中でバランスを取る。停滞は、淀みを産み出す。
柾樹が葉菜の知らない所で感じ取り、人に出会い、影響されていったように。葉菜もまた、変わっていかなければならないのだろう。
慣れきった場所から踏み出すのは、怖くて寂しくて切ない。
でも必要で、自然なこと。
「すみません、この張り紙なんですけど」
慣れた手際でレジ係が人を捌いていく。手が空くタイミングを見計らって、葉菜は声をかけた。