白い月
「見ろよ教子。ほらあれ」
嬉しそうに空を差す睦月の指先の延長線上にあるのは蒼い空に浮かぶ白い月だ。
「空に穴が空いてる」
思いついたまま口にした言葉に、睦月が苦笑いを浮かべた。
「教子の想像力には本当に感心するよ」
こんな顔の睦月を私は何度か見たことがある。本当に言いたいことを隠したまま、それを相手に悟らせないように無理をして笑う。
だから顔が不自然になることに、きっと睦月は気が付いてない。自分がいかに嘘をつくのが下手くそなのかってことを。
「じゃあ睦月ならなんて言うの」
ふてくされた言い方になったのが自分でもわかった。
「うん、俺か。俺ならそうだな。なんて言うだろう」
指先を使ってファインダー越しに月を覗くような仕草をした。私の好きな人はものすごく純粋だからきっとちゃんとした返事をくれるだろう。
どのくらいの間、そこにそうして立ち止まって考えていただろう。
睦月が突然何かを思いついたように私の顔を見た。その瞳に一瞬心臓がうるさく跳ねた。射るようなブラウンの瞳に、全身が緊張した。
「教子のに似てるな」
そう言って笑う睦月の笑顔が月の明かりに照らされているみたいに私は錯覚を覚えた。
「私の、なに」
「これだよ」
睦月の体温は私よりもずっと高い。睦月の肌が私に触れるといつも、そこから急速に熱が伝わってゆくような気がする。
だけど今日は違っていた。耳たぶに触れた睦月のきれいな指先は、いつもより冷たかった。
「ピアスの穴、塞がらないね」
「塞がった方がいいの?」
「いや。つけないでそのままにしておくなら、その方がいいんじゃないかと思っただけだよ」
「そうね。でもまたいつ付けたくなるか分からないし。睦月がプレゼントしてくれるなら、いつでも付けるけど」
「冗談だろ。俺がお前にピアスなんかやったら、俺は柴咲に殺される」
穏やかな表情を滅多に崩すことをしない睦月が苦しそうに眉根を寄せ、唇を引き締めた。
何も言わなくなった睦月から半歩遅らせて私は黙ったまま歩いた。ぽっかりと浮かぶ真昼の月が私たち二人を見降ろしている。
睦月の心に一向に訪れてくれない変化を、ピアス不在の肉厚に時々触れながら私は泣きたくなった。
「帰るか。そろそろ腹減ったな」
「うん。そうだね」
私と睦月の間にある見えない壁。それは誰にも壊せないとてつもなく高くて分厚いものだ。見えないから余計に厄介で、逆に存在感を放っている気がする。
初めてピアスの穴を開けたのは高校二年生の夏休みだった。
大学生になった睦月が、初めて家に彼女を連れてきた。妹として挨拶をした。血は繋がってませんけどって言ってやるつもりだったのに、睦月の顔を見ていたら言えなかった。
初めて目にした睦月の男の顔。私の前では決して見せないよそよそしい顔。バイト先の和音がピアスを開けたのを見て、私はその日に彼女に頼んでピアッサーで穴を開けた。ガチガチに凍った固い氷でなくなっていく耳たぶの感覚に、心に巣くうわだかまりも一緒になくなってくれたらいいと思ったのをよく覚えている。
家に着く手前で携帯の着信音が鳴り睦月が振り返った。
「出ないのか?」
小さな画面を見たままの私を訝しそうに睦月が下から覗き込む。
「別にいいの」
「柴咲なんだろ?あいつ言ってたぞ。お前が最近素っ気ないとか冷たいとかって。もっと優しくしてやれよ。あいつはお前に本気で惚れてるんだからさ」
そんなことを平然として話す睦月の笑顔を直視なんて出来るはずがなかった。
「なんでそんなこと言えるの」
「教子?」
「睦月が悪いんじゃない!あの時、あんなこと睦月が私にしなかったら」
そうだ。あの時、ピアスを開けて家に帰ると家には睦月しかいなくて、ピアスを開けるきっかけを考えたら睦月と顔を合わせることに恥ずかしくなった私は、真っ直ぐに部屋へと向かった。
ケーキがあるから食べないかと部屋に来た睦月が、私の顔を見て言ったのだ。
急にそんな風に女になるな。睦月の視線にそれまでとは違う何かを感じた気がした。睦月が私の耳たぶに触れたとき、その手で彼女に触れていることを想像した。
好きなの。そう心のなかで呟いた声が、まさか声になっていたなんて。
自分の力ではどうにもならないくらい強い引力に引き寄せられるように、睦月と私はキスをした。
睦月の温もりを確かめながら、睦月の背中越しに見える夕方の空に浮かんだ白い月を私は空っぽになった心で眺めていた。
「私はあの時から女になることを諦めたのに!」
そうだ。あの時に私はあの白い月に誓った。睦月と結ばれることが一生ないのなら、誰の女にもならない。その思いを、その誓いを、私が睦月を愛してしまった罪を忘れたくなかった。だからこそ、このピアス穴をわざと残した。
睦月と私は太陽と月だ。
惹かれあっても決してひとつにはなれない。この距離は決して埋まらない。
この心に開いたままの大きな傷も、塞がらないピアスの穴も。
<了>