*3
――動くなと言われ、何もすることが無く、目を閉じる。
吹き抜ける風が涼しくて、熱を持った体を優しくなでる。
どれくらい時が経ったのかわからないけれど、ふと気づくと後頭部をなでる手があった。
どうやら目をつぶって横になっていたら少しばかり寝てしまっていたらしい。
つくづく締まらない一日。
後頭部をなでられるのは本日3度目のはずなのに、なんだかこれまでと違った気がした。
もっと昔に知ったその手。
泣いてうずくまる私を優しく包み込んでくれたその手。
不意に記憶の中にあるその手の主の名を呼ぶ。
「……コウくん?」
一瞬止まる手。
顔をその手の主にむけるとさっきの男の先輩がいた。
「――っ。すみませ」
なんでこの名前を呼んだんだろう。
夢から現実へ一気に引き戻される。
日が落ちかけて薄暗い辺りが急に訪れた静寂を強調する。
「――」
その先輩が口を開いて何かを話そうとした時、遠くから女の人の声がした。
「ユキト!氷もらってきたよ!」
――バスケ部、ユキト。
ああ、目の前にいるこの人はタカヤギ先輩か。
いつも機会を逃して、実際お目にかかるのは初めてだけれど、評判通りかっこよかった。
ちょっと親切心が押しつけがましかった気もするけど、ボールを当てたのは自分だと言っていたし、責任を感じているからなんだろう。
なんだか今日は不幸続きで心がやさぐれて、人の好意を素直に受け取れてないみたい。
うん、タカヤギ先輩は素敵な人だ。
…ってことは、話が漏れたら、明日あたりクラスの女子から何かしらこの状況の追及を受けるかもしれないな。
ちょっと面倒くさいかも。
ああ、コウくんの名前をうっかり呼んじゃうし、明日は憂鬱だし、今日はとことんツイてない。
「――ああ、コノミ。サンキューな」
近づいてきたのは、目がくりくりしていて愛らしい女の人。
――そして、この人がコノミ先輩。
確かに、隣に立つと美男美女カップルという感じでお似合いの二人。
友人が言っていた噂は本当なのだろう。
「ありがとうございます」
起き上がろうとしたら、ものすごい勢いでダカヤギ先輩に止められた。
「おい、まだ寝てろって」
その言葉に親密性を感じたのか、コノミ先輩がムッと口先をとがらせて私を見る。
いや、全くそんな関係じゃないんだけど。
勘違いされて、これ以上面倒くさいことに巻き込まれる体力も気力も存在しない。
もうここまでツイてないと笑いすら出てきそう。
「――はい。これ氷。私、練習に戻ってるから。あなたも早く戻ったら?もうそんなに痛くないんでしょ?」
それだけ言い捨てるとコノミ先輩は走って去って行った。
ああもう、ほんとやめて!これ以上の面倒事は厄介。
「あの、もう大丈夫なので。氷、ありがとうございました」
受け取る、というよりもちょっと強引にタカヤギ先輩から氷を奪って立ち上がる。
「――おい」
「あのっ!」
日頃出さない大きな声に出した私が驚いてしまう。
なんだか今日はペースが狂ってばかりだ。
「あのっ…いろいろありがとうございました。私、一旦練習戻ります。コノミ先輩にもお礼言っといてください。すいません、失礼します」
これ以上一緒にいて、コノミ先輩の嫉妬を一身に受けること、変な噂をたてられることは避けたかった。
一礼をして去ろうと背を向けた時。
「モモ」
この場から逃げ出したくて踏み出した次の足が止まる。
―――今、なんて言った?
「モモ」
頭が真っ白になる。
最初に考えたのは、2度も頭を打ってどこかネジが緩んではじけ飛んだのかもしれないということ。
次いで浮かんだのは…これはきっと悪い夢なんだということ。
朝から悪いことばっかり。
まだ私は夢現の中なんだ。まだ夢から醒めてないんだ。
よくわからないけれど、この事態を現実だと認めたくなかった。
タカヤギ先輩がコウくん…?
こんな時こそ頭を回転させなきゃいけないのに、この意味不明な事態に、私の思考は凍てついて、何も考えることができない。
もう頭はパニックだ。
だって後ろにいるのはタカヤギユキト先輩で、コウくんじゃない。
それに名乗ってもいないのに、どうして名前を知ってるの?
それに、今まで友達から桃香とか桃ちゃんって呼ばれることはあっても「モモ」だけはない。
「ニックネームどうする?」って聞かれたら、「呼び捨てで」って言うことで、「モモ」と呼ばれることだけはやんわりと避けてきた。
私が知る限り、私のことを「モモ」って呼ぶのはコウくんだけ。
「モモだよね?最初気付かなかったけど」
「――こ、コウく…ん?」
こわごわと振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにタカヤギ先輩がいた。
「……なんで?」
だって名前も違うし、もうわけわかんない。
わけもわからぬまま、考えることから逃げたくて、私はその場から走って逃げだした。
12時の鐘が鳴ったシンデレラのように。
まだ夢が覚めてないだけだと信じて。
――タカヤギ先輩は追ってこなかった。
とりあえず、部活に戻り、キャプテンに当たった部分が腫れているから大事を取って帰ると伝えた。
キャプテンも了承してくれて、急いで着替えて、道具を持って帰った。
バレー部の――体育館中の視線が集まっている気がして、居心地が悪かった。
明日は部活がない。ちょっとだけホッとした。




