波紋
「化粧水がなくなったわ。」
風呂上がりの彼女は、鏡を睨み呟いた。
晒された白い背中がうねり、黒い髪が流れる。
「ねぇ、なくなっちゃった。」
振り返った彼女の頬が甘そうだったので、舌をのばして舐めてみる。
石鹸が香っただけだった。
「唾液じゃあ保湿にならないわ。」
不機嫌そうに毒づかれた。
化粧水より愛は含まれてると思うけどな。
「最悪。どうしてみんな無くなっちゃうの。」
のろのろと立ち上がった彼女は台所へ向かう。
蛇口を捻る腕は日ごとに細くなるように思えた。
空になった化粧水の瓶。
それに水道水を満たし、蓋をする。
ご丁寧にラベルには日付を、そして順番通り棚に並べる。
喪失を恐れる彼女の妙な癖。
ただの水を詰められた瓶は増え続けるが、僕にはその意図はわからない。
「シイナ、こっち来て。」
おおせのままに、お嬢様。
彼女は僕を捕まえると、そのまま床に寝ころんだ。
濡れた髪が広がり、奇妙な図形を描く。
僕は知っている。
整然と並んだ瓶の後ろに隠された、写真立ての存在。
伏せられたそれに写っているのは、僕と彼女と、シイナ。
ある日シイナは消えた。
海辺で撮った写真だけを残して、まるで雨のように消えてしまった。
僕を抱いて笑う彼女は、本当に幸せそうな顔をしていたのに。
彼を失った彼女は、いとも容易く折れてしまった。
僕はシイナと呼ばれるようになり、対価として「僕」は失われた。
窓は塞がれた。
時計は壊された。
この部屋は、シイナと彼女の水槽。
波紋の無い静かな水面は、ゆっくりと腐っていく。
ただただ、思い出を囲う壁が厚くなっていくだけ。
そして、僕に与えられたのは代替という役割だけ。
ほんの少しの希望を込めて、ワンと小さく鳴いてみた。
「わたしも愛しているわ。」
と彼女は笑った。
ほら、自虐にすらならない。