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裏庭でタバコを吸っていたら

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/10/30

 ローデン伯爵家のヴィオラ嬢は、どなたのお話にも熱心に耳を傾けてくださる。


 そんな評判を残して客の馬車が門を出たところで、ヴィオラは玄関に立つ母へ一礼した。まだ茶器の残っている応接室へ戻るふりをして廊下を曲がり、途中から足を速める。裏口を抜けるころには笑顔を保っていた頬が痛かった。


 裏庭の石の腰掛けには落ち葉が二枚あった。指で払ってドレスの裾を持ち上げ、腰を下ろしてから袖口を折る。腰掛けの下から取り出した灰皿に持参した小瓶の水を注ぎ、銀色のケースを開くとようやく息がつけた。


 細いタバコを一本くわえて火をつける。壁に囲まれた一角からは裏門と庭木しか見えない。ここまで追ってくる客はいないし、母も夕食前にわざわざ土の上を歩かない。


「二時間よ。二時間かけてお話しくださったのに、結局どこの馬車屋さんなのか分からなかったわ」


「お求めになる予定がおありでしたか。肩掛けをお忘れでしたのでお持ちしました」


 背後から届いた声にヴィオラはタバコを持つ手を壁の方へ向けた。振り返るとリタが古い肩掛けを広げている。濃紺の制服に白いエプロンといういつもの姿だったが、もう仕事は終えたらしくエプロンの腰ひもは緩めてあった。


「ありがとう。もう上がっていたのに悪かったわね。馬車は買わないわよ、置き場所がないもの」


「それでしたらお店が分からなくても困りませんね。今日は風がこちらへ回りますから、袖にお気をつけください」


 ヴィオラが肩掛けを受け取ると、リタは半歩離れた。二年前に初めてここで見つかったときから、煙の来ない位置を覚えている。あのときは叫びもせず、伯爵令嬢の口元を見て「灰皿はどちらですか」と尋ねた。ヴィオラは二十六歳になった今も、それより気まずい問いを受けた覚えがない。


 リタは裏口へ戻らず、表の門へ続く小道へ目を向けた。何か聞きたそうなのでヴィオラが顎で隣を示すと、腰掛けの端に手拭いを敷いて座る。座ってからも小道の方を見ていた。


「届け物でも待っているの。市庁からのお返事は表の玄関へ来るでしょう」


「そちらではありません。フェリクス様は今日もお帰りが遅いのかと思いまして。夕食までにはとお聞きしていたものですから」


 弟は土木局の仕事で朝から出ていた。家で図面を書く日もあれば、日が暮れてから泥のついた靴で帰ってくる日もある。ヴィオラは昼食後に届いた伝言を思い出し、夕食には間に合うはずだと答えた。


「何か用があるなら預かるわ。図面の置き場所かしら、また自分でどこかへしまったのね」


「ご用はないんです。今日はもうお会いしないかもしれないと思っただけで。……ヴィオラ様、少しお話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」


 リタはエプロンの裾をそろえた。頬のそばかすまで見慣れているのに、目を伏せると知らない娘のように見える。ヴィオラはタバコを灰皿の上にかざしたまま、続きを待った。


「フェリクス様をお慕いしております。どうにかしたいと申し上げているのではなくて、ただ、どなたにも言えないままでいるのが苦しくなってしまって」


 灰が長くなっていた。指を止めたヴィオラの手元へリタが灰皿を差し出し、ようやくそこへ灰を落とす。余計なところへ落とす前に受け止められたことに礼を言おうとして、もっと先に言うことがあると気づいた。


「弟を。あのフェリクスを好きなのね。いつからなの、あの子に何か言われた?」


「何も言われておりません。半年前に雨で図面がぬれてしまったことがありましたでしょう。あのころからです。その後も紙のことでお尋ねくださって、お話をするようになって」


 父親が製本職人だからとリタが呼ばれた件は知っていた。弟は図面を持ち歩く袋を買い替え、それを家族の食卓で皆に見せた。袋の裏地の話ばかりしていたので聞き流していたが、あれほど楽しそうだったのはリタに選び方を教わったからなのか。


「私が説明すると、図面を横に置いて最後まで聞いてくださるんです。分かりにくかったところもそのままにせずに聞き直してくださって。私も次は何をお聞きになるのだろうと、お帰りを待つようになりました」


 ヴィオラはタバコを水に押し当てた。あと半分ほど残っていたが、聞きたいことが多くてそれどころではない。弟の部屋へ行きたい衝動をこらえ、リタの顔を見る。


「あなたは私にどうしてほしいの。フェリクスと話す時間くらいなら作れるけれど、本人に伝えてもいい?」


「それはまだ、お待ちください。私がお話ししたことはフェリクス様には内緒にしていただけませんか。聞いていただけただけでも楽になりましたから」


 リタが顔を上げた。目の縁が赤くなっていて、ヴィオラは普段の働きぶりをほめるときの言葉を使いかけてやめた。膝に置いた彼女の手に触れ、分かったと答える。


「内緒にするわ。あなたがよいと言うまでは、私から話さない。会う機会くらいは考えておくけれど、何かする前に相談するわね」


「ありがとうございます。けれど本当に、お気を使っていただかなくても大丈夫です。試験のこともありますし」


 市庁の地図資料室で働きたいという話を聞いたのは三か月前だった。読み書きと計算はできるが、書類の分類の試験が難しいと、リタは休憩時間にも紙片を並べていた。結果が出ればそちらに忙しくなる。ヴィオラはそれまでに弟とのお茶を一度くらい設けようと考えた。


 リタを部屋へ帰した後、ヴィオラは裏口の洗い場で手を洗った。誰にも話さないと約束したので、弟には何も言えない。ただ席を一つ設ける程度なら秘密を明かすことにはならないはずだった。


 翌朝、リタの試験の結果が届いた。通知を持って報告に来た彼女は紙の角をつぶさないよう両手で支えていたが、文字を読むころには口元を隠しきれなくなった。ヴィオラは机から立ち、まずはおめでとうと言ってその手を取った。


「採用だなんて、立派だわ。お父様たちにはもう知らせたの?今日は手紙だけで済ませずに、お休みを取って顔を見せに行ったらどうかしら」


「ありがとうございます。午後に時間をいただけるかマルタさんに伺います。こちらの勤務を終える日もご相談しないといけませんから」


 勤務の開始は今日から十七日後。それまでに両親の家へ戻って荷物を整理する必要があった。ローデン家の引き継ぎには十四日を使い、残る三日を新しい職場への準備に充てる。リタの話す順序は整っていて、相談に来る前から何度も考えていたことが分かった。


「それでは今日、退職の申し出をするのね。あなたの代わりをどうするかは私からもマルタに話しておくわ。慌ただしくなるけれど、荷物のことも困ったら言いなさい」


「はい。荷物のことでしたら、父が馬車を頼んでくれます。フェリクス様のお手をお借りしなくても大丈夫ですので」


 ヴィオラは口を閉じた。まだ言っていないことを止められたが、言おうとしていたのも確かだった。リタが笑って通知を胸に寄せるので、釈明はせずに彼女を送り出す。


 十四日後にはいなくなる。机に戻ったヴィオラは予定表を開き、今日の午後に空いている一時間を見つけた。弟も今日は家で仕事をする。採用を祝ってお茶に招くなら不自然ではない。


 リタの両親への報告は午後遅くになった。昼の食事を片付けてからお茶の用意をする彼女に、ヴィオラはカップを三つ出すよう頼んだ。リタは三つ目を盆に載せかけ、考え直したように手を引いた。


「私もいただくのでしたら、給仕はどなたがなさいますか。マルタさんにはいつもの用意をするように言われておりますが」


「私が注ぐわよ。合格のお祝いなのだから、あなたも座ってちょうだい。フェリクスも聞いたら喜ぶと思うわ」


「では先にマルタさんへ確認をしてまいります。代わりの方をお願いすることになるかもしれませんから」


 その間に弟が応接室へ来た。栗色の髪を指で直しながら椅子に腰を下ろし、菓子の皿へ手を伸ばす。姉がじっと見ていると、自分の上着に何かついているのかと肩を確かめた。


「別に何もついていないわ。今日はリタの合格をお祝いするの。地図資料室の採用試験に受かったそうよ」


 フェリクスの手が止まった。すぐに顔を上げて入口を見るので、ヴィオラは気づかれないよう口元を引き締める。少なくとも関心がないわけではなさそうだった。


 戻ってきたリタは交代の人が手を空けるまで自分が給仕すると説明した。フェリクスに祝われると耳まで赤くしながら礼を言い、ポットを持ち上げる。ヴィオラが隣の椅子の前へ菓子の皿を寄せても、リタは盆の上の茶器を扱うために立ったままだった。


「仕事を始めたら昔の図面も扱うんですか。あのぬれた紙よりずっと古いものがあるでしょうから、僕には怖くて触れそうにありません」


「最初は書類の受け付けと分類だそうです。古い図面を直す方は別にいらっしゃいます。私も、いきなりお預かりするのでしたら困ってしまいます」


 リタは困ると言いながら笑っていた。弟が父親の仕事について尋ねると、製本と紙の修復は同じではないのだと説明する。フェリクスは口を挟まずに聞き、最後に自分の勘違いだったと笑った。


 ヴィオラは菓子を口に運ぶ手を止めて二人を見た。こんなふうに話すところを、これまで何度も見過ごしていたらしい。もっと話していていいと伝えたくて、空になった皿をリタへ渡そうとする弟を止めなかった。


「僕が持っていきますよ。廊下で交代の人と会ったら、そのまま渡せますから」


「お待ちください。そのお皿を下げるのでしたら、こちらのカップも一緒に。いえ、そちらはまだヴィオラ様がお使いになりますので」


 弟が立ち、リタが盆を置き直し、ヴィオラの前からカップが一度なくなった。戻ってきたカップは受け皿の模様が違う。廊下へ出た弟を追ってリタも応接室を離れ、しばらくしてマルタを伴って戻ってきた。


「お祝いの席を設けるのでしたら先にお申し付けください。給仕を交代するだけでは、残りの仕事までは片付きませんので」


 マルタに注意されてヴィオラはうなずいた。ようやく座れたリタの前には冷めた茶が置かれ、両親の家へ行く時刻も迫っている。だが帰っていく彼女に弟が改めておめでとうと言い、リタも顔を上げて礼を返したので、ヴィオラは全くの失敗ではなかったと思うことにした。


 翌日は自分の用事を片付け、その次の日には庭を歩く時間を作った。今度はお茶も給仕もいらない。リタが昼の休憩を取る時刻に自分が庭へ出て、家での打ち合わせを終えた弟に合流してもらう。三人で話してからヴィオラだけ戻ればよかった。


 マルタに事情を伏せたまま、リタと少し話す時間が欲しいと頼んだ。昼の片付けが済んでからならと言われ、庭で待つと伝える。弟には朝食の席で声をかけ、仕事が終わったら来てちょうだいと念を押した。


 ところが弟の打ち合わせは終わらなかった。土木局から来た相手と書斎にこもり、昼を過ぎても出てこない。ヴィオラは庭から戻って伝言を頼み、リタにももう少し後にすると知らせた。


 リタは食器棚の前で後任のメイドへ説明をしているところだった。棚には磨き終えた茶器が並び、彼女の手には在庫を書き留めた紙がある。ヴィオラは仕事の邪魔をしたくないと思い、終わったら裏庭へと伝え直した。


 弟の書斎から返事が来る前にリタが庭へ出た。今度はヴィオラが廊下で伝言を受け取っていて行き違いになる。庭へ急ぐと彼女は腰掛けにも座らず、両手を前で重ねて立っていた。


「ごめんなさい。フェリクスがまだ来ないのよ。先に座って待っていてちょうだい、あとどのくらいか聞いてくるわ」


「もう一度お戻りになるのでしたら、私も仕事へ戻ってよろしいでしょうか。休憩が終わるまでに戻ると伝えておりますので」


 ヴィオラは庭の時計を見た。自分が使ったのは伝言を頼むためのわずかな時間でも、リタはそのたびに作業を止めて待っていたのだ。慌ててうなずくと、彼女は礼をして屋敷へ戻った。


 フェリクスが現れたのはさらに後だった。小道の曲がり角から歩いてきて、姉一人がいるのを見ても特に驚かない。長引いた話を謝ってから隣へ座った。


「僕に何か用だったの。急ぎではないと聞いたから、向こうを待たせられなくて」


「あなたにだけ用というわけではなかったのだけれど。もういいわ、今日は合わなかったから」


 自分でも曖昧な答えだと思った。弟は首をかしげたが、相手がまだ書斎で待っていると聞かされて戻っていった。ヴィオラは腰掛けの石を見下ろし、誰も座らなかった端を手で払った。


 その晩はタバコを吸いたくなって裏庭へ出た。仕事を終えたリタにここで話をしたいと頼んであったので、ケースを手にしたまま待つ。彼女は肩掛けを届けるためではなく、自分の上着を着てやってきた。


「今日は待たせてしまって悪かったわね。次はフェリクスの休みの日にするから、今度こそ――」


「次のことを決める前に聞いていただけませんか。今日、何をお話しするのか分からないまま待っているのは困りました」


 リタの声にヴィオラは手を止めた。開きかけたケースの中には四本残っている。一本を取り出すところだった指を引っ込め、ふたを閉じて膝に置いた。


「フェリクス様とお話ししたくないのではありません。でも、お茶を注ぐ仕事をしながら何を話せばいいか考える余裕はありません。お庭でお会いしても、いつ呼び戻されるかと思うと落ち着きません」


 お茶の席で交わした会話をヴィオラは思い返した。弟を見て赤くなったリタばかりを覚えていて、彼女の手がずっと動いていたことを忘れていた。今日はとうとう会うことさえできなかったのに、自分はまだ次の予定を口にしている。


「それにヴィオラ様がご覧になっていると思うと、何を言っても気持ちが分かってしまいそうで。あのときはお話を聞いていただきたかったんです。仕事を変えていただきたかったわけではありません」


 リタは言い終えてから頭を下げた。慌てて立ち上がったヴィオラの膝からケースが滑り、肩掛けの端に引っかかる。受け止めて座り直すまでに、謝る言葉は決まっていた。


「ごめんなさい。何かする前に相談すると言ったのに、私が勝手に決めたわ。あなたの予定も聞かずに。今日のことはマルタにも私から説明するから、明日の引き継ぎに響かないようにするわね」


「仕事のことはお願いいたします。私も途中で戻ると言えばよかったんですけれど、何かご用があるのかと思ってしまって」


 ヴィオラには用があった。リタと弟がうまくいくところを見たかった。そのために自分が庭へ呼べば、彼女は来るしかなかったのだ。ヴィオラは言い訳を探すのをやめて、もう一度ごめんなさいと言った。


 リタが帰った後もケースを開く気にはなれなかった。水を入れただけの灰皿を腰掛けの下へ戻し、肩掛けを外して腕にかける。翌朝はマルタに話すことを、予定表の最初に書いた。


 マルタへの説明には長くかからなかった。ヴィオラが仕事を止めたことを認めると、彼女は眼鏡を押し上げ、今日の引き継ぎを誰が手伝うか確認した。頼みたいことがあればまず自分へと言われ、そのとおりにすると答える。


 リタと話すのは夕食後にした。今度は仕事が終わる時刻を聞き、彼女の都合を確かめてから自室で待つ。窓の外では庭木が揺れていたが、裏庭へ誘うのもやめた。


「あなたがどうしたいのかを聞かせてほしいの。私に何もしてほしくなければそう言って。屋敷を出てからフェリクスに会わないと決めているのなら、それも止めないわ」


 リタは用意されていた椅子を見た。ヴィオラが自分の隣ではなく向かいへ座り、カップを持ち上げてみせると、ようやく腰を下ろす。膝の上で指をそろえたまましばらく黙っていた。


「お会いしたいとは思います。お仕事の話も聞きたいですし、私の新しい職場のお話もできたらと。でも、それは私が勝手に思っているだけですから」


「ではフェリクスがあなたと仕事以外の話をする気があるか、聞いてみてもいいかしら。好きだと聞いたことは言わないし、理由を聞かれても答えない。会ってみたいかどうかだけにするわ」


 リタは紅茶の表面を見つめてからうなずいた。すぐに、答えを急がせないでほしいと付け加える。その慎重さをもどかしいと思いかけたヴィオラは、先日自分が何をしたかを思い出して口を閉じた。


「お返事がよくなくても、いつもどおりに接していただけますか。最後まで仕事はちゃんといたしますし、紹介状に書いていただくようなことも変わりませんから」


「変えるはずがないでしょう。……そうね、私がこういうことに関わったら、あなたはそこも気になるのね。マルタが作る勤めの記録は私のところへも来るけれど、今日ここでした話を書き加えたりはしないわ」


 リタが初めて紅茶に口をつけ、少し甘いと笑った。砂糖はヴィオラが自分と同じ量を入れていた。次からは自分で入れてもらおうと考え、残りの茶を注ぎ足す。


 弟を訪ねたのはその後だった。書斎の扉をたたくと、フェリクスは机に広げていた紙を重ねた。図面かと思ったら借家の間取りで、王都の東側にある二軒を比べている。


「まだ決まらないの。仕事場に近い方でいいではない、雨の日にも楽でしょう」


「近い方は家賃が高いんだ。それに図面を広げる場所が狭い。台所の卓で仕事をしたら、毎回食事の前に片付けないといけないから」


 実家では広げたまま食堂へ行けば済む。ヴィオラがそれを口にすると、弟はだから少し狭い部屋に慣れる必要があると答えた。三年前に土木局へ入り、いつまでも家から通うつもりはないらしい。口を挟むより先に椅子を勧められ、ヴィオラは素直に座った。


「あなた、リタとは普段どんな話をしているの。お茶の席では紙の話をしていたけれど、それ以外には?」


「市庁の仕事のこととか、お父さんの店のこととか。姉さんが僕たちを庭に呼びたがる理由については、まだ話していないよ」


 ヴィオラは言葉に詰まった。あれほど伝言を行き来させれば、不自然に思われるのも当然だった。しかも弟の言い方では、リタも自分に付き合わされていると察している。


「それは謝るわ。リタにももう謝ったの。あなたたちが仕事以外でも話したいと思うか聞かせてほしかったのだけれど」


「そのために二人を呼んだんだね。でも次は呼ぶ前に僕に聞いてほしい。打ち合わせを切り上げても、リタさんの仕事まで終わるわけじゃないから」


 姉の答えを待ってからフェリクスは間取りの紙を脇へ寄せた。しばらく机の木目へ視線を落とし、やがて姉を見る。ヴィオラは続きを促す代わりに、膝の上へ手を置いた。


「僕はリタさんが好きだよ。だから彼女も話したいと思ってくれるなら会いたい。でも姉さんに頼んで仕事を替えてもらってまで、会ってほしかったわけじゃない」


 ヴィオラは椅子から腰を浮かせかけた。今すぐリタのところへ行きたい。よかったわねと手を取りたいし、明日は何を着るか一緒に選びたかった。ところが弟はそれを見越したように手を上げた。


「今言ったことを、僕より先に伝えないでほしい。面会の申し込みをしても大丈夫かだけ確かめてもらえるかな。あとは自分で話すから」


「分かったわよ。私、そこまでおしゃべりではないつもりなのだけれど。あなたが好きだと聞いたら、喜ぶ人は私以外にもいると思って」


「姉さんが喜んでくれるのはうれしいよ。ただ、僕に返事をする人には僕から聞いてほしいんだ。それで断られたときも、僕の方で受け止める」


 ヴィオラは椅子に座り直した。灰色の目をそらさずに、弟は姉の返事を待っている。自分が呼べば来るだろうと考えたときには、この顔を思い浮かべなかった。


「それで、どうして今まで何も言わなかったの。リタはいつもあなたの仕事を気にしていたでしょう。話しかける機会はあったはずよ」


「仕事中だからだよ。あの人は僕が話しかければ手を止めてくれるし、頼めば残ってくれる。でもそれが僕と話したいからなのか、家の息子に頼まれたからなのか、分からないまま誘いたくなかった」


 それではいつまでたっても分からないではないかと、ヴィオラは言いかけた。弟も同じことを考えたらしく、でも黙っていたらこのまま会わなくなると続ける。リタが去る日を確かめる声には、姉とは違う焦りがあった。


「新しい仕事に慣れてからなら、断るにしても今より言いやすいかもしれない。だから今は、会う気があるかだけ聞きたい。屋敷を出たら必ず会ってくださいと約束させるつもりはないんだ」


 ヴィオラが返事をして立ち上がると、肩に掛けていた布から銀のケースが落ちた。裏庭へ行くつもりで肩掛けにくるみ、そのまま持ってきてしまったのだ。弟が拾って差し出すので受け取ろうとしたが、ふたに触れた指が止まった。


「それは誰のもの。姉さんがタバコを持っているところを見るのは初めてだけれど、届け物ではないんだよね」


「私のよ。自分で買ったし、中身も自分で買っているわ。あなただって二十歳のころから買えたでしょう、私が持っていてもおかしくはないわよ」


「買えるかどうかは聞いてないよ。そうか、あそこへ行くのはそのためだったんだ。リタさんは知っているの?」


 隠そうとした形跡が自分の口調に残った。ヴィオラはもう一度私のよと答え、弟の手からケースを受け取った。リタに見つかったことも話すと、フェリクスは天井を見てから姉へ目を戻す。


「後片付けまでやらせてないよね。秘密だからといって、灰皿を洗う仕事を余分に頼んだり」


「やらせていません。自分で洗っています。あなたまで同じことを言うのね、火の始末も自分でしているわよ」


 答えてからリタが何を言うのかまで明かしてしまったと気づいた。弟は笑いをこらえている。ヴィオラは早々に扉へ向かったが、その背中に姉さんと声がかかった。


「お願いしたことは頼むよ。父さんに話すことになったら、そのときは席を作ってもらいたい。隠れて会っているのかと疑われる前に、僕から話せるように」


「ええ。父が帳簿と格闘した後の日を外しておくわ。そこは私に任せてちょうだい」


 今度こそ任せてもらった仕事ができた。ヴィオラは廊下でケースを肩掛けに包み直し、明日はリタに返事をしようと考えた。


 翌朝、リタに面会の申し込みを伝えると、その晩なら大丈夫だという返事だった。仕事を終えた彼女は制服から深緑のワンピースに着替えて応接室へ来た。まとめた髪もいつもと違い、顔の横へ落ちる毛を指で直しては手を下ろしている。


 ヴィオラは茶器を用意して待っていた。本人に聞いて選んだ茶葉で、砂糖は別に置いてある。三人分の椅子を確かめていると、フェリクスが扉をたたいて入ってきた。


「時間を取ってくださってありがとうございます。仕事の後に疲れていませんか。別の日でも大丈夫ですから、無理ならそう言ってください」


「大丈夫です。私もお話ししたいと思っておりましたので。フェリクス様こそ明日は早くお出かけではありませんか」


「明日は局で図面を書く日なんです。靴を泥だらけにせずに帰れますよ。今日は出かける前に姉さんから、靴の裏をよく見て入るよう言われました」


 ヴィオラは何も言わずにカップを置いた。実際には上着の襟も直すように言ったが、それは話さずにおいてくれたらしい。リタの口元が緩み、フェリクスも笑ったので、ここに座り続けたい気持ちを抑えて立ち上がる。


「私は部屋へ戻るわ。リタ、まだいてほしいならそう言ってね。急いで二人きりにするつもりはないから」


「ありがとうございます。もう大丈夫ですので、お部屋でお待ちください。後ほど私から伺います」


 リタが砂糖をひとさじ入れ、フェリクスは容器を戻しやすいように皿を寄せた。ヴィオラは二人の手元から目を離して扉へ歩く。閉じる前に弟が何かを話し始めたが、内容までは聞かずに廊下を進んだ。


 自室の机では帳簿が待っていた。いつもの計算なのに数字を何度も見直してしまう。ページを進めるために鉛筆で印を付け、それでも時計を見てしまったところへ、リタが扉をたたいた。


 彼女は笑おうとして口を結び直した。目は伏せていたが困っている様子ではない。ヴィオラが向かいへ座るよう促すと、今度はすぐに腰を下ろした。


「新しい仕事に慣れたころに、一緒に出かけるお約束をしました。日時は私からお手紙でお知らせすることになりましたので、初めのうちに休みが分からなくても大丈夫です」


「そう。それはよかったわね。何を話したか聞きたいのは山々だけれど、聞かない方がいいところは話さなくていいわよ」


「図面の袋をお見せになりたいそうです。仕事の話以外をしようと思っていたのに、結局そうなってしまったと笑っていらっしゃいました」


 ヴィオラも笑った。よく知っている弟の困り方だった。リタは両手を合わせ、今度は自分も父の店の紙を持っていくと話す。制服のときと同じ指先が膝の上で動いていたが、今は布の端をつかんでいなかった。


「少しずつ知っていけたらと思います。何もかも分かっているつもりでおりましたけれど、好きな食べ物も、ご自分のお休みに何をなさるのかも知らなかったんです」


「休みの日にも図面を見ているわよ。ああ、今のは忘れてちょうだい。本人から聞いてね、違う楽しみもあるかもしれないから」


 リタが声を出して笑ったので、ヴィオラはそれ以上付け足さなかった。夜も遅くなっていた。明日の仕事に差し支えないうちに休むよう伝え、彼女を送り出してから帳簿へ戻る。


 数字は一度で合った。そこへ今度は弟が来たので、ヴィオラは扉を半分開けたまま自分の机を指す。これを終えたら聞くから待ちなさいと告げると、フェリクスはうなずいて廊下に寄りかかった。


「うまく話せたのならよかったわ。あなたからも何か頼むことがある?父の機嫌については、今日のところは悪くなかったけれど」


「まだ先の話だよ。次に会う日も決まっていないんだから。もしそういうことになったら頼むけれど、答えまで用意しないでね」


 弟が帰るとヴィオラは帳簿を閉じた。予定表を引き寄せたが、書き込むことがないのでまた閉じる。


 退職の申し出から十日目には、リタの引き継ぎも終わりが見えてきた。ヴィオラの身の回りを担当するメイドが変わるため、衣装の置き場所や仕立て直しを待っている服を一緒に確かめる。リタがほとんど済ませていたので、ヴィオラが答えるのは着る順番についてだけだった。


「こちらの灰色は袖口を詰めている途中です。青い方は来週のお茶会にお召しになるので、手前へ掛けてあります。それと、この肩掛けは他の服と一緒にしまわないでください」


 後任のメイドが古い肩掛けを受け取り、保管場所を尋ねた。リタがヴィオラへ目を向ける。銀のケースは自分でしまってあるが、布まで新しい担当者に任せると理由を聞かれそうだった。


「それは私が持っているわ。引き継がなくて大丈夫よ。古いものだから、自分で面倒を見ることにする」


 リタはうなずき、次の服へ手を伸ばした。余計なことを言わない彼女に慣れていた分だけ、自分で説明することが増えそうだった。ヴィオラは受け取った肩掛けを畳み、机の脇へ置いた。


 退職の日の昼食を皆で囲むかと提案したところ、リタには荷物の確認が残っていた。では花を持たせようかと聞くと、両手がふさがるのでと笑われる。結局は勤務が終わってからお茶を飲み、焼き菓子を小さな包みにして渡すことになった。


「私の両親の分までお気遣いいただいてありがとうございます。でもヴィオラ様、これ以上はお持ちにならないでくださいね。今お菓子の箱を見ていらしたでしょう」


「見ただけよ。あなたのお母様も甘いものがお好きだと聞いたから、足りるかと思ったの。それで十分なら包み直さなくていいわ」


 退職を申し出た日から十四日後、マルタが渡す書類にリタは名前を書いた。給金の額を数え、次の勤め先へ提出する在職の証明を確かめる。ヴィオラは退職の挨拶を受けてから、自分で用意した菓子の包みを渡した。


 裏庭のことを思い出して礼を言いたくなったが、皆の前で話すことではなかった。代わりに四年間ありがとうと告げると、リタは包みを持ち直して頭を下げた。その目元が赤くなるのを見て、ヴィオラも一度窓の方を見る。


 玄関には馬車が待っていた。リタの父は荷台のそばで帽子を取り、迎えに出たヴィオラへ礼を言った。娘の荷物を持ち上げかけたところへフェリクスが来て、重い方を引き受ける。


「新しいお仕事、無理をしすぎないでください。手紙は急ぎませんから、落ち着いてからで。僕の方は家に届けば読めます」


「はい。最初のお休みが分かりましたらお知らせいたします。袋のお話も、そのときに聞かせてください」


 リタの父が二人を見た。ヴィオラは説明を始めたくなったが、フェリクスが自分で名乗り、娘さんと紙の話をさせてもらっていると伝える。父親は娘を見てから、そうでしたかと礼を返した。


 馬車が門を出るまでリタは窓から手を振っていた。ヴィオラも手を上げ、見えなくなってから下ろす。隣にいた弟はしばらく門の方を見ていたが、仕事が残っているからと屋敷へ戻っていった。


 ヴィオラは裏庭へ回った。石の腰掛けの端は空いていて、肩掛けを置くにはちょうどよい広さだった。ケースを開きかけ、今日はもういいかと閉じる。灰皿の水を替えてから戻る途中、洗い場にあった手拭いを自分の手で干した。


 リタから最初の手紙が届いたのは、新しい勤めを始めて二週間ほどたったころだった。ヴィオラ宛ての封筒には薄い便せんが二枚入っていた。机の高さが前の仕事と違うこと、昼になると指の側面がインクで汚れていること、帰りに父の店へ寄ると紙の扱いについて逆に尋ねられることが書かれている。


 フェリクスへの手紙は別の封筒だった。ヴィオラはそちらの厚みを確かめないようにして弟へ渡した。自分への二枚と比べることもせずに。


 それから弟は休みの日に出かけるようになった。朝食を早めに済ませる日もあれば、昼を過ぎてから上着を取りに戻る日もある。玄関で出くわしてもヴィオラが聞くのは夕食に間に合うかどうかだけだったが、弟の方からリタの近況を話すことが増えた。


「この前は昼食を取る店が満席でね。僕は次の店を探せばいいと思ったんだけれど、リタさんが何時に席が空くか聞こうって。結局そこに戻って食べたんだ」


「あなた、歩き回ると食事を忘れるものね。リタが先にお腹をすかせたのではないの。次からは食べる時刻を決めておきなさい」


 フェリクスはそうかもしれないと答え、今度は彼女が行ってみたい店を教えてもらったと話す。ヴィオラはどこの店か尋ねかけたが、弟がまだ話していたので自分の食事を続けた。


 リタが屋敷へ顔を見せに来る日もあった。手には市庁近くの店で買った菓子があり、マルタたちにも同じ包みを渡している。給仕をしなくてよい応接室で茶を飲み、局の前の通りが混むことや、弟の話す歩く距離が当てにならないことを教えてくれた。


「すぐそこだとおっしゃるので歩きましたら、私の靴では少し遠くて。次からはどの橋を渡るか先に伺うことにしました」


「私もその話を聞いたわ。お昼を食べ損ねそうになったのでしょう。今度あの子に言われたら、自分の足で測るなと伝えてちょうだい」


 リタが笑った。以前なら自分が歩くのが遅いと言ったかもしれない。今日は菓子の包みを開きながら、次は自分の知っている道を案内するつもりだと話す。ヴィオラはその話を聞いて、弟が帰ってくるまで引き止めずに見送った。


 初夏から三か月ほどが過ぎたころ、今度は二人そろって話があると言ってきた。ヴィオラは部屋を訪ねてきた弟とリタを見て、反射的に予定表へ手を伸ばした。中身を聞く前に開いてしまったので、せめて鉛筆は置いてから顔を上げる。


「僕たち、交際を始めることにしたんだ。結婚を考えてお付き合いしたいと僕から伝えて、リタさんにも受けてもらえた。父さんたちにも僕から話したいんだけれど、いつなら時間が取れるかな」


 ヴィオラは弟の言葉を聞き終えてからリタを見た。深緑のワンピースの襟元には細い飾りがあり、彼女はそこへ触れようとして手を引っ込めた。ヴィオラと目が合うと、真っすぐにうなずく。


「私も、ご挨拶させていただきたいと思っております。ヴィオラ様もご一緒いただけますか。お二人の前で話すとなると、いつものご挨拶とは違いますから」


「もちろんよ。ここで話したいとお二人に伝えてもいいのね。先に細かいことを聞かれたら、あなたたちから話すとだけ答えておくわ」


 フェリクスが礼を言い、リタも頭を下げた。二人が帰った後、ヴィオラは予定表の余白へ大きく丸を付けそうになった。だが父母の都合はまだ聞いていないので、弟たちが来た日付の横に小さな印だけを残した。


 日取りを整えるのはヴィオラの得意な仕事だった。父が人と会い続けた日を避け、母が翌朝早く出かける日も外す。二人には本人たちの希望をそのまま伝え、家族用の居間を使うことにした。


 当日の夕方は自分の方が落ち着かなかった。父に聞かれそうなことを頭の中で並べ、弟が答えを用意しただろうかと考える。尋ねに行きたくなるたびに椅子へ戻ったが、とうとう裏庭へ出て一本だけ火をつけた。


 父は息子に爵位を継がせるつもりはない。ベルナート王国では娘も家を継げるし、ローデン家は既にヴィオラを次期当主として届け出ている。だからフェリクスの結婚で跡継ぎの話は出ないはずだった。それでも親戚が皆同じように考えるとは限らず、父がどこまで確かめるかは分からない。


 最後まで吸う余裕がなく、タバコを水へ沈めた。手を洗って戻る途中、居間の方から父に呼ばれる。肩掛けを腕に掛けたまま入ってしまい、自分の椅子の背へ畳んで置いた。片付けに出る前に母とフェリクス、それにリタが来たのでそのまま座る。


 リタの前に茶が置かれた。彼女は運んできたメイドに礼を言い、取っ手に指を掛ける前に父を見た。フェリクスは隣に座り、上着の裾を引いて姿勢を直す。ヴィオラが気を利かせて口を開きかけたところで、弟が父を呼んだ。


「リタさんとお付き合いすることになりました。将来は結婚したいと考えています。そのことを二人に知ってもらいたくて、今日は来てもらったんです」


 父はリタへ目を向けてから息子へ戻した。眉の下の表情は変わらない。沈黙を埋めたくなったヴィオラは、カップを持ち上げて自分の口をふさいだ。


「リタも同じ気持ちだということでよいのかな。君からも聞かせてもらえるだろうか」


「はい。私もフェリクス様と、これからのことをお話ししていきたいと思っております。まだ決められていないこともありますが、お会いするうちに結婚を考えるようになりました」


 リタは声を震わせなかった。言い終えてから膝の上へ目を落としたが、父の次の言葉にはすぐに顔を上げる。ヴィオラは自分も似たような格好で座っていると気づき、重ねていた手をほどいた。


「暮らしはどうするつもりだ。二人とも勤めを続けるのか、どこに住むのか。結婚すると言う以上は、その話もしているのだろう」


 フェリクスが土木局で働き続けることを答え、今の給料と借家に充てられる額を説明した。以前に間取りを見せてもらった二軒のうち、片方には既に別の借り手がついたらしい。もう一軒はリタの通勤に不便なので外したという。


「まだ家を借りていないのか。お前は以前から独立すると言っていただろう、話が進んでいないのではないか」


「僕一人で暮らすつもりで探していた家ですから、そのまま二人の住まいにしてよいとは思えませんでした。結婚までの間に一人で住む場所と、後の家をどうするかも話しています。決まるまでは、ここから通わせてもらいたいです」


 ヴィオラは家なら自分も探せると言いそうになった。父が息子の話を聞いているので、喉まで出た言葉を紅茶で流す。自分に任せてと言うと、弟が今説明した相談まで引き取ってしまう。


「私も資料室の仕事を続けたいと思っています。結婚後に通うことができるか、住む場所を決める前にお話ししました。お給料も今は両親の家へ入れる分と、自分で残す分を分けております」


 リタは自分の額も口にした。ヴィオラがメイドとして渡していた給金とは違う。その金で彼女が両親に何を買い、どれだけ残すかをヴィオラは知らない。リタは聞かれたところだけを確かめながら、父の問いに答えていった。


 母はそこまで黙って聞いていたが、婚礼の前に必要になる親戚への紹介について尋ねた。フェリクスは自分から話すと答える。だが遠方の親戚をいつ訪ねるかまでは決めておらず、母が挙げた名前にも一つ答えが遅れた。


「リタさんを連れていってから、先方に初めて事情を話すのはよくありませんよ。その前にあなたが話をしておくこと。私たちも手紙を書きますから、どこから伺うかは相談しましょう」


「ありがとうございます。私からもお願いがございます。皆様とお話しする場に慣れておりませんので、初めのうちはご一緒いただけませんか。こちらでお勤めしていたときと同じようには振る舞えませんし、分からないことも多いと思います」


 リタが母を見て頼んだ。母はうなずき、初めのうちは自分も同行すると答える。言葉遣いを全部変える必要はないが、先方の呼び方は教えるからと続けたので、リタはそこでもう一度礼を言った。


 父がヴィオラへ目を向けた。ようやく出番が来たと思って背を伸ばしたが、問われたのは弟の支出でも親戚の順番でもなかった。


「お前はいつから二人のことを知っていた。あまり驚いていないようだから、今日初めて聞いたわけではないのだろう」


「別々に話を聞いていたのは初夏からです。交際を始めたと二人から聞いたのは先日で、今日は同席してほしいと頼まれました。それより前には余計な世話も焼いて、二人を困らせましたけれど」


 言わずに済ませることもできた。だがフェリクスとリタが暮らしの話を隠さずにしているところで、自分だけ手際のよい姉の顔を保つのも具合が悪い。お茶と庭の一件を短く説明すると、母が額を押さえた。


「それで二人から止められたのか。お前が手配をしても、来る側の都合までは変わらんからな」


「リタに言ってもらうまで気づきませんでした。あの後は本人たちが決めたことしか手伝っていません。今日の席も、二人から頼まれて整えたものです」


 父は息子へ目をやり、フェリクスがそうですと答えた。リタも同じようにうなずく。父はしばらくカップを見ていたが、やがて顔を上げて二人に交互に話しかけた。


「二人がよく話をして決めたのなら、交際に反対する理由はない。ただ結婚まで一度に決めずに、リタのご両親にも会わせてほしい。暮らす家も勤めも、これから確かめることがあるのだから」


 弟が礼を言い、リタも頭を下げた。ヴィオラはようやくカップを置けた。紅茶がほとんどなくなっていて、飲みすぎたせいで口の中まで乾いている。母が菓子を勧めると、リタが今度は自分のために一つ取った。


 それからはリタの両親の店の話になった。いつなら都合がつくか、まず息子が訪ねてよいか。フェリクスが先にリタと相談していたらしく、二人で答える。ヴィオラはそこで初めて菓子へ手を伸ばした。


 話が落ち着き、父が立ち上がった。窓を開けようとヴィオラの椅子の後ろを通りかけ、その足が止まる。父の目が椅子の背に置いた布へ向いたので、ヴィオラは遅れて肩掛けの存在を思い出した。


「ヴィオラ。お前の肩掛けからタバコの臭いがするが、どこへ行っていたんだ。裏で誰かが吸っているのか」


 菓子が喉につかえた。弟が水を取ろうとして立ちかけ、リタは自分の膝へ視線を落とす。ヴィオラは口元を拭き、息を整えてから答えた。


「私です。裏庭で私が吸っております。今日も先ほど一本吸いましたので、その臭いです」


 母がこちらを見たまま動かなくなった。父は肩掛けと娘の顔を見比べている。ヴィオラは二十六にもなってタバコの一本でこうなるとは思っていなかったが、三年も隠していたのだから驚かれるのも仕方がない。


「そんな、あなたが。時々変な香りがすると思っていましたけれど、では外でお会いした方の臭いではなかったのね」


「ええ。香水で隠すと余計に分かるので、肩掛けを替えております。今日は片付ける前にこちらへ来てしまいました」


 隣でフェリクスが咳をした。笑いを隠すためだと分かったので見ないことにする。リタも一度こちらを見たが、ヴィオラは彼女へ助けを求めずに父へ向き直った。


「火の始末はしております。灰皿も用意してあって、私が水を替えて片付けています。人前では吸いませんし、服に穴を開けたこともありません」


「穴がなければよいという話ではありません。次からその肩掛けを居間の椅子へ置かないでちょうだい。お客様のお召し物に臭いが移ったらどうするのです」


 母の言うことはもっともだった。ヴィオラが謝って肩掛けを持ち上げると、父はひとまず窓を開けた。弟は手を口元から離している。余計なことを言われる前に出ようとしたところで、母にタバコをしまっている場所まで聞かれた。


 居間から戻れたのはしばらく後だった。扉の外で待っていた弟は姉の姿を見るなり笑ったが、リタはこれまで黙っていたことを謝った。ヴィオラは肩掛けを腕の下へ押し込み、謝る必要はないと答える。


「私が言わなかったことだもの。あなたが代わりに告げる義務はないわ。それより今日は、あなたたちの話を全部できたでしょう。途中でおかしなことにならなくてよかった」


「途中ではなかったけれど、最後は十分おかしかったよ。父さん、姉さんが吸うと聞いてから窓を開けるまでずっと同じ顔だった」


「笑いすぎるなら次に何かあっても席は作りません。……リタ、あなたも笑っていいのよ。そこで我慢される方がかえって気になるわ」


 リタが口元を押さえ、笑いながらフェリクスの袖を引いた。弟も彼女へ顔を向けたので、ヴィオラは肩掛けを持ち直す。二人を待つのはやめて、先に廊下を歩き出した。


 冬の間にリタの両親と会う日が設けられた。ヴィオラも最初の席に同席したが、その後は両家と本人たちで相談が進んだ。予定を聞かれたときには答え、聞かれなかった日は自分の仕事をする。父のところへ持っていく帳簿も、次期当主として確かめる書類もなくならない。


 年が明けてからフェリクスは借家を決めた。まず一人で暮らし、結婚したらリタもそこへ移ることにしたという。二人で見に行き、市庁へも土木局へも歩ける場所を選んだと聞いた。台所の卓とは別に図面を広げる机も置けるらしい。


 春が近づくころに婚約が決まった。初夏の裏庭でリタの話を聞いてから九か月ほどになる。ヴィオラは祝いの席の用意を任されたので、真っ先に二人を呼んで人数と料理の希望を聞いた。


「十人ならこの部屋で収まるけれど、お父様のお店の方もお呼びしたい?その場合は椅子を増やせるわよ。花は大きいものを頼む前に、こちらの卓に載る大きさを確かめるつもり」


「今決まっている人数でお願いします。私たちのために作っていただいたお料理を、皆様と落ち着いて食べたいので。お花も座ったまま向こうのお顔が見えるくらいがうれしいです」


 リタの答えを聞いてヴィオラは紙に書き留めた。弟が焼き菓子の量を尋ねてくる。少し余るくらいなら構わないと言うと、リタも今度は持ち帰れるから大丈夫だと笑った。


 当日はリタもフェリクスも客を迎える側に立った。リタの両親が来ると母が席へ案内し、父は製本の仕事について話を聞き始めた。マルタが手配した茶器は欠けもなくそろい、ヴィオラは一つも動かさずに席に着く。


 リタは以前に給仕として立っていた場所を見てから、弟の隣の椅子へ座った。運ばれてきた紅茶に礼を言い、砂糖を自分で入れる。左手の指には婚約の指輪があり、カップを持ち上げるたびに光った。


 フェリクスが彼女へ菓子の皿を寄せた。自分の好きなものを先に勧めず、食べたいものを聞いている。ヴィオラは間へ入る必要がないのを確かめ、リタの母とドレスの袖口について話を続けた。


 食事が終わって皆が茶を飲み直すころ、ヴィオラは席を外した。挨拶を受けるたびに笑っていた頬がまた痛くなってきたし、用意した菓子が足りなくなる心配もなさそうだった。自室から古い肩掛けを取り、裏庭の腰掛けへ向かう。


 まだ風は冷たい。肩掛けをしっかり巻いて袖口を折り、灰皿に水を注いだ。銀のケースは買ったときより細かな傷が増えているが、ふたは変わらず軽く開いた。


 一本をくわえて火をつけたところで、裏口の扉が開いた。振り返るとリタが立っている。制服ではなく祝いのための明るい色のドレスを着て、首には自分のショールを巻いていた。


「フェリクス様がお探しでした。居間の椅子に肩掛けがなかったので、お部屋へ行かれたのだろうとおっしゃっていましたけれど」


「あの子もここだと分かっているはずよ。自分で来ればいいのに、あなたを探しに出さなくても」


「私がこちらへ来たかったんです。一緒に戻ってもよろしいですか。まだ外は寒いですから、長くはいられませんけれど」


 ヴィオラは隣の石を手で払った。リタはドレスの裾を整えて腰を下ろす。距離は以前と同じくらいだったが、今日はヴィオラへ届ける肩掛けも、仕事の終わりを待つ用事もなかった。


「あの日、ここでお話ししてよかったです。初めはご迷惑をかけるばかりだと思って、言わずにいた方がよかったかとも考えましたけれど」


「実際に迷惑をかけたのは私でしょう。あなたの仕事まで動かしたのだから。結婚のお支度では同じことをしないつもりだけれど、怪しかったら早めに止めてちょうだい」


 リタが笑ってうなずいた。指輪をつけた手を膝へ置き、その指をもう片方の手で確かめている。ヴィオラはそこへ目を向けたが、今度は何を言おうとしているのか聞かずに待った。


「これからもよろしくお願いいたします。あの、まだ少し早いかもしれませんが……お姉様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」


 ヴィオラはせっかく落としかけた灰をこぼしそうになった。灰皿の上で手を止め、リタの方を見る。頬を赤くしている彼女は本気らしく、間違いでしたとも言わずに返事を待っていた。


「ええ。もちろん構わないわ。ただ、今みたいに急に呼ぶのは少し待って。私にも慣れる時間が必要だから」


「分かりました。それではお戻りになるまでお待ちします。お姉様の分のお菓子もまだございますから」


 全く待っていないではないか。ヴィオラがそう言うとリタは楽しそうに笑った。もう一口だけ吸ってタバコを灰皿の水へ沈め、火が消えたのを確かめる。灰皿を片付けて手を洗う間、リタは自分のショールを直して待っていた。


 銀のケースをしまって戻ると、リタが腕を差し出した。ヴィオラはタバコの臭いが移るわよと言いながらもその腕に触れる。裏口を入ったところにフェリクスがいて、二人を見て顔をほころばせた。


「やっぱりここだったね。姉さん、母さんが居間の窓を開けて待っているよ。今日は肩掛けを持ち込まないようにって」


「分かっているわ。あなたはリタを連れて戻ってちょうだい。私はこれを置いてくるから、お菓子は残しておいてよ」


 リタが腕を離しかけると、フェリクスは一緒に部屋まで行けばいいと答えた。ヴィオラは二人を連れて自室へ寄り、肩掛けを外して掛けておく。扉を閉じる間に弟がリタへ何か尋ね、彼女は笑いながらうなずいた。


「何の話をしているの。聞かせたくない話なら、私がいないところでなさいよ」


「姉さんのお菓子を二人で守らないとね、という話。行こう、リタさん。そろそろ戻らないと、父さんが製本の道具を見せてもらいに出かけてしまいそうだから」


 ヴィオラは先に歩き出した弟の背中を見て、上着の襟の片側が内へ折れていることに気づいた。手を伸ばしかけたところでリタが隣から直す。弟が礼を言って振り向いたので、ヴィオラは何でもないと手を引き、二人と並んで居間へ戻った。

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