王妃の決意
【とある王国の物語】シリーズ第二弾です。
たった一つの、叶わなかった初恋を胸に駆け抜けた。
この人生に悔いは──。
ラスティーシャ公爵家の長女であるセレーネは、王太子妃──ゆくゆくは王妃となるべく育てられた。
セレーネの親世代では、王太子が学園で男爵令嬢を見初め強引に側妃とした──表向きは真実の愛で結ばれた美談とされているが、王太子の横暴による悲劇だと知る者は知っている──という非常識な出来事が起こっているからだ。側妃は出産の際に儚くなっており、王家は醜聞を過去のものとしたいようだが、一部の貴族たちの心証は異なる。当時王太子の婚約者であったのはラスティーシャ家とは別の公爵家の令嬢で、後ろ盾であった国でも有数の権力を持つ公爵家を軽んじた王太子の蛮行に、王家へ不信を抱いたものも少なくない。求心力を著しく落とした王家に、自ら嫁いだ公爵令嬢──王妃、そして賢妃と呼ばれたお方は、その非凡な能力をもってして王家を立て直した。そして跡継ぎとなる男児をもうけると、敵対していないとはいえ親しくもなかったラスティーシャ家に、セレーネが我が子の婚約者となるよう打診してきた。王子の後ろ盾なら、賢妃の実家だけで事足りている。ラスティーシャ家は、数代前の王弟が興した家だ。仮に王子が父王と同じく愚鈍に育ち、廃されることがあれば──王族の血はラスティーシャ、すなわちセレーネによって繋ぐという重大な責を伴う婚約だった。セレーネは相手が誰になろうと、王妃にならなければならない。王妃に相応しいよう、育たなくてはならない。並の貴族や令嬢なら震え上がって辞退していただろう。
婚約の話がきた時、セレーネは十に届かぬ娘だった。しかし両親も、セレーネ自身も迷わない。セレーネの聡明さは、当時既に評判になるくらい突出していた。セレーネもそれを当然と受け入れるほど、貴族として完成していた。
そして、将来の王太子と目される第二王子──エカードと、王宮ではじめて顔を合わせた。セレーネは優雅に礼をしながら、彼を観察する。エカードは、賢妃譲りの優しげな顔立ちに、屈託のない笑みを浮かべていた。父王と関わったことはほぼないだろうに、その笑みには陰も欠けたところもない。周囲に十二分に愛され、守られて育っていることがにじみ出ている。そんな雰囲気を持っていた。
「はじめまして。エカードだよ」
「殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう。ラスティーシャ公爵家長女、セレーネにございます」
エカードはぽかんと口を開けた。
「セレーネは、むずかしい言葉を使っているね」
かわいげがない、と言われるだろうか。冷めた感想が浮かんだ。事前の調査では、エカードの学力は平凡で、王族として落第こそしないもののこれと言ってあげられるものがないと聞いている。
しかし、セレーネの予想ははずれた。
「君のようにすごい子が婚約者になるんだから、僕もがんばらないと」
そう言って、エカードはセレーネの手を取る。自身の優秀さをほめられるのは、はじめてではない。物心ついた頃には既に、その手の賛辞は雨あられのごとく与えられてきた。それなのに、何故か──エカードのそれは、やけに耳に残る。
きっと、同年代の異性というまだ交流の少ない相手に言われたからだ。セレーネは冷静に判断したが、不思議な胸の高まりは止まってくれない。
「よろしくね、セレーネ」
「はい」
よろしくお願いします、と何故か当たり障りなく続けることができなかった。セレーネの人生ではじめてのことだ。何らかの不調か、と己のたどたどしさに戸惑うセレーネを安心させるように、エカードはセレーネの手を握る。
「もしかして、緊張してる?」
「は、いえ、……いえ、そうかもしれません」
「よかった」
「はい?」
エカードは、セレーネの手を己の心臓の上にあてた。とくとくと、セレーネに負けず劣らずの速さで脈打っている。
「婚約者が思ったより綺麗で、僕だけ緊張してたら恥ずかしいもの」
ああ、かなわない。いたずらっぽく笑った笑顔に、瞬時に直感する。恋、そう、この鮮烈な感情がそうなのか。エカードに対する想いが、セレーネの中でしっかりと形作られた瞬間だった。
「エカード様」
名前で呼んで、と許されたのでその通りにする。ただそれだけなのに、頬に熱が集まる感覚がした。
「どうしたの、セレーネ?」
「エカード様を、我が公爵家は……いいえ、わたくしはあなたを一生お支えしたいです」
この婚約の意味を、セレーネは理解している。エカードが愚王に育つなら、彼をセレーネが排斥する未来もあり得た。今セレーネとエカードは二人きりだが、護衛や侍女はいる。二人の会話は、必ず王家や公爵家の耳に入るだろう。それでも、どうしても──理性を押さえつけてまで、言いたくなってしまった。口に出してから、その重みにハッとしたけれど撤回はしない。したくない。
エカードはきょとんとしていた。セレーネほど深く言葉の意味を理解できないようだ。ややあって、自分なりにセレーネの言葉をかみ砕いたらしい。くしゃりとした笑顔に変わる。それはセレーネの心に突き刺さって、一生薄れない一瞬となった。
「僕とずっと一緒にいてくれるってことだよね! 嬉しいよ、セレーネ!」
ああ、この方のためならば──セレーネは神にでも悪魔にでもなろう。
二つの公爵家を後ろ盾に持つエカードが立太子されるのは、当然の流れだった。しかし、何事にも異を唱える者はいる。エカードには異母兄がいた。側妃腹の第一王子・フリードだ。長子相続が無難だとして、彼を王太子として推すものがいない訳ではない。
彼を王太子として望む者からは、後ろ暗い思惑が透けて見えた。側妃の実家である男爵家こそ弁えていたが、その寄親にあたる家はしばしば口を出そうとする。賢妃とセレーネの生家がその都度あしらっていたが、もう一点──フリード自身が凡才であることも、エカードを押し退けてまで王太子とならない理由となっていた。
セレーネが得ている情報でも、フリードは凡庸らしい。同じく平凡でも、どこか人好きがして人々に囲まれるエカードとは異なり、フリードは一人でいることが多かった。最低限の従者や護衛を連れ、目立たない第一王子は弟の立太子に不満を感じてはいないように見える。第一王子派に接触された時も、「自分はそのような器ではない」とやんわり拒絶したそうだ。分相応を理解する王子、という彼の仮面に違和感を感じるようになったのは、──いつだったか。
ある時、エカードを不必要に貶めた令息がいた。彼は元第一王子派の家の出で、もしフリードが王太子になっていれば側近となっていただろうと常日頃豪語していた。同年代の中では剣術の腕が頭一つ抜きん出ていて、その才からエカードの護衛としてはどうかという温情からエカードへの目通りがかなったのに、彼は踏みにじった。
得意の剣術でエカードと手合わせし、赤子の手をひねるように勝利をおさめた彼は親切めかして嘲笑する。
「あなたは長子であるフリード殿下を押さえて王太子となったのですよ? もっと努力なされてはどうですか?」
若さか、元からの性格か。どちらにせよ致命的な失言だ。エカードがただの平凡な王子なら、あるいは見逃されたかもしれない。
エカード自身には、確かに飛び抜けた才能はない。しかし彼には、ある意味王になるものとして必須の、そして最大の才能が備わっている。それは、皆をひきつけてやまない人望だ。当人は令息の言葉に苦笑していたが、聞き捨てならないと憤った者はいる。セレーネもその一人だ。
元々、令息には目に余る態度が多かった。今回の失態は渡りに船とセレーネが動き出そうとした直前、令息は王都で暴行未遂を起こし、放逐された。元令息の性格からしてあり得ないことではないが、彼に対する否定的な見方が広まった状況で、誰も庇うものがいない時に暴行未遂とは──時期が良過ぎる。その自然な不自然さが、どうにも腑に落ちない。一見おかしなところがないその顛末を、注意深くセレーネは探らせた。
「あれは、わたくしの獲物でしたのに」
とある日、フリードと王宮の廊下で会った際にそっと囁いて微笑む。フリードは常の人畜無害さを崩さず、セレーネだけに見える角度で口の端を上向けた。
「それは失礼」
とんだ食わせものだ。エカードが信頼し、懐いている兄でなければ後顧の憂いになる前に始末していたかもしれない。フリードは並外れた天才だ。あるいは、セレーネすら超える俊英かもしれない。ここまで能力を隠し通してきたのだ。並大抵の才ではなく、実力が公になれば王太子の変更もあり得る。賢妃にそれとなく伝えるも、驚いた様子はなかった。セレーネ程度に動揺を悟らせるほど賢妃は甘くないが、かと言って本当に知らないとは思えない。知っていて、放置している。フリードはエカードの障害とならない。そこには、確かな信頼があるように感じた。ゆえに、セレーネは見定める。もし賢妃の目が曇っていて、フリードがエカードに牙を剥くことがあれば、その時は自分が手を汚すと。セレーネの役割は、存在意義は、エカードが善良な王族である限りそういうことなのだ。
エカードとセレーネは貴族の子弟や一部の平民が通う学園に入学した。王と側妃が出会った忌まわしい場所──二代続けて同じことが起きないよう、エカードには過剰とも思えるほど護衛や従者がついている。以前、それが重荷にならないかたずねたことがあった。
「え? 僕を守ってくれているのに? 大変なのは、彼らの方だろう?」
そう首を傾げるエカードだからこそ、人は守りたくなるのだろう。
エカードが恋に狂うこともなく、分不相応な考えを持つ生徒が現れることもなく、日々は平穏に過ぎていく。
王族であるエカードと、首席であるセレーネは共に生徒会に属していた。行事の前は、徹夜で事務作業に追われることもあった。生徒会の皆で机を並べて向かい合い、ああでもないこうでもないと相談して仕事をひとつひとつ片付けていく。身分の差はあるけれど、一丸となって事にあたる経験はとても楽しく得難いものだった。
「セレーネ様、セレーネ様!」
夜通し議論して、皆疲れて机に向かったまま寝てしまった日の朝。生徒会の一人である伯爵令嬢に控えめに、しかし有無を言わさず肩を叩かれてセレーネは起こされた。何か不測の事態でも起きたのか、とセレーネが目を覚ますと、さっと令嬢は手で指し示す。その先では、未だ夢の中のエカードがいた。
婚約者とはいえ、眠っている姿をはじめて見る。すやすやと寝息を立て、どこかあどけない彼にセレーネの心臓はどくりと高鳴った。
「セレーネ嬢って、本当に殿下のこと好きなんだ」
「ちょっと、静かに」
我に返って周囲を見れば、エカード以外の生徒たちは起床している。令嬢は少し口の軽い令息の頭を軽くはたいた後、さあとセレーネを促した。聡明なセレーネが、はじめて他人の意図を掴みかねる。
「……何かしら?」
「セレーネ様が起こして差し上げてください」
「俺たちじゃ身分的になあ」
護衛や従者は、と見回すと生徒会室の中にその姿はない。交代の時間だろうか。影の護衛はいるだろうが、彼らに任せるのは確かに違う気がする。
仕方ない。令嬢たちの期待するような視線にやや気圧されながらセレーネは手を伸ばす。ゆっくり、間違っても傷付けないようにエカードの体に触れて揺すった。
「で、殿下」
「……」
「起きてください、朝です」
「……で、」
「はい?」
「なまえ、よんで」
ここには他に人が、というかもう起きているのではと思うが、エカードのまぶたは閉じられたままだ。夢を見ているのかもしれない。
悩みに悩んだ末、セレーネは口を開く。
「エカード様」
つぼみがほころぶ瞬間のように、エカードのまぶたがゆっくりと開かれた。澄んだ宝石のような瞳が、まっすぐセレーネを向けられる。
「最高だなあ」
「はい?」
「目が覚めて、いちばんに君の顔を見るの」
セレーネは何も言えなくなってしまった。胸が詰まって、何も返せない。背後から、耐えきれなかったらしいきゃあっという歓声が聞こえる。
そんな、輝かしい思い出を学園ではいくつも作った。
そして、初恋を手放さなければならなくなったのも、在学中のことだった。
「セレーネ・ラスティーシャ! 君との婚約を破棄する! 私は、この学院で真実の愛を見つけたのだ!」
学園での婚約破棄。人々の耳目が集まる中庭で、あり得ない騒動を起こしているのは王太子エカードだ。彼とあまり関わりのなかった生徒は驚いていたが、同時にやはりとも頷いている。エカードはここ数ヶ月、婚約者のセレーネを放置してとある令嬢と親しげな態度を見せていた。生徒会の面々の中には諌めようとした者もいたが、セレーネに「彼とは関わるな」ときつく言い含められ動かなかった。聡い者は、何となく勘付いているだろう。強く握られた拳は、己の不甲斐なさを悔いているように思える。それは、セレーネも同じだった。
どうして、良識のあるエカードがこんな非常識な騒動を起こしているか。
半年前、強大な軍事力を持つ隣国があやしい動きを始めた。かの国に迎合するもの、反発するもの、どの立ち位置なら生き残れるか各国は暗躍し出し、国際情勢は揺れ動いている。
エカードの長所は、人徳だ。大勢の人に慕われ、意見に耳を傾け、最善を選び取っていく。そのやり方は、間違いではない。しかし、風に弄ばれる木の葉の表裏のようにくるくると事態が変化する世情には対応できない。一刻を争う状況では、判断の遅れは後手に回ることを意味する。すなわち。
エカードは、乱世では王になれない。
そう、決断された。
セレーネは最後までエカードを王にできないか粘った。セレーネが糸を引く形でもいい、何なら時勢が安定した後ならセレーネだけが反逆者として処罰されてもいい。血筋的にも権勢的にも正統なエカードを王にしないなら、それなりに大事を起こして失脚という形となるだろう。そうなれば、断種措置をされて追放されることもあり得る。どうして大切な、愛しい方をそんな目に遭わせられようか。
エカードの母である賢妃も、夫である王を王宮に押し込めて実権を握っている。だがそれは、王が救いようのない暗君であるからできたこと。人望のあるエカードを差し置いてセレーネが差配しても、どうしてエカードが表に出ないのかと納得しない者が必ず出てくる。それらの者を説得する時間すら惜しいほど、国際情勢は切迫すると予想できた。
有能の名をほしいままにしてきたセレーネも、とうに理解はしている。此度の動乱は、自分だけでは立ち行かないかもしれない──セレーネに並び立つか、それ以上の采配ができる王でなければ、国を守れない。
心当たりは、一人しかいない。
「フリードを、次の王とします」
セレーネの足掻きは、実を結ぶことはなく。賢妃の決断でエカードの廃嫡は決定した。
物心ついてからはじめて、セレーネは涙を流した。子供のように泣きわめくセレーネの背を優しく撫でてくれたのも、エカードだった。
「セレーネ、僕のために泣かなくてもいいんだよ」
この時ほど、セレーネは己の無力を実感したことはない。
自らの腹を痛めて産んだエカードを切り捨てる決断をした王妃は、為政者の顔をしていた。
「セレーネ。あなたは、王妃となってフリードを支えなさい」
それは、確定した未来だった。セレーネも納得ずくで、その地位を賜るつもりだった。
予想外だったのは、全てをなげうってもいいと思えるほど、エカードを愛したこと。
“僕とずっと一緒にいてくれるってことだよね! 嬉しいよ、セレーネ!”
頭の中に、幼き頃のエカードの言葉が反響する。慈悲か、セレーネが落ち着くまで王妃は返事を待ってくれた。涙をぬぐい、セレーネは正面から王妃の顔を見据える。いずれ、自分がまとうべき姿がそこにはあった。
「謹んで、承ります」
大した瑕疵のないエカードが失脚するために、婚約破棄騒動をでっち上げた。真実の愛という不貞に溺れ、ラスティーシャ家との政略を蔑ろにしたエカードに王太子の資格はないと見なされた。真実の愛の相手役として用意された娘は、王家の影の中でも手練れでエカードに心底惚れ抜いている。きっと、エカードを最期まで守ってくれるだろう。直接ふりかかる火の粉は彼女がはらい、そして──彼の暮らすこの国を、不届き者たちに荒らさせるような暴虐はセレーネが決して許さない。
「殿下、この国ですが」
「ああ、不要だな」
立太子したフリードとは、驚くほど馬が合った。恋だの愛だの甘やかなものではなく──共犯者、という間柄が適切だろう。国を運営する点において、不都合は一切ない。フリードとはエカードの暮らすこの国を守るという目的が一致しており、背中を預けられる相手だった。
エカードが追放され辺境に向かう際、見送りはしなかった。これで最後と思えば、身も蓋もなくすがってしまいそうだったから。「わたくしも連れて行って」と、次期王妃にあるまじき願望を吐いていたかもしれない。
動乱の時代は差し迫っている。迷いを抱いた状態で乗り切れるほど甘くないことは、痛いほど分かっていた。
長年王妃として君臨したセレーネも、晩年と呼ぶものを迎える年になった。
辺境で孤児院の院長をしていた男──かつてのエカードがしばらく前に亡くなった。任務を終え、王宮に報告に来た影の彼女から、穏やかな最期だと伝えられている。影は手紙を差し出した。誰からなんて、問う必要もない。自室にたった一人、セレーネは手紙の封を開ける。手紙を持つ、しわの増えたセレーネの手が震えた。
“最期に、筆をとることを許してほしい
君は、とても責任感の強い人だから、ことわっておきたかった
君は僕を見捨てたと思っているかもしれないが、それは違うよ
君の愛は、国ごと僕をひっくるめるほど大きかったんだ
ありがとう
君の大きな愛で満たされたこの国で生きられて、幸せだった
僕の愛する君も、幸せでありますように”
宛名も差出人もないのは、仮に第三者に見られた時を危惧してのことだろう。涙を流すのは、いつぶりか。頬を流れるあたたかさが、心地よい。
「わたくしも……あなたを、この国を愛せて、良かった」
天上の国で彼に再会したら、きちんと役目を果たしたと、そう言えるように。
懐かしい筆跡を指でなぞり、手紙を丁寧に折りたたんでしまい込む。
さあ、今日も完璧な王妃として振る舞おう。
この人生に、悔いがないように。




