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小さな証

 玄関の鍵が回る。

 その金属音は、夜の空気の薄氷をそっと破った。

 アオが顔を上げると、ユナが肩をすくめ、冷たい外気をまとったまま立っていた。

 頬には外の冷えが薄く残り、淡い色を添えていた。


「ただいま」


「おかえり。寒かった?」


「うん。でもね、今日は……ちょっといい日だった」


 ユナはバッグの奥へ指を伸ばし、まるで小さな宝物を探す子どものように、ごそごそと探った。

 彼女の指先が何かに触れ、そのまま丁寧に取り出されたのは、小さく折りたたまれ、丸みを帯びた紙片だった。

 紙の表情が、長い時間誰かの手の中にあったことを物語っていた。


「それは?」


「えっと……これね」


 ユナは息を整えるように一瞬だけまつ毛を伏せ、丁寧にほとんど音もせず折り目をほどくように紙を開いた。

 その中央に、幼い字でたった一言、こう記されていた。


「ありがとう」


 インクは少し滲み、そこに込められた力の弱さまで透き通るようだった。

 アオが文字の形を追っていると、ユナの表情がふっとやわらいだ。

 いつもの笑顔とは違う、心の奥にそっと触れてくるような静かな笑みだった。


「今日、ワークショップでね。ほとんど話してない子がいたんだけど……帰りにこれが机の下に落ちてて。拾ったら、その子が急に顔を赤くして、何も言わずに走っていっちゃって」


 ユナは「走っていった」のところで、くすっと笑う。

 その笑い方がとても愛おしく見えて、アオは、身体の中心がじんわり温かくなった。


「たぶんその子がくれたのかな……なんか、嬉しくて。理由なんてないんだけど、ずっとこのあたりがぽかぽかしてた」


 その言葉は、言葉というより、肩にそっと手が添えられたような温かさだった。

 アオは返事をせずに、横顔をじっと見つめた。

 言葉では触れられないものが、その沈黙の中で確かに動いていた。


 ユナはクローゼットから白い箱を取り出した。

 箱は光をほとんど反射しない、落ち着いた白。

 蓋を開くと、中にはいくつもの「時間」が眠っていた。


 中には、アオとふたりで行った旅先の思い出の品の他に、小さなメモや誰が描いたか分からない落書きなどもあった。

 中には説明できないものがあるけれど、ふたりの歩いた軌跡や、ユナが大切にしてきた一瞬が封じられている。

 ユナはその紙片を、箱のいちばん手前に置いた。

 まるで今日の嬉しさが、そこに落ち着く場所を探していたかのようだった。

 それは、誰かの心に触れられた、小さな証でもあった。


「これ、取っておくって変かな?」


 ユナが笑う。

 その笑みには、説明のつかないぬくもりが宿っていた。

 アオはユナの隣に腰を下ろし、箱の中に柔らかく視線を落とした。


「……ううん。ユナらしいよ」


「らしい?」


「うん。大きなものじゃなくて、こういう小さなものを大事にするところ」


 ユナは照れたように頬に触れ、その指先が空気を探るように揺れた。


「だってね……こういうのって、その子の今日がここに残ってるみたいで。その子の名前もどうしてくれたかも知らないのに、胸の奥があったかくなるじゃない? これをずっと忘れたくない」


 アオはゆっくりと息を飲んだ。

 その「あったかくなる」感覚が、同じ場所に広がっていくのを、はっきりと感じた。

 ふたりのあいだに落ちていた沈黙は、冷たくも重くもなく、ただ、同じ景色を眺めるときの穏やかさをまとっていた。


 ユナは箱の蓋の上に手を置き、中の時間たちの寝息を乱さないように、蓋がゆっくり沈む様子を確かめた。


「ねえアオくん」


 小さな息継ぎのあと、ユナは言った。


「今日、本当に……いい日だった」


 その一言は、世界に向けられたものではなく、アオだけに届くよう差し向けられた想いだった。

 アオはユナの肩にただ触れるほどの距離で手を添えた。


「……うん。なんか、わかる気がする」


 部屋の空気はゆっくりと深まり、白い箱の中にしまわれた紙片は、この夜の灯りを吸いこんで、眠りについたようだった。


 今日のことを、きっと忘れない──そんな予感が、やさしく残っていた。

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