指輪
アトリエに戻ったアオは、机いっぱいにラフを広げた。
重ねた紙の端が、空調の風のせいで、規則正しく波立っていた。
夜の底で、ペン先が紙をかすめる乾いた音が、時計の機械仕掛けのように時を刻む。
「……届かない、か」
棚の上のソラちゃんが、薄闇の中でじっとこちらを見ていた。
目をやるその間だけは、言葉の矛先を向ける場所を見つけた気がした。
以前、画面越しに眺めた大手出版社の特集記事。
記事の中の大型書店の平積み棚には、タイアップしたキャラクターやテレビで紹介された絵本が、明るい色調で隙間なく並んでいた。
画面をスクロールするたびに、カバーの色彩がこちらへ飛び込んできた。
見出しの一つひとつが、まるで別の言語のように並んでいた。
だか、そこに「扉」があるのはわかっていた。
この出版社の名前ひとつで、本は全国の書店へ運ばれる。
あの棚に自分の絵本が並べば、もっとたくさんの子どもたちに届く。
そう思うと、アオの中で、かすかな憧れと、同じくらいの怖さが並んで立った。
「ここで勝負するしかない。届くためには、『わかりやすさ』がいる」
彼は新しいキャラクターを描き始めた。
輪郭を太く、目を大きく、背景に鮮やかな色を散らす。
いつもの余白や静けさは削り取られ、そのかわりに、光と音で満たされた賑やかさが置かれた。
その鮮やかさが、どこか遠い国の風景のように思えた。
自分が一度も訪れたことのない、誰かの夢の中の景色のようにも。
スケッチをスキャンし、ディスプレイの明かりがアオの顔を照らす。
画面の中で線をなぞり直すたび、ソラちゃんの影が壁に薄く揺れた。
棚の上で、古びたぬいぐるみが無言でこちらを見ている。
「……これなら、届くかな」
そう呟きながら、アオは何度も線を修正した。
けれど、描けば描くほど、何かが遠のいていく気がした。
画面の中で、ただ形だけが整っていった。
その無音の整然さが、耳の奥を撫でた。
どれだけ多くの人に届いていても、そこに自分の風が混ざっていなかったら、それは「届いている」と言えるのだろうか。
誰かの心にひとつだけ残る風と、街を埋め尽くす風景と。
どちらが「届く」に近いのか、アオにはまだ答えが出せないでいた。
──それでも、前に進むしかない。
今のままじゃ、誰にも届かない。
アオはキャラクターのラフ数点と、簡単なあらすじを企画書にまとめ、出版社の児童書編集部あてにメールを送った。
送信ボタンを押した指先は、収まる場所を探して空中にとどまった。
*
次の日の午後、アオは街のジュエリーショップの前に立っていた。ここを通るのは、これで三度目だった。
ショーウィンドウの中の飾りつけは、季節のフェアがはじまってからほとんど変わっていない。
その中央あたりに、いつも同じ位置で光っている指輪があった。
ガラス越しに覗き込むと、細い白金の輪の中央で、風車の形をした台座が小さなダイヤを抱いているのが見える。
精緻にかたどられた可憐な四枚の羽根の意匠が、光の角度で順にきらめき、透明な風がそこを通り抜けていくようだった。
「……これだ」
彼の中で何かが形を成していくようだった。
ユナにこの指輪を渡すとき、胸を張って言いたい。
ユナと一緒に生きたい。
そのためには、まず夢を形にしなければならない。
アオは、ガラスに映った自分の顔をひと呼吸だけ見つめてから、店の入口をくぐった。
店員が会釈する。アオはショーウィンドウを指し示した。
「このリングを、贈り物にしたいんです。……大切な人へのプレゼントです」
店員は軽くうなずき、ケースから指輪を取り出した。
「ありがとうございます。こちら、今回のフェアで一番お問い合わせいただくんですよ」
風車の形をした珍しい台座は、「想いを運ぶ」モチーフとして職人が羽根の角度まで調整して仕上げた、新作だという。
「サイズはお分かりになりますか?」
ユナの手が浮かんだ。
カフェのテーブルでカップを持つとき、薬指に細いリングが光っていた。
「いつも薬指に細いリングをしていて……たぶんこれくらいです」
アオは自分の小指を示す。
店員はサイズゲージを当てながら、おおよその感覚を確かめた。
「でしたら、このあたりが近いですね。もし合わなくても、無料で一度お直しできます」
トレーの上で、指輪が光を受けてきらりと瞬く。
光が羽根から羽根へ、ゆっくりと渡っていく。
提示された金額は、今の彼が積み上げてきた時間の厚みと、ほとんど同じだった。
アオは深く息を吸い、カードを差し出した。
控えを受け取り、店員が微笑む。「一週間ほどでご用意できます」
一週間後。
アオは再び店を訪れた。
手渡された指輪の箱は、掌の中にすっぽりおさまるほど小さかった。
外側の布地はさらりとしていて、中に入っているものの重さをほとんど感じさせない。
それなのに、箱の奥にははっきりとした重みが残った。
まるで、希望と不安が同じだけ詰め込まれているみたいに。
「もう少しだけ待ってて」
その声は風に混じり、街の光の中へ吸い込まれた。




