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狭間

 アトリエの隅では、水を含み損ねた筆の毛先が一本だけ固まり、凍りかけた小動物の尻尾のようになって、細い影を落としていた。

 時計の針は、音を立てているはずなのに、まるで音の役目だけを忘れた装置のように、ただ決められた位置へ進んでいく。

 窓の外では、街の灯りが、決まりごとのように点いていった。


 そのとき、携帯電話の通知音が小さく鳴った。

 画面には、大学時代の同期・シンの名前が浮かんでいた。

 文字の光が、ソラちゃんの顔を一瞬だけ照らした。


 同じく絵を学んでいたシンは、今やSNSでフォロワー十万人を超える人気絵本作家になっていた。

 個展の開催、キャラクターグッズ、メディア出演──成功という言葉を体現しているかのようだった。


「アオ、久しぶり!最近どうしてるかなと思って」とメッセージには書かれていた。


 約束した日の午後、ふたりは、大学の頃に仲間たちとよく集まった喫茶店で再会した。

 入り口をくぐると木のテーブルも、すり減った革の椅子も、そのまま時間の中に置かれているみたいに、昔のままだった。

 ガラス越しに射し込む午後の光が、テーブルの上のグラスの水面に細い影をつくっていた。


 シンは明るいグレーのパーカー、足もとには鮮やかな赤がさりげなくのぞくスニーカーを履いていた。

 袖口のほつれを何気なく指でなぞりながら、落ち着いた笑みを浮かべている。

 その横顔は、学生時代とほとんど変わらない。

 それでも、アオの視線の中では、彼が遠い場所に立っているように見えた。

 変わらない喫茶店の光が、その距離を際立たせていた。


「なんか痩せた?」


「まあね。仕事でちょっと寝不足」


「だよな。俺も徹夜続き。締め切り地獄はどこ行っても変わんないな」


 ふたりは笑った。

 ほんの一瞬だけ、この喫茶店のテーブルにおいてきた大学時代の空気が再びそこに流れたようだった。

 けれど、そのあとに流れ込んだ静けさは、時間の経った氷がグラスの底でゆっくり溶けていくように、過去を音もなく薄めた。


「1年ぶりくらいかな? でも、こうして面と向かって話すのは学生以来な気がするよ。そういえば、あれ見たよ、幼稚園のワークショップの。あの風を描くってやつ、すごくよかった」


「そっちこそ、ニュースで見たよ、インテリアブランドとタイアップした『暮らしの絵本』」


「ああ、あれね。たまたまだけど、絵の中に描いた三日月の形のナイトライト。あのブランドのライトをモチーフにしてたんだけど、たまたまインテリア系のインフルエンサーに紹介されて、SNSですごく広まってさ。そしたら本家のブランドが連絡くれて……運が良かっただけだよ」


 シンは軽く笑い、カップの縁に指を滑らせた。

 その指の動きが、彼の描く線のように迷いがなく、滑らかだった。


 アオは、試作品を入れたカバンを彼に差し出した。

 彼はそれを受け取り、カバンの中から丁寧に綴じられた紙の束を取り出す。

 ページの角を押さえながら、ゆっくりとめくった。

 紙の擦れる音が、店内のざわめきの中でひときわ静かに響いた。


「やっぱり、アオの絵は、きれいだな。空気がちゃんとある。こういう静けさ、最近じゃあんまり見ないよ」


 アオは黙って頷いた。

 その言葉が嬉しいのか、それとも自分をどこかに閉じ込めてしまう鍵のように思えるのか、判断がつかなかった。


 外を歩く人々の靴音が、遠くからゆるやかに混ざってくる。

 コーヒーの香りと、誰かの落とした笑い声。

 ふたりのあいだに、見えないカーテンのようなものが引かれていることを、しばらく流れた沈黙が教えていた。


「ただこれ、子どもに届けるって考えると、ちょっと難しいかもしれない」


 シンはすぐに言葉を継いだ。


「悪い意味じゃないよ。俺も昔、同じこと言われたんだ。『これじゃ届かない』って」


「……届かない」


 アオは、自分の口からこぼれたその言葉を、まるで他人の声のように聞いた。


「絵や物語が静かすぎると、今はどうしても埋もれちゃう。子どもは、自分の力じゃ本を選べないだろ? 最初に親の目に留まらないと、子どもにも届かない。」


 シンはコーヒーをひと口すすり、続けた。


「でも逆に、『あえて静かにする勇気』も、アオらしいと思う。だから、俺が言いたいのは『諦めろ』じゃなくて、『届け方を探してみてほしい』ってこと」


 シンは言葉を区切り、少しだけ視線を落とした。


「俺だってさ、本当はもっと静かな絵、描きたくなるんだよ。でも『わかりやすいほう』に手が動いちゃう」


 シンは少し深い呼吸をした後に続けた。


「いや、そんなに単純じゃないかもしれない。自分なりに、今の疲弊した親たちや子どもたちにどう届けるかって考えたよ。届かなければ、救うこともできないって。俺には、俺の届け方しかできない。今ではスタッフも抱えているし、もうこのやり方しかできなくなってる。まあ、そんな感じだよ」


 アオは顔を上げた。シンの目は真っ直ぐだった。

 そこには、ただ同じ夢を見た者の、かすかな祈りのような光があった。


「ありがとう」


「礼なんかいいよ。俺、たぶんアオの絵が好きなんだと思う。あの頃から変わってなくて、羨ましいくらいだよ」


 アオは何も言えなかった。

 言葉のかわりに、何かが軋んだ感覚を覚えた。

 それは、懐かしさにも似た痛みだった。


「そういえば、この前ユナちゃん見かけたよ。駅前で。元気そうだったけど、ちょっと疲れてる感じしたな。大丈夫なの?」


「たぶん。最近、ちょっと忙しそうで」


「そうか。なんか、気になってさ。あの子、昔から無理するタイプだから」


 アオは小さくうなずいた。


「そばにいてくれる人のことも、ちゃんと見てやれよ。そのほうが、アオの絵はきっと強くなる」


 その言葉だけは、柔らかな布のように、ふたりの間の空気を包むのがわかった。

 しばらくのあいだ、ふたりとも何も言わなかった。


「ありがとう」


 シンは微笑み、カップの中の氷をゆっくり回した。

 その音が、どこか遠い波のように聞こえた。


 外では、夕暮れの街が動き出していた。

 ビルの壁面に巨大なスクリーンがあり、シンのキャラクターが映し出されている。

 きらびやかな光の粒が、まるで現実の風に押し出されるように流れていた。

 画面の中で、笑顔のキャラクターが踊り続けている。


 アオはその光景を、ビルのガラスに映り込んだ音もない映像を、遠巻きに眺めるように見つめていた。

 ──同じ夢を見ていたのに、どうしてこんなに違うんだろう。


 アオは、店の外のビルに映るシンのキャラクターから、視線を一度だけ意識的に外した。

 もう一度見たその光の中に、かつて一緒に描いた風景の残像を探したが、見つからなかった。

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