ハルト
アオは、絵本作家という夢を追いながら、生活のために細々とフリーでイラストの仕事を受けていたが、収入の足りないぶんを埋めるように、近くの幼稚園で絵を教える仕事もしていた。
園には、絵の時間になるといつもアオから離れ、窓際の席にひっそりと座る男の子がいた。
その日の空は、ふしぎなほど澄み切っていた。
軽い風が紙を一枚だけ床に落とし、その紙はゆっくりと回転しながら、音も立てずに机の脚に当たって止まった。
アオがそれを拾おうと身をかがめたとき、その子の担任の先生が先に手を伸ばし、紙をゆっくりと持ち上げて言った。
「あの子、ハルトくん、前に事故に遭って……利き手が思うように動かないんですよ」
「そうだったんですか」
「でも本当は絵が好きなんです。事故の前は、よくお母さんに絵をプレゼントしてて」
アオはハルトのほうを見た。
机の上のクレヨンに手を伸ばしかけては、指先を止めている。
その小さな背中が固まっているように見えた。
アオは席を離れ、机のそばまで歩き、膝を折ると、ハルトと同じ目の高さになった。
「ハルトくん、試しに描いてみない?」
「……いや」
アオはその言葉を受け止めるように短くうなずいた。
手を机の上に置きかけて止める。
その拍子にクレヨンの箱がわずかに揺れ、中で一本が転がる音がした。
アオは水色の画用紙を取り出し、自分の「利き手じゃないほう」でクレヨンを握った。
先端が紙に触れると、ざらついた音がした。
線はぎこちなく揺れ、途中で折れたり途切れたりする。
それでも、アオは止めずに、ゆっくり線をつないでいった。
ハルトの視線が、その手元に吸い寄せられる。
クレヨンを持つハルトの指先が、机の上でほんの少し動いた。
「ね、先生も左手で描いてるからさ、ハルトくんも、この手で一緒に描いてみない?」
しばらくの沈黙があった。
風船がゆっくりしぼむような呼吸のあと、ハルトは小さくうなずいた。
クレヨンが、ハルトの掌の中で転がった。
指先に力が入らず、先端が紙をかすめて震える。
それでも、ハルトはゆっくりと線を引いた。
線は揺れながら、紙の上を渡っていく。
アオは隣で同じように線を重ねた。
ふたつの不器用な線が、別々の机の上で、同じ風をなぞるように、同じ方向へと伸びていった。
震えていて細切れの線なのに、どこか風の形をしていた。
「これ、風みたい」
「うん、ハルトくんの風だよ。『風は心から吹く』」
ハルトの後ろには、いつのまにか何人かの園の先生が囲んでいた。
「先生、風かけた」
ハルトがアオを見上げて言う。
「うわ、びっくりしちゃった!ハルトくん、すごい上手!」
すぐ後ろで見ていた担任の先生が、思わず声をあげた。
ハルトは、ぱっと顔を明るくして、口をひらいて笑った。
そのあと時間を過ぎるまで、何枚も風の絵を描いた。
アオはハルトが描いた絵のうちの一枚をもらい、アトリエの壁に飾った。
水色の紙に、白いクレヨンで描かれた風と、小さな風車のような形。
その風車を見つめているうちに、あのときの光景がよみがえった。
──風車の絵を前に話したときのことだ。
ユナは地域の文化NPOで活動していた。
芸術を通して人と人をつなぎ、まちの豊かさを育てようとする団体だ。
ユナは、そこで展示やワークショップの企画・運営を担っていた。
それと並行して美術や文学の取材記事やコラムを書いて、メディアに寄稿もしていた。
アオと出会ったのは、地域の美術展の打ち合わせだった。
展示資料の中で、ユナはアオの風車の絵を指さして言った。
「この人の線、飾り気がない。嘘がないっていうのかな」
技術でも構図でもなく、描いた人そのものを見てくれる人は初めてだった。
打ち合わせの帰り、展示の荷物を抱えたユナがふと笑った。
「技巧で取り繕おうとしていない絵って、不思議と存在感があると思う。その人がそこに『いる』感じがするから」
ユナは風車の絵から視線を外し、言葉を探すみたいに息を整えた。
「文章を書くときね、自分の『声』が消える瞬間があるんだよね。誰かに届いてほしいと思うほど、文章がうまく整いすぎるっていうか。逆に自分がいなくなる感じかな……」
ユナは続けた。
「学生のころ、そのことで何回も悩んでた。だからかな、こういう線を見るとすごく安心する。飾らないまま紙に触れていて、描いた人の体温がそのまま残ってる。そういう線のほうがずっと真っ直ぐ届くって思う」
その言葉が、アオの中で静かに灯をともした。
理解というより共鳴──同じ景色を見てくれる人。
それが、アオがユナに惹かれた理由だった。
壁の絵に目を戻すと、ハルトの描いた風車が、光を受けてゆっくり回っているように見えた。
あの日から、いくつもの春と秋が過ぎ、月日は巡った。
今、アトリエのキッチンでは、アオがユナのためにポットに湯を注いでいる。
テーブルの上には、アオとおそろいのマグが二つ並んでいる。
ほどなくして湯気が立ちのぼり、部屋の空気がやわらいだ。
「かわいいね、それ。園の子が描いたの?」
「うん。ハルトくんっていうんだ。ちょっと前に事故で、右手があまり動かなくなって」
「そうだったんだ」
「ずっと絵を描こうとしなかったんだけど、今日、『先生も左手で描くから』って言ったら、描いてくれたんだ。最初は途切れ途切れだったけど、気づいたら『風みたい』って笑ってた」
「うん。なんか、絵が息してる感じするね」
「そのとき思ったんだ。『その子の風が吹けば、それでいい』って」
「いいね、それ」
アオは、壁の水色の画用紙をちらりと見やった。
「風ってさ、どこから来てどこへ行くのか、誰もよくわからないよね」
「うん」
「それでも、確かに『今ここを通った』っていうことだけは、肌でわかる。人の優しさとか、真っ直ぐさも、きっとそれと同じなんだと思う」
ユナは壁の絵をじっと見つめた。
「ねえ、アオくんの線は今、どこに向かってると思う?」
「うーん。まだ、行き先を探してるところ。かな」
「そっか。でも、その線、どこにも行かなくてもいいと思う。ここで、ちゃんとアオくんの線になってる」
アオは照れくさそうに笑った。
カップをふたりのあいだに置くと、湯気がことばの続きのように立ちのぼった。
「この絵、宝物になるね」
ユナがそう言ったあと、ふと思い出したように続けた。
「そういえば、大事なもの、どうしてる? 作品のラフとか、旅先の思い出のものとか」
「えっと、机のまわりに積んでって、限界きたらまとめて捨てる」
「あー、やっぱり」
ユナは、いたずらっぽく口元をゆるめた。
「わたしはね、あの白い箱に入れてるよ。旅先のポストカードとか捨てられないものは全部。忘れたくないときに、そこを開ければいいから」
「前に見せてくれたクローゼットの?」
「うん。白い箱は、わたしの『残しておきたい時間』専用」
ユナはそう言って、カップの縁を指でなぞった。
「まあ、でもハルトくんの絵は捨てられないから、そこはユナは心配しなくていいよ」
「あはは、間違いなくね」
「アオくん、今日はいい話聞けてよかった」
「こっちこそ。ユナに聞いてもらうと、整理できる気がする」
棚の上にソラちゃんが座っている。描きかけの絵本の試作本と、ハルトの絵のあいだ。
パンの色は淡く褪せて見えた。
耳の縫い目がほころび、一本だけ宙に浮いている糸がわずかに揺らいだ。
ソラちゃんは、何も言わずにこちらを見ていた。
目が合ったそのとき、ほこりをまとった耳の縫い目が、あの日の白い風を思い出させた。
まるで「ほら、アオ」とひっそりと合図しているようだった。
次の日、幼稚園で行った「風を描くワークショップ」の記事が幼稚園の公式SNSに載った。
「『風は心から吹く』がんばって描いた線が先生の線と並んで風になりました。今日はたくさん笑えたね」
短い文章と、子どもたちの絵の写真、ハルトのエピソードとともに。
この日のあと、いくらかの日をおいて、この記事はささやかに広がり、地域ニュースのネット欄にも小さく掲載された。
アオは画面を閉じて、しばらく机の上を見つめていた。
世界の片隅で、誰にも知られないような小さな波紋。
それでも、間違っていないんだと確かめるような、ささやかな波がまぶたの裏に広がった。




