沈黙
アオが段々と大きくなるにつれて、まるで、公園のすべり台から響いていた子どもの声と足音が、夕方の気配のなかでだんだんと消えていくように、ソラちゃんの声も小さくなっていった。
夜、布団の中で並んで眠るときには、まだパンのあいだから小さな声がこぼれていた。
「ねえアオ、きょうはどんな夢を見たい?」
「んー、空の上を走るやつかな」
「いいね。じゃあ、パンを雲にして出発だね」
ふたりは目を閉じて、風の音をまねした。
それはいつもの合図だった。
けれど季節がいくつか巡る間に、アオの生活には、風の音よりも早く動く時計が入りこんだ。
学校で描いた絵が、自治体の主催する児童絵画展で入賞した。
先生が「アオさんは将来、絵のお仕事ができるかもしれませんね」と言った日から、彼の中で、絵は『遊び』ではなく『目標』になった。
その日を境に、彼のなかの物差しは音もなく入れ替わった。
前までは、自分がわくわくするかどうかだけが答えだった。
いまはそこに、「大人がほめてくれるか」「紙に貼られてみんなの前に出されるか」といった、外側の物差しが、当たり前に並んで立ちはじめた。
風を描くときも、もうソラちゃんと走り回ったあの白い空ではなく、「もっと本物らしく」「あのコンクールの絵みたいに」と、どこか見知らぬ風景の線が混ざった。
それでも紙のいちばん奥底には、クレヨンで描いた白い風が、うすく残っていた。
だがその輪郭も、別の線の下へと少しずつ埋もれていった。
毎日、夜になると、机の上でスケッチブックを広げ、筆圧を確かめるように鉛筆を走らせるアオの姿があった。
ランプの外側の淡い影のなかで、棚の上のソラちゃんは、その音だけを聞いていた。
「アオ、もう寝ないの?」
問いかけても、答えは降りてこなかった。
アオは、目の前の紙に夢中だった。
線がきれいに重なるたび、ソラちゃんとの距離がほんの少しずつ遠のいていった。
朝になると、アオは早く家を出るようになった。
ソラちゃんをリュックに入れることも、「いってきます」と声をかけることもなくなった。
パンの間に残った温もりは、次第に冷めていった。
それでもソラちゃんは、アオの背中に向かって、つぶやくのをやめなかった。
「いってらっしゃい、アオ」
けれど、目に見えない埃のように小さくなったその声が届く場所は、もうどこにもなかった。
中学生になるころ、ソラちゃんは棚のいちばん上に移された。
バンズの布はすり切れ、耳の縫い目から糸が一本ほどけていた。
その夜、アオは偶然それに気づき、「ごめんね」と言って小さな手で糸を結び直した。
「……ありがとう」それが、最後に出た声だった。
そのあとは、鉛筆の芯のこすれる音と、紙をめくる音だけが部屋を満たした。
これが、アオの夢なんだ、とソラちゃんは、その音をお腹の奥の綿に刻んで聞いているように見えた。
だからなのか、存在を置き去りにするような、無機質な音ばかりが毎晩部屋を満たしているのに、その中には、不思議と寂しさの気配はなかった。
夜、部屋の明かりが消えたあと、窓の外で木々がざわめくたび、ソラちゃんは思い出していた。
嵐に襲われたあの日、アオが描いたあの白いクレヨンの風。
眠るたび、その記憶の輪郭が薄れていくようだった。
それでも、あの日アオに助けられたように、いつか彼が迷ったときには、今度は自分が助ける──そう心の奥で決めていた。
その決心をお腹の綿に包み込み、ソラちゃんはそっと目を閉じた。
アオの夢の音に耳をすませながら、また新しい朝が来るのを、じっと待つ日を繰り返した。




