風は巡る
夏の終わり、編集部の机の上に積まれた試作稿の束を、アオはひとつずつ丁寧にめくっていった。紙と紙のあいだを通り抜ける、小さな風のような音。
それは、ここ数ヶ月の打ち合わせのたびにアオに宿った緊張と期待の跡を、やさしく撫でるようでもあった。
何度も描き直し、消しては、また描いた線たちが、ようやくそれぞれの居場所に落ち着いた。
編集者が最後のページを伏せ、「これで行きましょう」と言ったとき、アオの中で、長い冬に耐えた小さな芽がふっと顔を出したように感じられた。
秋から冬へ移るあいだに、装丁が決まり、帯の文言が整えられた。帯に載せるひと言は、大学の同期のシンに頼んだ。
「シンの言葉なら、この本の外まで風を運んでくれる気がする」とメッセージを送ると、シンは「めちゃくちゃ大事な役目だな。断れるわけないだろ」と快諾した。
「ページをめくるたびに、心を撫でる風が生まれる」
シンが寄せた短い文。
その一行が刷り込まれた見本を手にしたとき、アオは喫茶店で聞いたシンの声を思い出した。
あの喫茶店でシンが言っていた「届け方」は、いまこうして形になっている。
紙の上で風が形になり、読者の手に触れる準備が整っていく。
そして、ちょうどアオとユナが再び出会ってから一年がたつころ、絵本は小さな箱に収められ、そっと世に送り出された。
シンのおかげか、メディアのあまり目立たないところで数回取り上げられることがあったが、世間で大きく話題になるようなことはなかった。
けれど、それでよかった。
静かな本屋の棚の片隅で、風を待つように佇み、いくらかの子供たちの手に渡っていくだけで、その本はもう十分に息づいているように見えた。
*
ユナは、病院の白い廊下をゆっくり歩いていた。
定期検診を終えたばかりで、医師の言葉がまだどこかに淡い影のように残っていた。
「順調ですね。今は、数値は前回より安定しています」
その「今は」という、耳慣れてしまった響き。
希望と不安のあいだに置かれた、薄い紙片のような言葉。
これからのことはわからない、ただ、今日を静かに越えられたというだけ。
それでも今日は、ただ風を感じたかった。
ユナは深く息を吸い込み、病院の建物を出た。
今日の光は柔らかかった。
冬の冷たい明るさとも、真夏の鋭い明るさとも違い、ゆっくりと肩へ降り積もるような春の光だった。
公園のベンチに腰を下ろすと、木漏れ日がゆっくりと揺れた。
枝の影がユナの膝に落ち、風がそれをひきよせるように形を変えた。
左手の薬指に光が差し、銀の輪がきらりと揺れる。
その輝きは、隣に座っているアオの指輪と重なるようにして、ふたつの光を返した。
「今日は気持ちがいいね」
ユナがそう言うと、アオはうなずき、少しだけ目を閉じた。
風が頬を撫でた。どこか遠くから渡ってきた、ひとすじの柔らかな風。
芝生の向こうでは、子どもたちが声を弾ませて走り回っていた。
その中のひとりの男の子が大事そうに絵本を抱えていた。
カバンの隣には、本の表紙と同じハンバーガー形をしたぬいぐるみ。
パンのすきまから、丸い顔がちょこんとのぞいている。
男の子はページをぱたんと閉じると、ぬいぐるみを胸に抱き上げた。
「この子ね『ヒラちゃん』っていうんだ。夜になるとね、こっそりお話ししてくれるんだよ」
そう言って笑うと、嬉しそうにぬいぐるみを胸にぎゅっと抱きしめた。
小さな空気が動いて男の子の絵本のページが一枚、ゆっくりとめくれた。
アオとユナは、その風景をただ見つめていた。
かつて誰かのために生まれたソラちゃんが、いまは別の誰かの心に、小さな風を吹かせている。
皆様には、幼い頃に大切にしていた、ぬいぐるみやおもちゃはありますか?
私の息子には、ハンバーガーにはさまれた猫のぬいぐるみがあり、どこへ行くにも肌身離さず持ち歩いています。名前はヒラちゃん。
物語の中の七五三と同じようなエピソードもありましたし、なくしてしまって、ポロポロと涙を流すことも何度かありました。
最後には必ず見つかるのですが、見つかったときに、頬に寄せて、にたっと笑った息子の姿は今も忘れられません。
そんなヒラちゃんも、いまでは擦り切れ、ところどころ糸もほつれています。
けれど、その傷みには、重ねてきた時間と物語が確かに宿っているのだと思います。
このまま10年、20年と月日が流れ、未来のどこかで息子が迷ったとき──ふと古びたヒラちゃんを手に取り、幼い頃の記憶が息子の心のどこかをそっと呼び起こす瞬間が訪れるかもしれません。
「一緒に歩いてきた時間が、今の自分をつくってくれたんだ」
物語とは違いますが、そんなふうに感じられたなら、それだけで十分なのだと思います。
皆様にも、どうかそんな温かな瞬間が訪れますように。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。




