風の届く場所
それから、一月といくつかの週が過ぎた。
ユナは、無菌室での治療を終え、一般病棟へ移っていた。
担当医の許可がおり、家族以外でも面会ができるようになっていた。
午後、アオは、病院の受付で見舞い札を受け取り、病室へと続く白い廊下を歩いた。
通路の先には、春の光が柔らかく差し込んでいる。
病室のドア越しに、ガラスの向こうでユナの姿が見えた。
頬は少し痩せたが、その顔には穏やかな光が宿っていた。
春の光が、薄いカーテンを透かしていた。
病室の空気は、消毒液の匂いの奥に、窓の外から届く桜の香りの気配が混ざっているようだった。
窓際の枝が、穏やかに揺れた。
病室に入る前に、アオは備え付けの消毒液で手を清めた。
透明な香りが、小さな輪を描くようにしみていく。
ミサキがゆっくりとカーテンを開けた。
「きょうは、調子がいいみたいです」
マスクの下で口元は見えなかったけれど、その声の柔らかさで、確かに微笑んでいることがわかった。
ユナは枕を少し高くして、穏やかに座っていた。
腕の内側には点滴の管。
手の甲の血管は細く透けている。
けれど、その指先には、確かな温度があるように見えた。
ミサキはアオの顔を見て、小さくうなずいた。
「お話してあげてください」
そう言って、枕元のブランケットを整えるように指先でなぞると、音も立てず扉のほうへ向かった。
扉が閉まる前に、一度だけ振り返り、会釈をして、優しい目をそっと向けた。
残された部屋には、ユナの呼吸と、点滴のかすかな音だけが満ちていた。
「……久しぶり」
アオの声が少し震えた。ユナは顔を上げ、一瞬ためらってから、かすかに微笑んだ。
「来てくれたんだ……」
その声の奥には、うれしさと戸惑いが同居していた。
短い沈黙が落ちる。
アオはバッグの中から、白い封筒を取り出した。
「手紙、二通とも読んだ。あの箱の中の手紙も」
ユナのまつげが、かすかに揺れた。
顔を伏せ、シーツの端を指先でなぞる。
「そっか。もう一通、見つかっちゃったんだ。置き去りにしたつもりだったから」
ユナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吸い、押し出すように言った。
「本当は、どちらかだけ選べなかった。どっちを渡しても、どっちかが嘘になっちゃう気がして。でも、ずるいよね。別れのほうだけ置いて、自分だけ、遠くに行こうとした」
アオはわずかに目を伏せた。
「そうだね、ずるいよ」
アオは痛むように、ゆっくりと言った。
ユナは身を縮めるように視線を落とす。
「自分だけ『いい子』になってさ」
アオはゆっくり頭を振った。
「でもね、俺にとっては全然『いい子』なんかじゃないよ。ユナがいない人生なんて、まるで意味がない。ユナのいない世界は……何ひとつ色なんてない」
アオはゆっくりとポケットに手を入れた。指先に触れたのは、角の少し丸い小さな箱。
取り出してふたを開けると、中の銀の輪が、病室に差し込む春の光を受けてふっと明るくなった。指輪の風車の形が光を受けて浮かび上がった。
「これ、渡したかった。ずっと」
ユナは、ゆっくりとまばたきをした。
指輪の光が、彼女の瞳の奥でひと粒ゆれた。
「え?」
ユナの瞳が指輪とアオの顔を何度も行き来する。
「これ……いつから……?」
「ずっと前からもう決めてた。ユナが必要なんだ」
ユナの頬を一筋の滴が伝った。
こぼれるのを止めようともせず、唇がわずかに震えた。
遅れて、もう片方の目にも光がにじんだ。
二筋の涙がひとつになり、そのまま、あたたかなしずくとなって落ち、シーツの上に小さな輪をつくった。
「いいの? いまのわたしでも。……約束しても、どれくらい一緒にいられるか、わからないのに」
その声はかすれていた。
けれど、そのかすれの奥に、まだ確かな息づかいがあった。
「ユナが、いい。これからもずっと」
アオの答えは、短くて、迷いがなかった。
ユナは小さく頷き、目を伏せた。
長いまつげの影が頬に落ち、わずかに唇が動く。
「アオくんのほうが、ずるいよ」
そう言いながら、笑って泣いていた。
モニターの電子音が、いくつかの拍をゆっくり刻んだあと、アオはもうひとつの荷物を取り出した。
アオはバッグの口を開けると、中から、透明なビニール袋に包まれたハンバーガーの形のぬいぐるみを取り出す。
病室では少しの間なら置いても良いと聞いて、清潔な袋にくるんで、まるで風を閉じ込めるように連れてきた。
ベッド脇の棚には、ミサキが持ってきたらしい動物柄のマグカップが置かれていた。
ゾウやペンギンやフクロウが列になって歩いていて、まるでユナのお見舞いに来た小さな友だちみたいだった。
カップの中は空のままで、口縁には一度も触れられていないように、光をきれいに弾いていた。
ほんの少し綿の抜けたパンのふくらみを撫でながら、ベッド脇の棚のマグカップの横に、後からやってきた友達のように置く。
「ソラちゃんも、一緒に来てたんだ」
ユナは小さく目を見開いて、笑った。
「かわいい。久しぶりだね、ソラちゃん」
アオは続けて厚い紙を綴じた、白い試作絵本を取り出した。
クリームがかった表紙の真ん中に、パンにはさまれたソラちゃんと、タイトルをくぐり抜ける一本の白い風の線。
下に、小さく『ソラちゃんの風』と印刷されている。
「絵本になったんだ。まだ試作品だけど。いちばん最初に、ユナに見てほしかった」
アオはベッドのそばの椅子に腰を下ろし、ユナの視線に合わせて、ゆっくりとページを開いた。
紙の上の光が、ユナの頬にやさしく触れた。
ユナはページを見つめながら、微笑んだ。
アオが一枚ずつページをめくるたびに、淡い色と線が、春の風のように病室を満たしていく。
ユナの視線が、絵の上をゆっくりとたどる。
ソラちゃんの足跡、飛び散るパンくず、その一つひとつを、まるで記憶をなぞるように見つめていた。
「このページ、好き」
ユナが指で小さく示したのは、ソラちゃんが風の中で目を細めて笑っている場面だった。
「ここ、あの丘の上に似てる。ふたりでスケッチした場所」
アオはうなずき、ページを一枚めくった。
ユナは微笑み、その笑みが途切れると、また絵本に目を戻した。
「風の音がするね」
「うん。ソラちゃんが、教えてくれた」
ユナは微笑んだまま、息を整えた。
少し苦しそうだったが、目の奥は穏やかに澄んでいた。
「私ね、病院の中でも風を感じる瞬間があるよ。看護師さんがカーテンを開けるときとか、誰かが窓を開けてくれるときとか。ああ、生きてるって思う」
ユナの目の奥が、ゆっくりと潤んでいく。
アオは何も言わなかった。
代わりに、その手を包み込んだ。
手の中で、ユナの指先がかすかに動いた。
触れると、指先に残っていた消毒の匂いを打ち消す、生きた温度が確かにそこにあった。
──ふたりの手が重なったとき、風が通った。
カーテンがふくらみ、ベッド脇のソラちゃんがわずかに傾いた。
パンの布が光を受け、まるで小さく笑ったように見えた。
「この風、ソラちゃんのかな?」
ユナは微笑んだ。
その顔は、どこまでも穏やかだった。
目を閉じ、息を整える。
春の風が、もうひとすじ、部屋を抜けていった。
窓の外では、桜の花びらが舞っている。
そのひとひらがカーテンの隙間から入り、ユナの枕の上に落ちた。
アオはそれを指でつまみ、絵本の最後のページに挟んだ。
「アオ、風は、ちゃんと吹いてる」
ソラちゃんの声が、胸の奥で柔らかく響いた気がした。
外の風がゆっくり止み、ふたりの呼吸と、絵本の中の静かな色だけがそのあとに残った。




