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歩みだす日

 季節は暖かさを取り戻してきていた。


 視線を上げると、棚の上でソラちゃんがこちらを見ていた。

 パンのあいだから覗く丸い顔は、うっすらとほこりをかぶっている。

 アオは確かめるように手を伸ばし、柔らかな布を指先で整え、できるだけ丁寧にほこりを取り除いた。


「行こう、ソラちゃん」


 アオは、表紙に指の跡がつかないよう気をつけながら、薄いクリーム色のダミー絵本をカバンに入れ、その上にソラちゃんを並べて入れた。


 出版社の会議室は、淡い木目の壁に囲まれていた。

 ロビーに並んでいた絵本の背表紙には、子どものころから見慣れたレーベル名が並んでいる。

 キャラクター企画を出していたあの大きな会社の名前がふと頭をよぎった。

 けれど、ここにある棚は、それとは無関係な温かさをたたえていた。

 一冊一冊が、小さな記憶を閉じ込めているようだった。


 編集者は三十代後半くらいの女性だった。

 肩までの髪を後ろで軽くまとめ、目もとの穏やかさが印象に残る。

 名刺を差し出す仕草にも、急かす気配はなく、紙の手ざわりを確かめるようなゆっくりとした動きがあった。

 声は低めで落ち着いていて、言葉を選ぶたびに、ほんの一瞬だけ息を置く。

 その間に、言葉の余韻を聴いているようでもあった。


「この人、絵本そのものが好きなんだな」


 アオは、編集者の指先から目を離せなかった。

 言葉を選ぶたびに、一瞬だけ息を置く。

 その間合いが、まるでページをめくる音に耳を澄ませているみたいに見えた。


 編集者は、アオの差し出したダミーを丁寧にめくった。

 ページの端を指で押さえ、紙の質感を確かめるように。


 編集者がページをめくるあいだ、アオは言葉を挟まなかった。

 何か説明したほうがいいのか、と一瞬思ったが、やめた。

 この本は、言葉で守られるものじゃない。

 そう思えた。


 ページをめくるたび、紙が擦れる小さな音が、少し大きく聞こえる。

 アオは背筋を伸ばし、呼吸の数を数えていた。


「すごく静かな本ですね。けれど、ちゃんと温度がある」


 その言葉は、柔らかな布のようにアオを包み込み、緩やかにアオの内側を暖めた。


「ありがとうございます」


「特にこの見開き──パンの間から光が漏れるところ。読者の目が、風に押されるみたいに抜けていく。とても美しいですね」


 編集者は一度ページを閉じてから、ふと思い出したように顔を上げた。


「じつは、先生のこと、まったく知らなかったわけでもないんです」


「え?」


「前に、幼稚園で開かれた風を描くワークショップの記事を見ました。うちにも小さい子どもがいて、地域の教育関係のニュースはよくチェックしてるんです。地域版のニュースサイトの記事に、事故で利き手が動かなくなった男の子が、左手で『風みたい』って笑っていた、って書かれていて」


アオはハルトの笑顔を思い浮かべた。


「『絵本みたいな出来事だな』って、編集部のチャットでもちょっとした話題になったんです。あの記事の写真の端に、このハンバーガーの猫の絵が小さく写っていて。そのとき、『このキャラクターで絵本を作る人がいたら、読んでみたいな』と思ったのを覚えています」


 編集者はダミーを軽く持ち上げた。


「だから、メールが編集部に届いたとき、すぐに開きました。『ああ、あの風のワークショップの人だ』って」


 編集者はそう言って、もう一度ページをめくり直した。


「余談ですけど。あの記事、とても丁寧でした。言葉のひとつひとつに『現場の空気』が残っていて、描くことを『誰かの呼吸を写すような行為』って表現していたんです」


 編集者は続けた。


「すごく印象に残って、職業柄つい署名を見たら──有村ユナさん。あぁ、やっぱり、って思いましたよ。あの方、いつも文章がきれいで、何というか、ページを閉じたあとにも、静かな呼吸が残る感じがあるんですよ。先生も、よかったらこの方の文を一度読んでみてください」


 思いがけず発せられた、有村ユナ、という名前。

 その響きは、アオに一瞬だけ呼吸をすることを忘れさせた。

 それ以上の反応を許さないように、視線をダミーへ戻して、黙って頷いた。

 自分が引けなかった一本の線を、ユナは「言葉」で描いていたのだとわかった。


「次の企画会議にかけます。通るかどうかは約束できませんが、私は推したいと思っています。もし通ったら、改めて今後の進め方を一緒に考えさせてください」


 その言葉を聞きながら、アオは何度も小さくうなずいた。

 ふと、喫茶店でシンが言った一言が、頭の片隅によみがえった。


「諦めろ、じゃなくてさ。届け方を探してみてほしいってこと」


 あのときはうまく掴めなかった言葉が、いまは、小さなレーベルの名刺と、この一冊のダミーのあいだに細い線としてつながっている気がした。


 会議室を出ると、外は春の陽ざしが強くなっていた。

 街を抜ける風が頬を撫でる。

 アオは肩の力を抜き、空を見上げた。

 青の奥に、どこか懐かしい白が混ざっていた。


 横断歩道の白線の上を、影がゆっくりと伸びていく。

 信号待ちのあいだ、アオはカバンの重さを確かめた。

 さっきより、少し軽い。

 カバンの中で、ソラちゃんが小さく動いたような気がした。


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