目覚めの先へ
アオは新しい水彩紙を机の上に置いた。
紙の表面に細かすぎず荒すぎない中くらいの凹凸を持った水彩紙だ。
ふと、頭の片隅に、あの大手の編集部のメールがよぎった。
でも、今のアオにとって、それは、もう向き合うべきことではなくなっていた。
今アオにできることも、すべきことも、ひとつだけだった。
壁際には、下地を塗ったまま放置していた絵。
アクリルの匂いが、かすかに空気の奥に残っている。
その匂いが、さっきまでの迷いやざわめきを、ゆっくり沈めていく。
アオは深く息を吸い込み、筆を握った。
手に感じるわずかな重みが鼓動と重なり、身体の中心に一本の線が通っていくようだった。
静かに音楽が流れ出すように、脈が整っていく。
透明水彩のパレットに水を落とし、絵具を少しだけ混ぜる。
絵具と水は触れ合うと、無邪気な子どもが戯れるように、ゆるやかな渦のダンスを踊りはじめる。
淡い水色がにじむと、その色が、少し熱を帯びたアオの思考を冷まし、地平線の淡い青のように、透明な静けさへと変えていく。
物語の世界に足を踏み入れるような感覚が、ゆっくりと満ちていく。
多めの水を含ませ、水彩紙に流すように広げる。
薄い空のような揺らぎが生まれる。
そこにわずかな藍を加え、境界のないグラデーションを沈黙の中で丁寧に重ねる。
いくつかの場所では、意図的に筆を止めて空白を残した。
触れていない余白は、無垢そのものだ。
そこにしか宿らない呼吸──まだ誰にも触れられていない風の生まれる場所のような気配を、アオは大切に残した。
次に、製図に使う半透明のフィルムを丁寧に型抜きする。
左から右へと続く曲線上に、雲が散らされたような型になった。
下絵が乾いたのを見計らって、上から柔らかいパステルを散らす。
布を指に巻いて刷り込んだ後、綿棒でやさしく輪郭をぼかすと、空気の粒がふわりと滲むような陰影が浮かび上がった。
壁のハルトの風車の絵を見る。幼稚園で、ハルトと並んで描いた「風」の記憶が、今日の出来事のように、鮮やかによみがえる。あの日の小さな背中に、今、歩みを委ねられている気がした。
「線は風と同じだ。心の向こうの息づかいを、線に変えるんだ」
呟きながら、アオは先が欠けた、あの古びた白いクレヨンを手に取った。
水彩紙に風の軌跡を描き、布でそっと擦る。
削ったパステルの白い粉を散らすと、粉が微かな光を拾い、静かな風が通ったような表情が生まれた。
今度は、描いた情景に、物語の登場人物を一つ一つ置いていく。
登場人物の個性に合わせるように、ところどころアクリルを使って描いていく。
違った画材の質感は、異なる性格の異なる表情を浮かび上がらせた。
「みんな違っていていい」
一歩下がって全体を眺める。
キャンバスの右側には、バンズの間からのぞく猫──ソラちゃん。
その表情がどこか硬い。
「絵は描くものじゃない。心が通った跡を残すんだ」
アオはパステルを軽く足し、パンの隙間にほんのわずかな光の余白をつくった。
それだけで、ソラちゃんが呼吸をはじめたように見えた。
筆を置き、ページをめくるようにラフを並べ替える。
見開きのテンポを確かめ、一枚一枚の間に、静かな呼吸を置く。
言葉を削り、その代わりに風の線を一本加えた。
夜が明けていく。
乾ききらない絵具の上を、冷たい空気がなでる。
クレヨンの匂いに様々な画材の匂いが混じって、あたりを満たした。
描き終えたときに残る、生まれたばかりの世界の匂いだ。
紙の端がかすかに反り、散らしたクレヨンの白が夜明けの光を吸い込んだ。
アオはその白を指でなぞり、粉のついた指先を見つめた。
指先が震えていた。
それでも、アオの中心には確かな熱があった。
──これが、ユナに届ける『風』だ。
*
アオは、朝一番に、以前キャラクター企画を出していた大手編集部へ丁寧な断りのメールを送り、謝罪の電話もした。
あのキャラクター企画は、このまま終わらせることにした。
そして、乾いたばかりの絵をスキャナにかける。
ライトがゆっくりと紙の上を横切り、ソラちゃんの影がディスプレイの中で透けた。
データを一枚ずつ確認しながら、余白のバランスを整える。
「少し明るすぎる……」
コントラストをほんのわずかに下げ、印刷で風の白が飛ばないように調整した。
これまでとは別の出版社の編集部に送るためのPDFをまとめ、少しだけ小さめのB5判に揃えて、マットな厚手の紙にプリントアウトする。
ページ順を並べ直し、綴じ糸を通す。
白地に小さくソラちゃんを刷った仮の表紙をかぶせた。
こうして作る『ダミー』は、絵本になる前の試作本。
ページの流れや余白の呼吸を確かめるために、作家が自分の手で形にするものだ。
軽く閉じると、手の中で紙が呼吸した。
薄いインクの匂いといっしょに、一冊の中で、風が確かに通っていた。
件名:「絵本『ソラちゃんの風』ダミーPDFをお送りします」
送信前に、短い本文を何度も読み返した。
本文の一行にはこう書かれていた。
「この作品は、見えない風のようにそっと寄り添う優しさを描こうとしたものです」
送信ボタンを押すと、アオの肩の力が抜けた。
宛先は、キャラクター企画を出していた大手ではなく、小さな児童書レーベルのアドレスだった。
学生のころ、背表紙を何度も眺めてきた名前。
ここなら、そして、今なら──自分の線のままで、やれる気がした。
送信バーがゆっくりと進む。
それを見つめながら、アオは思う。
──これをユナに見せられる日が来るだろうか。
メールを送ってから、二週間ほどが過ぎたころだった。
小さな児童書レーベルの編集部アドレスから、一通の返信メールが届いた。
簡潔なあいさつとともに、「ぜひ一度、実物のダミーを拝見しながらお話を伺えれば」と書かれていた。
画面の文字を何度も読み返しながら、アオはマウスを持つ手のひらに、ゆっくりと汗がにじんでいくのを感じていた。




