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記憶

 アオは再び手紙を見返した。

 手紙に書かれていた文字は、凍りついた湖の底に沈んだ小石のように動かないのに、その言葉のまわりには、それを揺らす影が見える気がした。


 ユナはあの日、診察室を出たあと、どんなふうに歩き出したのだろう。

 病院の廊下の光は、彼女の背中にどんな形の影を落としたのか。

 帰り道のどこかで立ち止まり、通りすぎる人の足音にまぎれながら、自分の未来がどちらへ傾こうとしているのか、言葉にもできないまま確かめようとしたのだろうか。


「たったひとりで……そんなの、怖いに決まってるだろ……」


 それでも、すぐには誰にも話せなかった。

 アオに言えば、アオの夢の足元を崩してしまうかもしれない。

 言わなければ、抱えきれない現実をひとりで受け止めるしかない。

 二つの痛みのあいだに挟まれて、ユナは長い時間をそこで彷徨っていたのかもしれない。

 ユナは、触れれば折れてしまう心で、最後まで「ふつうの顔」で隣に座り続けた。

 ──ユナの最初の手紙の「さようなら」は、見放すための言葉ではなかった。


 アオの脳裏に、ふいに最初の手紙の紙の感触がよみがえった。


 最初の手紙の「さようなら」のすぐ脇。

 細くにじんだ線。

 水か落ちた跡のように、言葉の輪郭だけが、わずかに崩れていたあの場所。


 あれは、別れを言い切った跡だったのだろうか。

 それとも、言えなかった言葉が、そこに落ちてしまった痕だったのだろうか。


 答えは、もう書かれていない。

 けれど、にじみの跡が残っていたという事実は、あの手紙の真実が何であるかを問いかけている気がした。


「優しすぎるんだよ」


 アオは便箋を握りしめた。

 手のひらに力が入りすぎて、紙がじわりと熱を帯びる。

 指先に力をこめたまま、アオはゆっくりと言った。


「勝手に決めて、勝手に遠くへ行って。俺に何も言わせてくれなかった。ほんとは、隣で震えてるユナごと、抱えて歩きたかったのに」


 部屋の空気には、どうしようもない無力さが音もなく広がっていった。

 アオは机の縁をつかんだまま、ふっと視線を落とした。

 それと同時に、堰が切れたように肩が揺れた。


「……何も、できなかった……」


 声にならない息が、喉の奥でつっかえた。

 普段なら決して表に出さないはずの感情が、こらえきれずにあふれ出す。

 内側で固まっていた後悔が、ひとつひとつ形を持って押し寄せてくるようだった。


「気づけたはずだったのに……ごめん……ごめんよ……すまなかった……」


 言葉の端が崩れていく。

 アオは顔を両手で覆った。

 手のすきまから漏れる息は熱を帯びて乱れ、机に落ちる涙が、ぽつ、ぽつ、と乾いた音を立てた。

 押し殺そうとするほど、逆に涙は勢いを増した。

 声にならない嗚咽が胸の奥から突き上げ、呼吸が追いつかない。

 何年も閉じ込めてきたものが、一度に形を失って崩れ出てくるようだった。


「ユナの痛みに、触れられたはずだったのに……」


 こぼれた声は弱く、幼いほどに頼りなかった。

 感情を表にすることを避けて生きてきたアオが、もう隠す場所をなくして、ただ情けなく泣き崩れる。

 その姿は、後悔に押しつぶされ、どうしようもない無力さにひざを折る、ひとりの生身の人間そのものだった。


「ユナも、夢も、守れなかった」


 返事の代わりに、雨音が再び窓を叩き始めた。


 棚の上には、薄暗い光に照らされたソラちゃんが座っている。アオはしばらく、その姿を見つめていた。


 幼いころと同じ、少しほつれた耳。綿の隙間からのぞく糸が、かすかに光を帯びている。

 アオは手を伸ばし、抱き上げた。

 その軽さが指先に広がったと同時に、音もない痛みがそっとアオを包んだ。


「どうして……」


 アオはかすかに笑った。


「ずっと頑張ってきたのに……結局、何にも届かなかった……」


 声は自分でも驚くほどに荒かった。

 言葉が途切れ、雨が窓を叩く音だけが、遠くで続いている。

 アオはソラちゃんを抱きしめ、そのまま額を小さく押し当てた。


「ねぇ、ソラちゃん。こんな時だけずるいよね。でも、もしまだ、聞こえてるなら……」


 雨音が、ゆっくりと続く。

 沈黙の深さだけが際立つ。


「ソラちゃん、助けて。俺、どうしたらいいの?」


 その言葉は泣き声でも、叫びでもなかった。

 ただ、誰にも届かない場所でこぼれ落ちた、小さな祈りのような声だった。


「ソラちゃん……答えてよ……」


 その言葉は、部屋の空気に無音となって吸い込まれていった。


 アオは机の引き出しを開け、古くなった白いクレヨンを取り出した。

 指でなぞると、欠けた先端に、あの夏の光が見えた気がした。


「……アオ」


 誰かに名前を呼ばれた気がして、アオは顔を上げた。


 部屋には誰もいない。

 けれど、遠い記憶の底から、水面を揺らすようにその声が届いた。

 部屋の空気が柔らかくふくらみ、どこからか、懐かしい匂いがした。


 それは、あの夏の光の匂いだった。

 絵の具と風が混ざった、甘い匂い。

 胸の底で、長いあいだ眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましていく。


「……ソラちゃん?」


 その名を呼ぶ気配に応えるように、明かりがそっと揺れた。

 その光の揺れの中に、パンのあいだから覗く丸い顔が浮かんだ気がした。


「アオ、ここにいるよ」


 その声は、確かにそこにあった。

 けれど同時に、耳ではなく、胸の奥で響いているようでもあった。

 もうどこにもないはずの時間の、名前も形もない小さな暖かさに満ちていた。

 アオは息をのみ、顔を両手で覆った。


 ──こんなふうに、ソラちゃんの声を聞いたのはいつ以来だろう。


 いつのまにか忘れていた。

 自分の中のどこかで、ソラちゃんは長いあいだ眠っていた。


「そうか、俺、聞こえてなかっただけなんだ」


 アオは、力なく、小さく笑った。

 涙がにじんで、視界の中で光が滲む。


 アトリエの中に、風が通り抜けた。

 紙が一枚めくれ、鉛筆が転がる。

 その音が、なぜか懐かしかった。


 ソラちゃんの姿は、淡い光に包まれていた。

 アオは、今、幼い日に布団の中で抱きしめたときの、柔らかな手触りを感じていた。

 パンの布のあいだからふわりと漂う、淡い綿の匂いも。


「アオが泣いてる夜も、絵を描いてる夜も。ここにいたよ。ずっと待ってた」


 今度は、胸の奥ではっきりと聞こえた。

 アオはうつむいた。その言葉がアオの中に滲み込み、遠い記憶のあたたかさと、どうしようもない寂しさがいっしょにこみあげてきた。

 アオは涙をこらえきれず、笑うように息をこぼした。

 その笑い声に、ソラちゃんも小さく笑った。

 笑い声は、あの夏の日とまったく同じ音だった。


「あの日、嵐の中でアオがわたしを助けてくれた。今度は、わたしがアオを助けるから」


 アオは顔を上げた。

 ソラちゃんは、昔と変わらない姿でそこにいた。

 だけどその小さな瞳の奥には、幼い日に見たときにはなかった穏やかな深さがあった。


 ふたりのあいだには、長い時間があった。

 アオが夢を追い、傷つき、誰かを好きになり、失い、いくつもの朝と夜をくぐり抜けてきた時間があった。

 それでもソラちゃんは、ずっとここにいた。

 埃をかぶりながら、ただアオの帰りを待っていた。

 その長い沈黙が、いまようやく言葉になって溶け合っていく。


「ねえアオ、ここ、胸は痛い?」


 アオは胸に手を当てた。

 指先に、さっきまで気づかなかった鼓動の重さを感じた。


「ほら、そこにまだ、《《あのときの種》》、残ってるよ!」


「……あのときの種……」


「そう、人のことを思って苦しくなるやつ。アオはまだ無くしてないから!」


 短い沈黙のあと、ソラちゃんは続けた。


「アオ!もう一度、描いて! 嵐の日に助けてくれた、あのときの風を──ユナのいる場所へ」


 アオは目を閉じ、深く息を吸った。

 光の粒が風に乗って流れ込んでくる。

 やがて、空気の中の光が、ふっとゆらいだ。

 まるで世界が深呼吸するように、ゆっくりと満ちていき、記憶の陽だまりをつくった。


 アオが手を伸ばすと、ソラちゃんの輪郭は、光の粒に触れて霞んでいった。

 パンの布の端が、そよ風になでられ、空気の波にゆらめいた。


「大丈夫!風は、ちゃんと吹くから!」


 その声が胸の奥に届くと、光の粒は、柔らかく散っていった。

 アオの頬を、一筋の風が撫でた。暖かくて、少しだけ寂しい風だった。


 時間にすると、ほんの一瞬の出来事だった。

 それは、時間の隙間からこぼれ落ちるような短い瞬間だった。

 けれど、アオには分かっていた。

 その一瞬が、永遠よりも確かなものを残していったことを。


 アオはゆっくりと目を開けた。


 手の中には、古びた白いクレヨンと、胸元にはユナの手紙。

 アオは手紙を開き、最後の一行をもう一度読んだ。


「アオくんの『まっすぐ』な心が、どこかの誰かの風になるのを一緒に見たい」


 ユナの文字が、ソラちゃんの声と重なった気がした。

 幼い日の約束と、今ここにある願いが一本の線へと結ばれていく。


 ユナが白い箱へしまった小さな証がふいに浮かび上がった。

 幼い子どもからの、たった一枚の「ありがとう」。

 その子の名前も渡した理由もわからないのに、あれはユナにとって、誰かの今日が確かにそこに息づいていたという証そのものだった。

 その紙片を両手で扱うときのユナの指先は「届く」ということの意味を、言葉よりも確かに語っていた。


 誰かの胸に深く届く風は、きっと本当の力になる。

 ソラちゃんの声とユナの文字が重なり、アオはその確信が、自分の中で、もはや崩れることのない形を持つのを感じた。


 あの紙片を抱えるときの、ユナの少し照れた笑顔。

 その表情を思い浮かべるだけで、胸のどこかに柔らかな灯りがともる。

 ──この人の「残したい時間」をつくりたい。

 そう願わずにはいられないほど、アオには、ユナという存在がいっそう愛おしく思えた。


 静けさを破るように、スマートフォンが鳴った。

 画面には、ミサキの名前が表示されている。

 ゆっくりと通話ボタンを押すと、かすかなノイズの向こうから、抑えた声が届いた。


「姉ですが、少し落ち着いてきました。呼吸も、ようやく安定してきて」


 短い言葉のあと、わずかな間があった。

 その沈黙の中に、まだ病室の機械の音がかすかに響いているような気がした。

 アオはゆっくりと頷いた。


「そうですか。よかった」


 ミサキが何か言いかけて、ためらうように息を吸った。

 それだけで、アオは理解した。

 まだ、会える状態ではないのだと。

 通話が終わると、部屋の中に穏やかな静けさが戻った。


 まだ終わっていない。

 そう思うだけで、小さな光が灯る。


 ──間に合うかもしれない。

 まだ、ユナに見せられる。

 自分の絵を、夢の続きを。


「夢も、ユナも、どっちも諦めない」


 声になった途端、その言葉は迷いを断ち切るように、はっきりと自分に刻まれた。


「ソラちゃん、もう大丈夫。あの《《まっすぐの種》》、思い出したから」


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