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白い箱

※病気に関する描写があります

 靴の裏に、まだ病院の床の冷たさが残っている。

 アトリエの部屋は暗く、空気は冷えていた。


 玄関の扉を閉めたときの振動が、一拍遅れて床から壁へと伝わっていく。

 スイッチを入れると、ランプの明かりがじわりと広がった。

 そのとき、棚のあたりで、何かが、カタン、と転がる音がした。

 扉の振動か、隙間から入り込んだ風か。

 理由は分からないけれど、何かが倒れたらしかった。


 顔を向けると、ソラちゃんが、いつもよりわずかに前のめりに傾いていた。

 まるで、アオの視界に入りたがっているように。

 そのすぐ横にあるはずの、旅先のポストカードを立てていた小さな木のスタンドが、そこから消えていた。

 視線を巡らせると、床の上で表を伏せたまま、スタンドが倒れているのが目に入った。


 しゃがみ込んでスタンドを拾い上げる。

 角が少しすり切れた一枚のポストカードが見える。

 いつか一緒に行った海辺に立つ灯台と、ユナが切り取った青い空が、そこに写っていた。


 アオは、ほんの少し息を止めた。

 同じポストカードが、ユナの「白い箱」にも入っていたことを思い出す。

 アオはポストカードを手にしたまま顔を上げた。

 クローゼットの扉の向こう──あの箱の置かれている場所が、まぶたの裏で急に輪郭を持った。


 導かれるように、アオはクローゼットの取っ手に触れた。

 扉の向こうには、あの箱がひとつ、息をひそめるように置かれていた。


 アオは箱を引き出す。

 紙の表面は少し色あせ、角には指の跡のような柔らかな光沢が残っていた。


 蓋を開けると、乾いた紙の匂いとわずかに甘い香りが混ざって広がった。

 冬の冷たい空気と、紙のほのかな香りが混ざる。


 中には、あの旅先ポストカード、並んで眺めた展覧会のフライヤー、角のすり切れたチケットの半券、乾いた緑色のまま閉じ込められたクローバー、カフェのコースターが、向きをそろえて重ねられていた。

 ユナと話した、幼い字で綴られた「ありがとう」の紙もある。


 アオはひとつひとつを指先でゆっくり確かめた。

 触れるたびに、時計の秒針の音がゆるやかに遠のいていく。

 そのリズムに合わせて、封じ込めていた記憶が呼吸を取り戻していくようだった。


 時間は、どこから始まってどこへ流れていくのか分からないのに、通り過ぎたあとの痕跡だけは確かに残る。

 白い箱の中にあるものは、その痕跡そのものを象徴しているかのようだった。

 それ自体には、名前も形もないのかもしれない。

 けれど、この箱の中のものに触れるたび、触れたその瞬間だけ、過去が今の中に滲み出してくる。

 一度きりのはずの時間が、そこに溜まっていたみたいに。

 コースターの隅には、薄くコーヒーの輪が残っている。

 あの日も、今日と同じように寒くて、ふたりとも、カップを両手で包むようにして温めていたんだった。


 人は過去をしまうとき、捨てられない物を閉じ込めておくために箱に蓋をするのか。

 それとも、いつか誰かと開けて確かめるために、取っておくのか。

 アオの前に置かれた白い箱は、そのどちらの理由も帯びているように見えた。


 箱の奥に目を向けると、白い紙の端がのぞいているのに気づいた。

 指先でつまみ上げると、丁寧に折りたたまれた便箋が一枚、姿を現した。


 アトリエで読んだ、あの別れの手紙と同じ大きさの紙だった。

 けれど、指先にのせてみると、まるで違う重さをしているように感じられた。

 箱の底で、声にならないまま眠っていたもうひとつの言葉──そんな気配が、折り目のあいだからにじんでいた。


 アオはゆっくりと便箋を開いた。文字を追った途端、部屋の空気がわずかに変わった気がした。

 時間の流れが反転したかのような錯覚が、音を潜めた空間に生まれる。

 指先には、かつてカップを包んだ温もりに似た感触が戻り、文字の並びからは、ユナの声の気配が小さく立ちのぼった。




 アオくんへ


 本当はね、病院で白血病だって言われた。

 病名は、急性骨髄性白血病。

 そう、言われました

 ちゃんと話せそうにないから、手紙にしました。


 その言葉を聞いたとき、時間が止まったみたいだった。

 病気のこと調べてみたら、怖いことがたくさん書いてあった。

 頭では理解してるのに、心が追いつかない。

 悔しくて、情けなくて、ひとりで何度も泣いた。


 子ども向けのワークショップ、

 取材したかった作家さん、

 アオくんと行こうって言ってた海。

 私、まだいっぱいやりたいことあるのに。


 どうして、私なんだろうって何度も思った。


 この話をしたら、きっとアオくんを困らせると思ってた。

 負担になってしまうかもしれない。

 夢を諦めてしまうんじゃないか、それが怖くて言えなかった。


 でもね、ひとりで抱えるのはやっぱり無理みたい。


 あのね、机の上に置いてあった、新しいキャラクターのラフ画、見ちゃった。

 いつもと違う感じで、私たちことを考えて、きっと無理してくれてるんだよね?


 でもね、私はアオくんの絵も、お話も、本当に好きです。

 無理しないで、アオくんは、アオくんのまま夢を追い続けてほしい。

 そうしてくれたら、きっと私も私でいられる気がする。


 だからお願い。私を、ひとりにしないで。

 私と一緒にいて。


 ふたりで、同じ時間を生きていたい。

 たとえ短い間でもいい。


 アオくんの「まっすぐ」な心が、どこかの誰かの風になるのを一緒に見たい。




 便箋を胸に抱き、アオはその場にしゃがみ込む。

 床に涙が落ちた。

 アオは便箋を膝の上に広げ、誰にも読まれなかったはずの言葉の重さを、指先でなぞった。


「白血病って……」


 数時間前、病院で告げられた「面会謝絶」という言葉には不穏な気配があった。

 それでも、そこに含まれる深刻さを明確に思い描けていたわけではなかった。

 白血病という言葉が、映画やドラマの中では何度も登場し、そのたびに悲しい結末を連れてくることは知っていた。

 けれど今、ユナの筆跡で書かれた三文字は、どんな物語よりも現実で、どんな悲劇よりも、身近で残酷だった。


 アオは、その重さを打ち消す何かを探すように、スマートフォンを手に取った。

 中をさまよう指先で画面を開き、検索欄に文字を入れる。


「急性骨髄性白血病」


 次に進むために指先が画面に触れるまでのわずかな距離が、底の見えない深さを持っているかのようだった。

 小さく息を吸い、ようやく画面の「検索」の文字に、指先を重ねた。

 空気は軽くなる代わりに、一層重く動いた。


 次々に表示されるページ。

 「生存率」「急変」「無菌室」という文字が並ぶ。

 その中の「5年」という文字が、他のどんな言葉よりも冷たかった。

 画面をスクロールするたび、光が指先に反射し、その数字だけが際立って大きく見えた。


 アオはスマートフォンを持つ手をいったん下ろした。

 深く息を吸おうとしても喉の奥がつかえ、呼吸が浅くなる。

 視線はテーブルの一点に落ちたまま動かない。

 冷え切った部屋は、探していたものは永遠に見つからないのだということを、誰にも聞こえない声でそっと示しているようだった。


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