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壁の向こう側

 傾いた陽が、アトリエの床をゆっくりと横切っていた。

 スケッチブックは二日前から開かれないまま机の端に置かれ、アオは肘をついたまま、鉛筆の影が机上の何もない部分で細く伸びていくのをただ見つめていた。

 ユナは、あの日から一度も戻ってきていない。

 窓の隙間から差し込む赤い光が、鉛筆の影をさらに細く伸ばし、流れない時間の輪郭をかすかに示していた。


 そのとき、スマートフォンが小さく鳴った。

 腕のあたりを、ざらついた空気がかすめる。

 着信の光が、暗い部屋の壁を淡く照らした。

 アオは一瞬、呼吸を抜かれたように動きを止めた。

 説明のつかない不安がゆっくりと形を持ちはじめるのを確かめるように、鳴り続けるその振動が、部屋の空気を震わせている。

 画面に浮かぶ名前──「ミサキ」。

 ユナの妹だった。

 普段なら、かかってくるはずのない相手。

 アオはひと呼吸だけ置き、それから画面を押した。


「アオさんですか?」


 ミサキの声は、抑えたように静かだった。

 けれど、その後の沈黙の向こう側には、何かを言い出しにくそうな気配があった。


「ミサキちゃん?」


 一拍おいて、低く問いかけた。


「どうしたの?」


 呼吸の音が途切れ途切れに聞こえる。


「あの……姉が、今朝倒れて救急車で病院に」


 言葉の意味が、音よりも遅れて届く。

 最初はただの音の塊として耳に触れ、遅れてその輪郭が言葉として立ち上がった。


「姉ですが、二日前から、私のところに来てたんです。体調が悪くて、病院にもかかっていて……でも、このことは、アオさんには、言わないって」


 声が細くなっていく。


「病気のことが……ちょっと、うまく言えない状態で……その、入院をしないといけなくなっていて、準備をしてたんですが……でも今朝、急に意識を失って……」


 かすれた呼吸が、ようやく言葉をつなぎとめている。


「すみません、うまく説明できなくて……」

「わかった。とにかく場所を教えてください」


 自分の声が思っていたよりも低く、乾いていた。

 病院の場所を聞いた後、電話の向こうでミサキが何かを言いかける。


「でも、あの……いま病院では──」


 その続きを聞く前に、アオは通話を切っていた。

 手の中の電話が、まだ熱を帯びているように感じた。

 息が詰まるような静寂。

 電話口の向こうで、彼女が何を伝えようとしていたのか、そのときのアオには、考える余裕がなかった。

 ただ、ユナの顔が浮かび上がり、そこから世界が急速に狭まっていった。


 アオは鍵を掴み、玄関の扉を乱暴に開けた。

 冷たい空気が喉の奥を切るように通り抜けた。

 その冷たさが、ユナが倒れたという現実の冷たさと、薄く響き合った。


「ユナ……」


 階段を駆け降り、夕方と夜の境目の街へ飛び出した。

 信号の赤、コンビニの白い光、行き交う車のヘッドライトが滲んだ点となって視界へ流れ込む。

 息が上がり無心に走り続けたその先に、病院の白い建物が見えた。


 自動ドアの前で、早まる足を止める。

 センサーが反応し、厚いガラスが機械音とともに左右に割れた。

 外の夕焼けの色が、足もとで切り落とされ、その先に病院の白い床が現れた。

 消毒や薬品の匂いが混じった空気が、中から流れだす。

 それは汗ばんだ額の熱を奪い、代わりにざわめきをそこに残した。


 病院の白い廊下。受付の前には、他の面会者たちの靴音がやけに響いていた。

 病院の空気は、外の世界とは違う時間を流していた。


 受付でユナの名を告げると、病院の職員が首を横に振って家族以外の面会はできないと告げた。

 途中で切ってしまった電話口で、ミサキが言いかけた言葉の先が繋がった。


 それ以上食い下がる気力はなく、アオは視線を落としたまま、待合室の奥へ歩いた。

 人の流れから少し外れた長椅子に腰を下ろす。

 硬い感触が、現実だけを身体に残した。


 ほどなくして、足音が近づいた。

 顔を上げると、そこにミサキが立っていた。

 目の下に薄い影を落としながらも、気丈に微笑もうとしていた。


「もしかして思って、ロビーに出てきたところでした。来てくださって、ありがとうございます。姉は、いま眠っています。少し落ち着いてはいるんですが……」


 言葉の端が、小さくたわんだ。

 それ以上を言わせるのは残酷に思えて、アオは何も言わずにうなずいた。

 アオのうなずきに、ミサキは目を伏せた。

 その小さな動きが合図だったかのように、ミサキの肩から力が抜ける。


 「……」


 声にならない息が漏れる。

 ミサキは両手で顔を覆い、音を抑えたまま待合室の長椅子の端に崩れ落ちた。


 姉のユナは、彼女にとって唯一の家族だった。

 すでに両親を失い、支え合う相手は、その姉ひとりしかいない。

 姉を支えなければならない──その思いだけで、ひとり、現実に正面から向き合っていた。

 この場に、姉を知る別の誰かがいる、ただそれだけの事実が、張りつめていたものを緩めた。

 見せまいとしてきたものが、もう形を保てなくなった。


 アオは、伸ばしかけた手を途中で止めた。

 触れてしまえば、何かを壊してしまう気がした。


 しばらくして、看護師がひとり足早に近づいてきた。

 ミサキは顔を覆ったまま、その音にわずかに肩を強ばらせる。


 看護師は二人の前で足を止め、ミサキの様子を短く確かめる。

 間を置いて、ゆっくりと一歩近づいた。


「……落ち着かれましたか。先生がお話を、とのことです。こちらへ」


 穏やかに振る舞ってはいたが、声は事務的だった。

 ミサキは涙を拭い、何度か深く息を整えたあと、小さくうなずいた。


「……すみません」


 誰に向けた言葉なのか分からないまま、彼女はアオに一度だけ視線を向け、看護師の後を歩き出した。

 白い廊下の奥へ、背中がゆっくりと遠ざかっていく。


 廊下の向こう、扉で隔てられた場所で、いまユナの身に何が起きていて、これから何が起きるのかということが、言葉として並べられるのだろう。

 整えられた言葉で、逃げ場のない順序に並べられて。


 だが、それがこちら側に届かないという事実は、アオに、ほんのわずかな余白を与えていた。


 知ってしまった瞬間、世界はひとつの形に固定される。

 知らなければ、まだ現実にならない。

 曖昧なままであれば、祈りは、息をしていられる。


 アオは、白い壁の前で立ち止まった。

 面会のために訪れた人々の靴音が、現実の重さとは無関係に、遠くで交差していた。

 壁の向こう側にユナがいる。

 けれど、どんな顔で眠っているのか、どんな呼吸をしているのか、何ひとつ想像できなかった。

 見えない距離の中で、どうやって祈ればいいのかわからないまま、時間だけが隔てられていく。


 アオは両手をポケットの中へ沈めた。

 震えを隠すように。

 そこにいるしかないという重さだけが、身体の奥にゆっくりと残った。

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