夜に置かれた言葉
アオが帰宅し玄関の鍵を回すと、部屋の中はひっそりと静まり返っていた。
灯りのスイッチを押すと、どこか冷えた光がアトリエに滲むように広がり、机の上に置かれた一通の封筒だけが、静けさの中心に浮かび上がった。
アオはコートの袖口を軽く握り、部屋の奥へ歩み寄ると、床板が小さく軋んだ。
封筒の白が、周囲の静けさの中でやけに際立って見えた。
アオは見覚えのある筆跡を確かめると、そのまま手を伸ばし、封を切った。
紙が裂ける乾いた音を、降り続く雨音が鈍く飲み込んだ。
封筒を開けると、淡いクリーム色の便箋が一枚出てきた。
アオは短く息を吐き、指先でその便箋を広げた。
アオくんへ
最近のアオくんを見ていて、気になっていたことがあります。
机の上に置いてあった、新しいキャラクターのラフ画、見ちゃった。ごめんね。
華やかで、今の流行に合った絵だった。
たぶん、これからの生活のことを考えて、
「ちゃんとしなきゃ」って、自分に言い聞かせながら描いてくれているんだよね。
その優しさは、本当に嬉しいはずなのに、今の私には、うまく受け止められません。
ごめんね。
アオくんの夢に寄り添うことより、足を引っ張ってしまう気がして。
本当は支えになりたかったのに、どこかでそれがもう難しいと感じています。
だから、離れることにしました。
アオくんには、誰かのためじゃなくて、自分のために筆を握ってほしい。
直接話すと、きっと決意が揺らいでしまうので、手紙でごめんなさい。
別々の道を歩くことになっても、あなたが描く自由な風は、きっとどこかで感じています。
どうか歩き続けてね。
さようなら。
便箋を読み終えたあと、アオはしばらく動けなかった。
紙に残されたインクの線を指先でなぞる。
たわんだ便箋から落ちてくる言葉の影が、あたりの色彩を奪っていく。
「……さようなら、って……」
声は誰に向けたものでもなかった。
視線は紙から離れず、同じ一文を何度も追いかける。
「どういうことだよ?」
少し間を置いて、声が漏れた。
「俺、何か言ったか……?」
答えは浮かばない。
昨日までのやり取りを、必死に巻き戻す。
「……昨日まで、普通だっただろ……」
記憶を探ろうとしても、浮かぶのは些細な会話ばかりだった。
笑っていた顔。いつも通りの声。
それらが、今になって全部、信じてよかったのか分からなくなる。
記念日の話をした夜の「大丈夫だよ」と笑った彼女の表情が浮かんだ。
あのとき、柔らかさの中に混じっていたわずかな影。
思い出すと、それが不自然なくらい鮮明だった。
「……くそっ。何してるんだ、俺」
あのとき、引っかかりは確かにあった。
笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ浮かんだ、ためらいの影。
それを見なかったことにしたのは、他でもない自分だ。
忙しさや不安を理由に、聞かなくていいことにしてしまった。
「でも、どうして……一度でいいから、顔を見て言ってくれなかったんだよ。時間がかかっても、ここで一緒に考えられただろ……」
アオは顔を上げた。
テーブルの向こうにある空の椅子が、以前と同じ場所に何も主張せず佇んでいた。
ついさっきまで、そこに座って微笑んでいたように見えるのに、もう二度と戻らない場所に変わってしまっていた。
握る手に力が入り、便箋が少し皺になる。
ランプの光の下で、アオの知らないところで決められた「さようなら」だけが、きれいに整った文字になって目の前に残っている。
気づけば、ポケットからスマートフォンを取り出していた。
画面には、つい最近まで続いていたやり取りの履歴がそのまま残っている。
「話したい」「一度だけ会ってほしい」そんな言葉が浮かんでは消え、入力欄の文字カーソルだけがせわしなく点滅を繰り返した。
送信ボタンの手前で指先が止まり、そのままゆっくりと引き戻される。
これを押しても、何も変えられない。
今の自分には、ユナを引き止める言葉が、何一つなかった。
アオはそのまま画面を閉じた。
問いと答えが空回りする。
何を考えても、どこにも行き着かない。部屋には雨の音だけが絶えず落ちていた。
ふと、いつかのユナの言葉が頭をよぎった。
「時間がかかって、何年も何年も、今みたいな感じが続いたら……それでも、絵、描き続ける?」
あのとき、ユナは何かを確かめるように言っていた。
描くことしか考えていなかったわけじゃない。
生活のことも、頭では考えていた。
けれどそれを、きちんと言葉にしたことはなかった。
「もう少し先で」「もう少し形になってから」そうやって先延ばしになっていた。
この先を、どうやって一緒に歩くつもりなのか。
それを、ちゃんと考えているのか。
ユナは、それを聞いていたんだ。
今思えば、あの言葉の奥で、ユナの中ではもう別れが決まっていたのかもしれない。
──そう思うと、何かが音もなく崩れた。
「そう……だよな」
愛想を尽かされた、と納得しようとする。
けれど、どこかでその言葉を拒む自分もいる。
あとほんの少しだけ余裕があれば、違う結末になったのかもしれない。
でも、時間は誰にだって平等に過ぎる。
ユナの隣に立つには未熟過ぎたんだと思うより他なかった。
手紙の中のユナの言葉は、最後まで責めることなく、ただ背中を押していた。
その優しさがいちばん痛かった。
最後の行に目が戻った。
「さようなら」その文字のすぐ脇で、細い線がほんの少しだけにじみ、水に濡れた後みたいになっているのをが見えた。
そこに残っているものが言葉ではない、とだけ分かった。
便箋を握る指先が震え、文字が滲んで見えた。
それが涙なのか、雨のせいなのか、分からなかった。
雨音が、ここにあるすべてを包むように降り続けていた。




