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手紙

 次の日、ユナのもとに病院から電話があった。

 医師は、本当は「今日にでも入院してほしい」と言っていた。

 けれどユナは、紹介状を頼りないほど薄い命綱であるかのように強く握りしめ、「少しだけ時間をください」と繰り返した。


 まだ、どうしてもやらなければならないことが残っていた。


 ユナは机の上に便箋を広げ、ひとつ息を整えてからペンを取った。

 ペン先が、紙の上を音もなく滑った。

 言葉がひとつずつ形になり、インクが乾く前に涙の気配が滲む。

 止まりかけては、また書き出す。

 最後の言葉にたどり着いたとき、ペン先がそれまでの言葉を受け止めるように止まった。


 ユナは書き終えた手紙をしばらく見つめていた。

 やがて、涙が一滴、便箋の上に落ちた。

 音もなく広がるしみが、小さな丸をつくった。

 それは、自分の心の奥からこぼれたものが、紙に何かの印を残したようにも見えた。


「……こんなこと、言えないよね」


 彼女はゆっくりと紙を折りたたみ、机の端に置いた。


 しばらく指先を止めてから、別の便箋を取り出す。


 ペン先が再び動いた。

 紙の上を滑る音が、さっきよりも乾いて聞こえた。

 指先の力を抜こうとしても、筆圧だけが強くなっていく。

 整った文字が並ぶほどに、それは、まるで誰かのために整えられた言葉のように見えた。

 ペン先がわずかに止まり、インクが小さな点をつくった。

 書き終えたと同時に、頭の中の遠いところで、乾いた糸がぷつりと切れたような気がした。


「だめ、やっぱり」


 机の上に、内容の違う二通の手紙が対等に並んだ。

 どちらか一方を一旦選んでしまったら、もう片方の世界は永遠に訪れない。

 ユナはそれが怖くて、しばらくペンを置いたまま動けなかった。


 ユナは立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。

 奥にしまってあった、いつも思い出を入れている白い箱を両手で持ち上げた。

 蓋の合わせ目に指を添えると、紙が指先の熱をかすかに吸い取った。


 ゆっくりと開いた箱の中から、この間入れたばかりの、小さな紙が一枚顔を出す。

 幼い子がくれた、たどたどしく、それでも真っ直ぐな、あの手紙。

 ぐにゃりと揺れた文字で書かれた「ありがとう」。

 その短い言葉が、触れた途端に、心に降りた時の感触を取り戻して、そのまま、あのときと同じ息をした。


 紙をずらすと、乾いた空気と昔の匂いが柔らかに立ちのぼった。

 旅先で撮った海辺の写真のポストカード、一緒に出かけた展覧会のフライヤー、もぎりの跡が残るチケットの半券、いつかの午後に押し花にしたクローバー、通い慣れたカフェのコースターたち。


 指先で箱の中のそれらを確かめるたびに、風の匂いや、交わした言葉の温度が静かに立ちのぼった。

 かつての光にひとつずつ触れるように、ユナは小さく息をついた。


 過去の中に、答えがある気がした。

 けれど、今は箱のどこを探してもはっきりとは見えなかった。


 ユナは机の上の二通の手紙を手に取り、箱の中を見つめた。

 迷いを決められないまま、二通とも重ねて入れた。


「一晩、預けよう」


 ユナは箱を自分の方に少し引き寄せ、両手を蓋の上に添えた。

 蓋が手の重みで沈み、小さく息をつくような音がした。

 それは、思い出が眠りに入るときの音に似ていた。


 箱を抱えたまま立ち上がったとき、視線の先にソラちゃんがいた。

 棚の上で、いつもより少しだけ前のめりに傾いている。

 まるでこちらを見上げて、何かを言いたげにしているように見えた。


 その小さな視線を受け止めると、こめかみのあたりがきゅっと締めつけられた。その刹那、床の線が斜めになる。

 血の気が引くような感覚とともに、視界の端が白くにじむ。

 とっさに体を支えようとした拍子に、白い箱の角が、クローゼットのすぐ横の細い棚に当たった。


 棚には、ソラちゃんと並んで、ポストカードを挟んだ木のスタンドが置かれていた。

 そのポストカードは、ユナが白い箱に入れているのと同じ旅先のポストカードだ。

 スタンドの脚がぎりぎり棚の縁から外れ、ぐらりと傾く。

 棚からこぼれ落ちる直前に、ソラちゃんの丸いバンズがほんのわずかに触れ、スタンドを支えた。


 ユナはそれを見た。

 けれど、手を伸ばす気力がなかった。

 そのまま、白い箱だけをそのままクローゼットに戻した。

 彼女はその場にしばらく立ち、蓋の上に置いた手の温度が消えていくのを、ただ感じていた。


 手紙を箱に預けたあと、ユナは椅子に腰を下ろした。

 指先にはっきりと分かる震えがあり、呼吸が浅い。

 胸が締めつけられるように痛み、頭の重さも出てきた。

 その夜、眠りにつくまでのあいだ、耳の奥で自分の鼓動だけがかすかに響いていた。


 翌朝、ユナの体の奥には、さらに濁った重さが宿っていた。

 起き上がると、一瞬視界が遠のいた。

 歩くたび、心臓が小さく跳ねた。

 アオは「なんか体調悪そうだけど、大丈夫?」と声をかけた。

 ユナは「風邪が長引いてるだけ」と言って笑ってごまかした。


 アオが出かけたのを確かめた後、ユナは真っ直ぐクローゼットに向かって歩き、扉を開け、白い箱から二通の手紙のうちの一通を手に取った。

 引き出しの奥から、無地の白い封筒を取り出し、手紙を折り目に沿って整えると、そのままその封筒へ差し込んだ。

 残った手紙は、思い出で蓋をするみたいに、ポストカードやふたりで通ったカフェのコースターの下に潜り込ませた。

 選んだ方の手紙に再び視線を戻す。

 封筒の白さをしばらく見つめてから、ゆっくりと息を吐く。


「これでいいんだよね」


 ユナは、渡すと決めたほうの手紙をアオの机の上に置いた。

 クローゼットの奥では、白い箱の中に、選ばれなかったもう一通の手紙がひっそりと残され、蓋の向こうでユナの迷いごと閉じ込められていた。

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