すれ違う約束
ユナは紹介先の病院に来ていた。
診察室の壁は、音を跳ね返すことすら忘れたように白く、静まり返っていた。
耳の奥でやけに大きく聞こえる鼓動だけが、この部屋にもまだ時間が存在していることを告げていた。
ユナは、医師の口の動きをただ見つめていた。
言葉は耳に届いているのに、意味だけが自分の中へ落ちてこない。
医師は、血液をつくる細胞がうまく働かなくなることで、感染や出血に弱くなる病気だと説明し、次に資料を差し出した。
ページの上にはいくつもの数字が並び、それらが異常な値であることを、医師は淡々と告げた。
「すぐに治療を始める必要があります。入院の準備を進めましょう」
医師の声が、遠くの風の音のように揺れていた。
病院を出ると、風が冷たく頬を撫でた。
街のざわめきが、まるで別の国の音のように遠くで揺れていた。
*
アトリエに戻ると、アオは机に向かい、細い線を確かめているところだった。
扉の音に気づいて顔を上げる。
「病院どうだった?」
その問いは、いつもの気遣いで、いつもの調子だった。
ユナは一瞬だけ呼吸を整え、笑顔の形だけをつくる。
「うん、大丈夫だった。ちょっと疲れがたまってるだけだから、休みなさいって」
アオは「そっか」と優しく頷き、「無理しないで休んだほうがいいよ」と言って、いったん紙のほうへ視線を戻した。
鉛筆の芯が紙をかすめ、短く線を引く。
けれど、その音はすぐに途切れた。
アオは同じリズムに戻れないまま、鉛筆を指先でくるりと回し、一息したあと、机に置いた。
しばらくのあいだ、外を走る車の音だけが薄く部屋を満たした。
ユナはコートを脱ぎかけた姿勢のまま、その背中を見つめていた。
「……あのさ」
沈黙の表面に、小さくひびを入れるように、アオが口を開いた。
ユナがゆっくり顔を上げる。
部屋の灯りの光が、その頬の影をくっきりと浮かび上がらせた。
「前に出したキャラクター企画のことで、出版社から正式にメールが来てた。例のキャラクター企画、直接会って話を聞きたいって」
ユナの目が、かすかに見開かれる。
そのわずかな揺れはすぐに消え、いつもの穏やかな表情が戻る。
「え、それって……すごいじゃない」
「うん。たぶん、チャンスなんだと思う」
アオは、膝の上で組んだ自分の指先を、無意識に強く握った。
紙の端に視線を固定したまま、言葉を続ける。
「で、その打ち合わせの日がさ……来週の金曜の夜なんだ」
喉の奥が乾いていく。
言葉を区切るたびに、アオを取り巻く空気が少しずつ重くなる。
「記念日、あの日」
ユナは、ほんの一瞬だけまばたきを忘れたように動きを止めた。
視線が、アオの肩の少し後ろのあたりで宙をさまよう。
「そう……なんだ」
その声は、いつもより息を多く含んでいた。
そのあとに続いた微笑みは、とても穏やかで、どこか無理に形を整えたような感じがあった。
「もちろん、どうしても無理なら、別の日にしてもらうように……」
アオは言いかけて、そこで自分で言葉を止めた。
メールの文面。
「第一候補」の文字。
会議室のスケジュール。
「複数名で時間確保可能」という一文。
頭の中に浮かんでいたそれらの断片が、目の前のユナの表情と重なり、ぐらりと揺れた。
「でも、ここで逃したくないっていうか……」
言葉の続きを、ユナが静かに拾った。
「行っておいでよ」
その声は、驚くほど真っ直ぐだった。
ためらいも、責める響きもなかった。
「そんな大事なチャンス、断っちゃだめだよ。記念日は、別の日にお祝いすればいいから」
「でも……」
「アオくん、言ってたよね。夢、簡単には諦められないって」
ユナは微笑んだ。
その笑みは、どこまでも優しかった。
けれど、その目の奥で、雨粒みたいな影がひとつ、じっと留まっているように見えた。
「本当に……平気?」
アオは、思わずそう問い返していた。
ユナは、少しだけ視線を落とした。
膝の上で握った手に、力がこもる。
ほんの少しの間のあと、顔を上げ、いつもと変わらない声で言った。
「うん。大丈夫。ていうか、嬉しいよ。そんなタイミングで声がかかるなんて。……ね?」
最後の「ね?」は、確認ではなく、自分を落ち着かせるための小さな呪文のようだった。
アオの中で何かが軋んだ。
あの雨の日に見せたユナの確かめるような問い、その奥にあった影と、今の笑顔とのあいだには、言葉にできないボタンの掛け違いのようなものがある。
けれど、その正体を確かめるより先に「ここでためらったら、すべてを失うかもしれない」という恐れのほうが勝った。
「……分かった」
アオは、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、金曜は編集部に行ってくる。そのかわり、別の日に、ちゃんとお祝いしよう」
「うん。楽しみにしてる」
ユナはそう答えた。
その声に、わずかな震えが混じっていることに、アオは気づかなかったふりをした。
会話が途切れると、再び鉛筆の音が机の上に戻ってきた。
けれどさっきまでより少しだけ不規則で、紙の上で迷うように止まりながら進んでいく。
その音を聞きながら、ユナはコートをハンガーに掛けた。
布が揺れたあと、部屋の空気がひとつ深く沈む。
同じ部屋なのに、ユナの影だけが床の上で別の方向へ伸びているように見えた。
その影は、二つの季節の境目に立っている姿を映しているようだった。




