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すれ違う約束

 ユナは紹介先の病院に来ていた。

 診察室の壁は、音を跳ね返すことすら忘れたように白く、静まり返っていた。

 耳の奥でやけに大きく聞こえる鼓動だけが、この部屋にもまだ時間が存在していることを告げていた。


 ユナは、医師の口の動きをただ見つめていた。

 言葉は耳に届いているのに、意味だけが自分の中へ落ちてこない。

 医師は、血液をつくる細胞がうまく働かなくなることで、感染や出血に弱くなる病気だと説明し、次に資料を差し出した。

 ページの上にはいくつもの数字が並び、それらが異常な値であることを、医師は淡々と告げた。


「すぐに治療を始める必要があります。入院の準備を進めましょう」


 医師の声が、遠くの風の音のように揺れていた。


 病院を出ると、風が冷たく頬を撫でた。

 街のざわめきが、まるで別の国の音のように遠くで揺れていた。



 アトリエに戻ると、アオは机に向かい、細い線を確かめているところだった。

 扉の音に気づいて顔を上げる。


「病院どうだった?」


 その問いは、いつもの気遣いで、いつもの調子だった。

 ユナは一瞬だけ呼吸を整え、笑顔の形だけをつくる。


「うん、大丈夫だった。ちょっと疲れがたまってるだけだから、休みなさいって」


 アオは「そっか」と優しく頷き、「無理しないで休んだほうがいいよ」と言って、いったん紙のほうへ視線を戻した。

 鉛筆の芯が紙をかすめ、短く線を引く。

 けれど、その音はすぐに途切れた。


 アオは同じリズムに戻れないまま、鉛筆を指先でくるりと回し、一息したあと、机に置いた。

 しばらくのあいだ、外を走る車の音だけが薄く部屋を満たした。

 ユナはコートを脱ぎかけた姿勢のまま、その背中を見つめていた。


「……あのさ」


 沈黙の表面に、小さくひびを入れるように、アオが口を開いた。

 ユナがゆっくり顔を上げる。

 部屋の灯りの光が、その頬の影をくっきりと浮かび上がらせた。


「前に出したキャラクター企画のことで、出版社から正式にメールが来てた。例のキャラクター企画、直接会って話を聞きたいって」


 ユナの目が、かすかに見開かれる。

 そのわずかな揺れはすぐに消え、いつもの穏やかな表情が戻る。


「え、それって……すごいじゃない」

「うん。たぶん、チャンスなんだと思う」


 アオは、膝の上で組んだ自分の指先を、無意識に強く握った。

 紙の端に視線を固定したまま、言葉を続ける。


「で、その打ち合わせの日がさ……来週の金曜の夜なんだ」


 喉の奥が乾いていく。

 言葉を区切るたびに、アオを取り巻く空気が少しずつ重くなる。


「記念日、あの日」


 ユナは、ほんの一瞬だけまばたきを忘れたように動きを止めた。

 視線が、アオの肩の少し後ろのあたりで宙をさまよう。


「そう……なんだ」


 その声は、いつもより息を多く含んでいた。

 そのあとに続いた微笑みは、とても穏やかで、どこか無理に形を整えたような感じがあった。


「もちろん、どうしても無理なら、別の日にしてもらうように……」


 アオは言いかけて、そこで自分で言葉を止めた。

 メールの文面。

「第一候補」の文字。

 会議室のスケジュール。

「複数名で時間確保可能」という一文。

 頭の中に浮かんでいたそれらの断片が、目の前のユナの表情と重なり、ぐらりと揺れた。


「でも、ここで逃したくないっていうか……」


 言葉の続きを、ユナが静かに拾った。


「行っておいでよ」


 その声は、驚くほど真っ直ぐだった。

 ためらいも、責める響きもなかった。


「そんな大事なチャンス、断っちゃだめだよ。記念日は、別の日にお祝いすればいいから」


「でも……」


「アオくん、言ってたよね。夢、簡単には諦められないって」


 ユナは微笑んだ。

 その笑みは、どこまでも優しかった。

 けれど、その目の奥で、雨粒みたいな影がひとつ、じっと留まっているように見えた。


「本当に……平気?」


 アオは、思わずそう問い返していた。


 ユナは、少しだけ視線を落とした。

 膝の上で握った手に、力がこもる。

 ほんの少しの間のあと、顔を上げ、いつもと変わらない声で言った。


「うん。大丈夫。ていうか、嬉しいよ。そんなタイミングで声がかかるなんて。……ね?」


 最後の「ね?」は、確認ではなく、自分を落ち着かせるための小さな呪文のようだった。


 アオの中で何かが軋んだ。

 あの雨の日に見せたユナの確かめるような問い、その奥にあった影と、今の笑顔とのあいだには、言葉にできないボタンの掛け違いのようなものがある。

 けれど、その正体を確かめるより先に「ここでためらったら、すべてを失うかもしれない」という恐れのほうが勝った。


「……分かった」


アオは、ゆっくりと頷いた。


「じゃあ、金曜は編集部に行ってくる。そのかわり、別の日に、ちゃんとお祝いしよう」


「うん。楽しみにしてる」


 ユナはそう答えた。

 その声に、わずかな震えが混じっていることに、アオは気づかなかったふりをした。


 会話が途切れると、再び鉛筆の音が机の上に戻ってきた。

 けれどさっきまでより少しだけ不規則で、紙の上で迷うように止まりながら進んでいく。

 その音を聞きながら、ユナはコートをハンガーに掛けた。

 布が揺れたあと、部屋の空気がひとつ深く沈む。

 同じ部屋なのに、ユナの影だけが床の上で別の方向へ伸びているように見えた。

 その影は、二つの季節の境目に立っている姿を映しているようだった。

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