行き先のちがう朝
アオが目を覚ましたとき、雨は上がっていた。
ユナは既に出かけた後だった。
窓ガラスには、乾ききらない水滴がいくつも残っている。
そのひとつひとつが、外の光を細い線みたいにつかまえて、部屋の中に、いくつもの行き先のちがう朝を映しているように見えた。
アオは天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
指先がやっと枕元のスマートフォンに触れると、黒い画面の中で小さな光が灯った。
受信ボックスには、一件の新しいメールが届いていた。
「件名:先日のキャラクター企画について」
差出人は、大手出版社の児童書編集部の編集者。
本文には、これまでとは、どこか別の温度を持つ言葉が並んでいた。
「コンセプトや世界観は高く評価しております。つきましては、読者層への訴求強化を見据えて、ビジュアル面で、さらに一歩、現行のニーズに合った改稿案をご提案いただきたいと考えております」
こうも書かれていた。
「キャラクターの個性はとても魅力的ですので、その強みを活かした方向性でご相談できればと思います」
メールを何度読み返しても、そこに書かれている言葉は変わらなかった。
画面の文字列が、これまでとは違う未来へ通じる扉のように見える。
送信元のアドレスの横には、子どものころ本屋で何度も目にした、あの出版社のロゴが小さく見えている。
いつも棚のいちばん手前にあった背表紙の印。
その記号が、今は自分宛てのメールの行頭に、当たり前のような顔で並んでいた。
スクロールすると、打ち合わせの候補日が記されていた。
「第一候補:○月○日(金)17:30〜
※遅い時間帯ですが、担当編集複数名でお時間確保可能です」
画面の中のその日付に視線が留まった途端、身体がほんのわずかに強張った。
──この日は、ユナと約束した、記念日の金曜日だ。
打ち合わせの時間と移動を考えれば、店に間に合わない。
第二、第三候補日は、すでに外せない先約が入っていた。
スクロールするたびに、「高く評価」「今後の可能性」「直接」という言葉が、別々の光を放ちながら画面の中に並んでいく。
ここで「別の日に」と返したら、この話ごと消えてしまうかもしれない。
そんな考えが、半ば恐怖のような形で心に入り込んでくる。
最初に提示された日を外すことへの躊躇が、指先を縫いとめていた。
「これをつかめば……変えられる」
かすれた声が、無音の部屋の空気に触れてすぐに消えた。
雨上がりの光はまだ湿り気を帯び、水滴の中で細い反射をつくっている。
シンの声がふとよみがえる。「届け方を探してみてほしい」──その言葉の延長線上に、今ここにあるメールがあるように思えた。
アオは、ひと呼吸だけ置いてから、短く文章を打ち始めた。
「○月○日(金)17:30より、ぜひ伺わせていただければと思います」
カーソルが文末で点滅する。
──これを逃したら、ユナともうまくやっていけないかもしれない。
ふたりで同じテーブルを囲む未来を守るために、いまはここを選ぶしかない。
指先に、雨の残り香のような湿った空気がまとわりついた。
送信ボタンを押すと、いっそう静かな音で「送信完了」の通知が表示された。
昨夜のユナの声が、まだどこかに残っていた。
「もしさ……このまま、すぐにはうまくいかなかったとしても」その言葉が、雨上がりの静けさの中でかすかに反響する。
アオは机に置いた手をゆっくり握りしめた。
「これから先の生活のことを考えて言ったんだよな」
ユナが無理に明るく振る舞っていたことも、言葉を選ぶたびにわずかな間があったことも、思い返せばいくつか引っかかる。
「ふたりで生きていくための、現実か」
アオは椅子に背を預け、天井を一度だけ見上げた。
「だったら、まず変わるのは、俺のほうだよな」
小さなつぶやきは空気に混じってすぐに薄れた。
視線を戻した画面のメールだけが、これからを選び取るためのひとつの出口のように光っていた。
けれど、嬉しさよりも先に、どこか説明のつかない影の気配がゆるく漂っていた。
ユナは、これが成功したとして喜んでくれるのだろうか。
机の端には、飲み残した紅茶のカップが置かれていた。
底に少しだけ残った液体が、揺れもせずに暗く沈んでいる。
「あとで、考えよう」
アオはそうつぶやき、ゆっくり息を吐いた。
部屋の空気は、雨の名残をわずかに含んだまま、まだ寒い朝の光に馴染んでいった。




