雨粒の行方
アトリエの窓を、雨が無数の線を描きながら流れ落ちる。
雫たちは、互いに避け合い、寄り添いながら、行き先を知らぬまま形を変えていく。
光をかすめて消える軌跡は、誰にも読めない文字のようにガラスを走った。
机の上には、開きっぱなしのノートパソコンが置かれている。
画面の隅で、新着メールの通知が淡く光っていた。
「件名:キャラクター企画について」
開いたメールには、改めて連絡をしたいという旨だけが、丁寧な言葉で並んでいる。
大手出版社からのメールだ。
シンに会った後、「届く」ように作り変えたキャラクター企画のメールへの返信だった。
文面は、肯定でも否定でもない、どちらとも取れるような言葉で終わっていた。
アオはマウスを握ったまま、しばらくスクロールもできなかった。
画面の光だけが、指先の動かない理由を知っているようだった。
隣の部屋から、やかんの小さな沸騰音が聞こえてきた。
ほどなくして、湯気といっしょに、紅茶の匂いがアトリエに流れ込んでくる。
「おつかれさま」
ユナがマグカップを二つ、机の端に音を立てずに置いた。
「ありがとう」
それだけ言って、画面から目をそらした。
ユナはアオの斜め後ろから、モニターをちらりと見て、すぐに視線を外した。
紅茶の表面に、光の水面が作られる。
モニターの手前、机の端には、描きかけのキャラクターのラフが数枚、少しずれたまま重なっていた。
いつものアオの絵より線の輪郭が太く、目も大きい。紙の端には、強めの色の塗り跡がにじんでいる。
ユナの視線が、その束の上でいったん止まり、何も言わないまま、すぐにふっとはがれた。
ユナはアオの手元にマグカップをゆっくり滑らせた。
ふたりのあいだに、湯気が細く立ちのぼった。
アオは視線を落とし、湯気の向こうに浮かぶ自分の顔を避けるようにカップを傾けた。
しばらくして、ユナがぽつりと口を開いた。
「ねえ、アオくん」
「うん?」
「もしさ……このまま、すぐにはうまくいかなかったとしても。時間がかかって、何年も何年も、今みたいな感じが続いたら……それでも、絵、描き続ける?」
問いかけというより、自分に聞かせているような声だった。
「……うん。たぶん、描いてると思う」
アオは一瞬だけ考え、それからそう答えた。
口元だけがわずかに笑みの形を作ったが、声は一定の調子で響いた。
「他に、できること知らないから」
その言葉に、ユナは小さく笑った。
笑うと同時に、まぶたをわずかに伏せる。
「そっか。……そうだよね」
ユナの声は、どこか肩の力が抜けたような響きと、一瞬だけ強張った響きとが、同じ場所に重なっていた。
アオは、視線をそらすように、マグカップの中を見つめた。
ユナはカップを両手で包み込み、指先をわずかに強く握った。
「ずっと、このままだったらどうしようって、ちょっとだけ思っちゃっただけ」
そう言って、照れ隠しのように笑い、すぐに「ごめん、変なこと言った」と付け足した。
「大丈夫だよ」
アオはそう言ったが、その言葉は行き先を失ったまま空中にとどまり、ふたりのあいだに生まれた空白だけを、静かに震わせていた。
机の引き出しの奥では、小さな箱の中で、まだ誰にも見せていない指輪が、その時を待っている。
「そうだ」
アオは、やり場のない空気に小さな切れ目を入れるように言った。
「来週さ、覚えてる? 俺たちが付き合い始めた日」
ユナは一瞬きょとんとしたあと、ゆっくり瞬きをした。
「……え、覚えてるよ。当たり前だよ」
その頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
「ちゃんとお祝いしたことなかったなと思ってさ。今年は、ちょっといいとこ行かない?」
アオはスマートフォンを取り出し、画面をユナに向けた。
地図アプリには、ビストロの名前と場所がマークされ、店の外観の写真やレビューの星が並んでいる。
「この前、ハルトくんの幼稚園の帰りに通った店。外からメニュー見たら、すごく美味しそうで、お店の雰囲気も良さそうな感じでさ。背伸びだけど、記念日くらいは、こういうとこで一緒にごはん食べたい」
「……予約、もうしたの?」
「うん。他に予約が埋まっていて、来週の金曜日、夜7時からしか空いてなかったけど、どう?」
ユナのマグカップを握る手は、少しだけ緩んだ。
口元に浮かんだ笑みが、雨の匂いをやわらげる。
「もう、そうやって先に決めてから相談するんだから」
「いや、相談したらたぶん『そんな高いとこいいよ』って言うだろ」
「言うけど」
ふたりは、同時に笑った。
その笑い声は、外の雨音とは別のリズムで部屋を満たした。
「楽しみにしてるね」
ユナは、カレンダーのその日付を心の中で指先でなぞるように言った。
その声には、近い未来に小さな灯りがともったような響きがあった。
ユナはマグカップを置いたあと、湯気が細く揺れて消えていくその動きを、追うでもなく見つめた。
さっきまで笑っていた頬の色が、ひと呼吸のあいだ薄くなる。
部屋の空気が、少し冷えたように感じられた。
彼女は小さく肩をすぼめ、浅く息を吸い直した。
その仕草には、言葉を持たない違和感が、一本の糸のように紛れ込んでいた。
程なくして、マグカップをかたづけようとユナが立ち上がったその時、ユナの足元の空気がふっと抜けたように傾いた。
ユナの肩が斜めへ沈み、バランスを崩した。アオは反射的に手を伸ばしたが、ユナは笑って首を振った。
「大丈夫、ちょっと立ちくらみしただけ」
「この前も言ったけど、病院は行った?」
「うん?大丈夫だよ、疲れがたまってるんだと思う。ちょっとリフレッシュするために休みとろうかな」
「そうしたほうがいいよ」
ユナは小さく笑った。
けれどその笑顔の奥で、どこか焦点の合わないまなざしをしていた。
その日、ユナの体の奥には、鈍い重さがずっと残っていた。
朝から続いている微熱のようなだるさ。
少し歩くだけで早くなる鼓動、冷たい指先、身体の内側に、小さな痛みの影。
鏡に映る自分の顔は、いつもより遠く、知らない人のもののように見えた。
妹のミサキに「顔、白いよ」と言われた言葉が、耳の奥に残っている。
翌日、ユナはクリニックへ向かった。
診察室で採血を終えると、ユナは待合室の隅の椅子に腰を下ろした。
壁の時計の針が、やけに大きな音で一秒ずつ進んでいく。
名前を呼ばれるたびに体がびくりと反応するのに、自分の名前だけはなかなか呼ばれない。
背もたれに預けた肩の内側に、じわりと汗がにじんだ。
ようやく再び診察室に呼ばれたとき、医師はモニターを見つめたまま、しばらく言葉を選ぶように沈黙した。
眉間に寄った皺が、ユナの目にもはっきり映った。
「念のため、もう少し詳しく調べましょう」
落ち着いた声だったが、その奥に「いつもの風邪ではない」という含みがあった。
白い封筒に入れられた紹介状を受け取ったとき、紙一枚とは思えない重みが手のひらに乗った。
クリニックから戻った夜、ユナは少しためらうようにして玄関の扉を開けた。
乾きかけの絵の具や紙の匂いが、いつものように漂ってくる。
アトリエでは、アオが机に突っ伏して眠っていた。
ランプの光に照らされた頬、広がったラフ、肩から落ちかけたブランケット。
たぶん器用とは言えない毎日が、そのまま音もなく横たわっている。
ユナは近づき、音を立てないようにして、ブランケットをやさしく掛け直した。
掛け直した後、指先が、ほんの少し止る。
この姿を見ると、心の片隅に柔らかな波が立つ。
大きな出来事なんていらない。
ただ、同じ空気の中でこの人が息をしていて、そこに自分もいる。
それだけで、心の深いところが穏やかに満ちていく。
けれどその日々の中に、説明のつかない「ずれ」がいつの間にか紛れ込んでいた。
ユナはアオの寝息に耳を澄ませた。
伸ばしかけた手は、アオの肩に触れる手前で力を失い、ブランケットの表面をなぞるだけで引っ込められた。
触れそうで触れない距離だけが、暗い部屋の中に残った。
「この先に、私、ちゃんと立っていられるのかな……」
声にならない問いが、頭の中で反響した。
ユナはしばらく動かずにいたが、やがて部屋の明かりに手を伸ばした。
アオの眠る部屋だけが、小さな灯りを残したまま、夜の中に浮かんでいた。




