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ひみつのともだち

 ──ヒラちゃんに



 柔らかい風が芝生を、そっとなでていく。

 穏やかなの光のせせらぎ。風は、そのせせらぎをすくったような緑の波となり、光の粒を含んでゆっくり形を変えながら広がる。


 その風はどこからやってきて、どこへ行くのかわからない。

 けれど、風というものは、ここを通るということだけは確かにわかる。

 すれ違う一瞬に残るほのかな痕跡。

 そのわずかな余韻が、風の歩んできた道を静かに語る。


 風は人のあいだをすり抜ける。

 そのたびに、世界のどこかで生まれた小さな出来事を、目に見えないままに、密かに紛れ込ませていく。

 そしてまた誰かに触れたときには、その人の出来事を、あるいは、出来事になる前の気配をひとつ拾い上げ、次の場所へと静かに運んでいくのだ。


 袖に残った、寄り添った時間の体温。

 窓辺に置かれた、誰かのために用意された朝食の湯気の匂い。

 朝の駅の吹き抜けで静かにつぶやいた誰かの小さな決意の断片や、通学路で並んで歩いたその人に呼びかけようとして胸の中へ戻っていった、声になる前の淡い願いのかけら。

 風の中には、そうした微細な思いが、光を吸った糸のように漂っているのかもしれない。

 そう考えると、ただの空気の流れであるはずの風が、ひと息ぶんだけ温度を帯びる。


 太陽は少しだけ真上へ向かう力を秘めながら、柔らかな光を地面に落としていく。

 陽ざしは、まだ人を急かすような熱を帯びておらず、春がまだ確かな名前を持つ前の、たよりない温もりだけが息づいていた。

 芽生えたばかりの草の匂いに混じって、乾ききらない朝の涼しさが、かすかに残っている、そんな季節の風。

 この風にどんな思いが含まれているかわからないけれど、そうして届いた風は、あたりの温度をわずかに揺らしながら、この芝生のひらけた場所に降りた。


 そこに、少年・アオは腰を下ろしていた。


 アオのかたわらには、幼い身体には少し余るくらいの大きさのリュックが置かれていた。

 背負うと体のほうが負けてしまいそうな、その頼りなげなアンバランスさがどこか愛らしい。

 そのすぐ隣で()()()()()()()()が静かに寄り添っている。


 そのともだちは、小さな猫のぬいぐるみだった。

 猫の体のまわりを、ふかふかとしたパンの形をしたクッションがぐるりと包み込んでいる。

 ハンバーガーに挟まれた猫のぬいぐるみだ。


「この子ね、『ソラちゃん』っていうんだ」


 アオはソラちゃんを両手で持ち上げると、嬉しそうにぎゅっと抱きしめた。


 パンの間からのぞく丸い顔、少し擦れた耳。

 ソラちゃんは、ふつうのぬいぐるみとはどこか違う姿なのに、その違いごと抱きしめたくなるような不思議なかわいさがあった。

 アオは眠る前には、いつも腕に抱えたが、ソラちゃんは決まってほんのりと温かく、抱かれた胸のあたりにまで静かなぬくもりを滲ませていた。

 朝になれば「おはよう」と声をかけ、出かけるときはリュックの中。

 どんな日も、ソラちゃんはアオのそばにいた。


 ある日、七五三の写真を撮るため、アオは、家族に連れられて写真館へ行った。


 カメラマンはアニメキャラクターのぬいぐるみを振って「はい、こっち見て〜」と声をかける。

 けれどアオの表情は固く、どんなに明るく呼びかけられても、笑顔はこぼれなかった。


 そのとき、母がバッグからソラちゃんを取り出し、カメラの後ろからパンの間の顔をのぞかせた。

 アオの頬がゆるみ、次の瞬間、世界がぱっと明るくなるような笑みがこぼれた。

 カメラのシャッターは鳴り、アオの瞳には、カメラの向こうの大切な友達が写った。


 幼いアオにとって、ソラちゃんはただのぬいぐるみではなかった。

 外のざわめきが遠ざかった夜、静まりの片隅から、毎晩アオにだけ聞こえる小さな声がした。

 これが()()()()()()()()である理由だ。


「アオ、きょうはどんな夢を見たい?」


「お空を走る夢!」


「いいね。じゃあ、ソラのパンを雲にして出発ね」


 アオは布団の端を握りしめ、ソラちゃんを頬に寄せた。

 頬に伝わるやわらかな感触に合わせるように、ふわりと風が生まれたように思えた。

 窓の外では、薄い雲を透かして銀の月が浮かび、ふたりの秘密の時間を見守るように息をひそめて光っていた。


 ふたりは想像の空で何でもできた。

 海の上を駆け、星を拾い、風と一緒に笑った。

 パンのあいだからこぼれた雲が波の上を転がり、ソラちゃんの耳が風を切って揺れた。

 アオはそのあとを追い、足の裏で海の光を踏んでいった。


 夜空の澄んだ高みに腰を下ろし、星のひとつをもらって小さな灯にする。

 風が歌い、雲がゆっくりと形を変える。

 広がる空の下で、ふたりの夢に合わせるように、景色がゆっくりと揺れているように見えた。

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