不安のシャスエティ
闘いの余韻が回廊に静かに漂う中、アルガード、フローレンス、マリーはまだ意識を失って倒れていた。
冷たく湿った石床に横たわる三人の周囲に、かすかな硝煙と瘴気の残り香が立ち込めている。
次に動いたのはマリーだった。ぱちり、と瞳を開き、微かに光を宿した光魔導士の目が揺れる。
深く息を吸い、手を掲げて空に祈る。
「…神よ、我らに祝福を──!」
光が指先から溢れ、三人を包む。アルガードとフローレンスの体がゆっくりと持ち上がるように回復し、傷も瘴気も消え去った。倒れていた三人は、まるで眠りから覚めたかのように立ち上がる。
回廊を抜けると、倒れているクロスとエリス、そしてイグニスの姿が目に入る。マリーは手をかざし、光の魔力で彼らも次々と癒やしていった。
回復したエリスは魔力探知を行い、視線を遠くに向ける。
「ジャン達は……ここからさらに奥にいるわ」
指先で示された方角には、依然として強大な瘴気の気配が渦巻いていた。
アルガードは槍を握り直し、深く息をつく。
「行くぞ、今日でこの奈落を終わらせる」
フローレンスも頷き、炎の剣を軽く振るう。
「もう誰も倒れさせない」
イグニスは風を操る弓を肩にかけ、仲間たちと並ぶ。クロスやエリスも前方を見据え、緊張を緩めない。
こうして六人──
アルガード、フローレンス、マリー、クロス、エリス、イグニスは、仲間達を追い、深層へと足を進める。
回廊の光と闇の狭間で、冒険者たちの影が長く伸びた。
死闘の疲れを癒やした者たちの足取りは、しかし決して鈍らない。これが最後の戦いへの序章なのだ。
【奈落 第十層 神殿エリア最奥】
冒険者たちが奈落の深層を進む一方で、神殿エリアの最奥・奈落の底には、最後の六大将・シャスエティと、追いかけてきたジャン、マーテル、ヒルダ、マチルダの四人。重く暗い空気の中を進む。
足元は岩が崩れたような荒地で、穴の底を思わせる深淵のような場所。頭上を見上げれば、果てしなく高く青空が広がっている。
マチルダは額に手をかざし、慎重に魔力探知を行う。
「……ここ、異世界じゃないわ。間違いない。サンライズシティの近郊……奈落の底なのね」
声に、わずかな驚きが混じる。目の前に広がる禍々しい景色が、現実と幻想の境界を曖昧にしていた。
その視線の先、シャスエティは岩を踏みしめるように進み、謎めいた隕石に触れていた。瘴気が隕石から滲み出し、彼の体を包み込む。
ジャンたちは一斉に攻撃を仕掛ける。剣や魔法が瘴気を切り裂こうとするが、隕石の放つ強烈な瘴気がすべてを防ぐ。炎も氷も、槍も矢も、瘴気の壁に阻まれ、弾かれてしまう。
隙間も隙もない圧倒的な力。この瘴気に触れれば、容易に命を奪われることを、四人は直感した。
奈落の底で、青空の彼方と黒い瘴気が交錯するその中で、シャスエティは静かに、しかし確実に力を蓄えている。
瘴気が渦巻く奈落の底。隕石に触れ、禍々しい力を纏うシャスエティを前に、ジャンたちは攻撃を躊躇していた。瘴気はあらゆる魔法や剣撃を弾き、近づくことすら困難だ。
しかしヒルダは、一歩も退かずに構えた。手に握るは、虚淵刀。第九層の主、虚淵のバロムの核石から生まれた剣。瘴気の影響を受けず、真っ直ぐに力を伝えるその剣は、奈落の闇にあっても鋭く輝いた。
「この力で、止める……!」
ヒルダが斬りかかると、虚淵刀は瘴気をものともせず、シャスエティの体に次々と傷を刻む。だが、シャスエティは血を流しながらも不気味な笑みを浮かべ、隕石にしがみついたまま力を蓄え続ける。瘴気の黒い渦が、刀の一撃すら完全には屈服させないかのように蠢く。
「──まだ終わらないのか!」
ジャンが叫び、剣を振るい、マーテルも魔法を放つ。マチルダは援護の精霊魔法で瘴気を薄めようと試みる。
その瞬間、遠くから影が現れた。アルガード、フローレンス、マリー、クロス、エリス、イグニス──六人が追跡を終え、奈落の底に到着する。
それを確認したかのように、シャスエティの体が不気味に揺らぎ始める。瘴気の渦が収束し、存在そのものが薄れ、まるで影のように消えかけていく。
その口元から、かすれた声が漏れた断末魔。
「もう遅い……お前たちの負けだ……」
声が奈落の闇に吸い込まれる。隕石からも、瘴気の黒い影も消え去り、シャスエティの姿は完全に消滅した。
だが、消えゆくシャスエティの瘴気の残滓が、突如として奈落の底に吸い寄せられた。
空気が、歪む。
黒い瘴気が一点に収束し、音もなく膨張したかと思うと、次の瞬間。
そこに「在ってはならぬ存在」が立っていた。
紅く湾曲した双角。
月光のように白く流れる長髪。
血のように赤い瞳が、闇の奥で静かに輝く。
禍々しくも、異様なまでに整った姿。
それは災厄の王の器だった。
「……我が名は、マリス」
低く、澄み切った声が奈落に反響する。
その一言だけで、冒険者たちの肺が締め付けられ、心臓が重く脈打った。
ヒルダの手から、思わず虚淵刀が滑りそうになる。
マチルダは無意識に精霊魔法を展開しようとするが、指先が震えて言うことを聞かない。
「貴様らが、シャスエティの執念を断ち切ったか……」
マリスはゆっくりと視線を巡らせる。
その赤い瞳が一人ひとりを捉えるたび、魂を覗かれているような錯覚が走った。
「面白い。実に不完全な世界に、よくぞここまで辿り着いた」
その瞬間。
マリスの足元から、瘴気が爆発的に噴き上がった。
地面が砕け、空気が悲鳴を上げる。
ただ立っただけで、奈落の底が揺らぐ。
「来るぞ!!」
アルガードが叫び、ロンギヌスを構える。
フローレンスは炎剣に魔力を最大まで込め、マリーは即座に結界の光を展開した。
マリスは一歩、前に踏み出す。
それだけで、空間が裂けた。
視界が歪み、次の瞬間、マリスはジャンの目前に“存在していた”。
「……遅い」
その言葉と同時に、不可視の衝撃が炸裂する。
「ぐっ……!?」
ジャンが吹き飛ばされ、岩肌に叩きつけられる。
防御も回避も、間に合わなかった。
イグニスが反射的に矢を放つ。
風を纏った必殺の一矢。しかし。
マリスは、指先でそれを掴み取った。
「風……火……光……」
矢を砕きながら、静かに呟く。
「どれも未熟だ。だが、悪くはない」
次の瞬間、赤い瞳が細められた。
「我は完全ではない。眠りも浅い」
マリスが完全体となれば、宇宙そのものを指一本で消し去ることができる。故に、目覚めたばかりのここで倒すしかない。
瘴気が、完全にマリスの支配下に置かれた。
奈落の底そのものが、魔王の領域へと変貌していく。
アルガードは歯を食いしばり、槍を突き出す。
「全員、散開しろ! こいつは――魔王だ」
マリスは、確かにそう名乗るかのように、ゆっくりと腕を広げた。
光と闇、魔力と瘴気が激突する直前。
奈落の底に、戦争の鐘が鳴り響く。
魔王マリスは、この場所で、すべてを試し、すべてを蹂躙するつもりだった。
虚淵刀について
第九層の主である虚淵のバロムが所有していた核石から鍛えられた剣。核石の力を宿しており、奈落の瘴気や魔力の干渉を受けず、純粋に力を伝えることができる。
刀身は暗黒の光を帯び、瘴気に汚されることがない。闇や奈落の魔力に対しても耐性があり、正確かつ強力に敵に傷を与えることが可能。
瘴気や魔法障壁を無効化する性質を持つため、奈落の深層でも真っ直ぐに力を伝えられる。攻撃力は非常に高く、戦闘時には闇の中でも刀身が鋭く光る。




