イグニスの賭け
黒薔薇の魔将、恨みのグラージャ。
その紅黒の魔弾は雨のように降り注ぎ、空間そのものを支配していた。
最前線でそれを防ぐのはエリス。アテナの錫杖の加護で魔力消耗を抑えながらも、額には細かな汗が滲む。
「……っ、この数……どこまで撃ち続ける気……!」
魔弾が結界に叩きつけられる度、甲高い衝撃音が響く。
(……あの刀、ただの刃じゃねぇ。何の理屈かは知らねぇが、剣筋に妙な深みがある……)
イグニスは弓を引きながら、横目でクロスの刀――鏡花水月を一瞥する。
この勘は、数え切れない修羅場を越えて磨き上げた嗅覚だった。
効果も能力も一切知らない。それでも「何かある」と思えば、そこに全てを賭ける。
「おい、クロス」
「はい」
「俺の勘、外れても恨むなよ」
「…ちょっと恨みます」
イグニスの口元がわずかに歪む。ギャンブラーの笑みだ。
「よし、行くぞ!」
矢が放たれる。途中で三つに分裂し、不規則な軌道でグラージャを包囲する。
紅黒の魔弾が迎撃に動き、爆ぜる光が回廊を染めた。
「今だ!」
エリスが防壁を前へ押し出し、クロスの突撃路を切り開く。
「天雷断罪ッ!!」
稲妻を纏った斬撃が、一直線にグラージャの首筋を狙う…だが、寸前で滑るように退かれ、刃は空を切った。
「……くそっ!」
その瞬間、クロスの刀身が淡く揺らめく。外れたはずの軌跡が空間に焼き付き、蜃気楼のように形を保つ。
「なっ……何だ、この視界……っ!」
グラージャの瞳がわずかに泳ぐ。避けたはずの刃が、別角度から迫ってくる――幻か、いや、現実か。
実体と幻が入れ替わるように、残像が胸元を断ち割った。
「ぐっ……ぁ……!」
黒薔薇の花弁のような魔力が四散し、グラージャが膝をつく。
イグニスは弓を下ろし、肩で息をしながらも、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……やっぱりな。何が起きたかは知らねぇが……あの刀には賭ける価値があると思ったぜ」
クロスは黙って刀を納める。
グラージャは、唇が震え、血と魔力が混ざった息を吐きながら、ゆっくりと瞳を閉じかける…だが、その奥にはなお、炎のような怨念が燃えていた。
(……我は……何を憎み……何を求め……ここまで来たのか……)
遠い昔ーーグラージャを形成した「負の感情」の中で、核となった恨みの記憶。
愛する者を奪われ、村を焼かれ、理不尽な力に踏み潰されたあの日。泣き叫ぶ声すら届かぬ空の下、彼女はただ誓った。
(すべてを……恨む……)
時は流れ、怨嗟は「怨恨の黒薔薇」に形を変え、腐り、深まり、やがて彼女自身をも喰らった。
百年、また百年……人も国も世代ごと消え去る中で、憎しみだけが彼女を繋ぎとめていた。
誰も覚えていない理不尽を、彼女だけが覚えていた。
「……これで……終わると……思うな……」
かすれた声が響く。
その身を覆う紅黒の魔力が、突然濃く、重く、そして冷たく変質した。
「怨薔華葬……」
爆ぜるように魔力が開花する。
無数の黒薔薇が虚空から咲き誇り、クロス、エリス、イグニスの足元から一斉に茨が絡みつく。
「――なっ!?」
クロスが刀を振り抜こうとするが、茨の棘が瞬時に手首を貫き、力が抜ける。
「う、く……魔力が……!」
エリスの結界が音を立てて砕け、足元から血と力が吸われていく。
「クソッ……タダじゃ死なねえかッ!」
イグニスが弓を引こうとするが、肩から胸にかけて茨が締め上げ、息が詰まった。
棘は皮膚を裂き、血と魔力を吸い上げる。視界が白く霞み、呼吸すら奪われ、膝が床に沈んだ。
「……我と共に……堕ちろ……」
茨の締め付けがさらに強まり、三人の体から力が完全に抜ける。
稲妻を纏った刀も、弓も、錫杖も、すべて床に転がり、響くのは血の滴る音だけだった。
グラージャは満足とも哀れともつかぬ笑みを浮かべ、その体が黒い塵へと崩れ、最後に一片の花弁だけが残り、虚空へと消えた。
静寂。
勝利のはずだった戦場に、意識を失い倒れる三人だけが取り残された――。
【奈落 第十層 神殿エリア 別区画】
空気が微かに震えた。
その揺らぎを、シャスエティは見逃さなかった。
「……グラージャも、やられた?」
同時に、別の事実も察知する。黒薔薇と交戦していた冒険者三名の気配が、一斉に薄れた。
「……チャンスではある」
目の前には四人の冒険者。ここで倒せば奈落側の勝利もあり得る。だが…胸の奥に、小さなざわめきが生まれる。
(……こいつらは間違いなく、過去最強の冒険者だ…俺一人で勝てるのか……?)
シャスエティは慎重だった。
勝機が見えても、それが罠かもしれない可能性を捨てきれない。無理に仕掛けて戦力を失うわけにはいかなかった。
短く息を吐く。
「……仕方ない。最後の手段だ」
背を向ける。その瞬間――
「逃がすかァァッ!!」
怒号と共に、ジャンが疾駆する。アストラル=レヴァントが床を削り、火花を散らす。
「止まれ、セイント・ジェイルっ……!」
マチルダの鎖鎌が空を裂き、シャスエティの背へ伸びる。
しかし鎖が届く直前、シャスエティの姿がふっと掻き消えた。残ったのは、薄い魔力の残滓と、遠く響く足音だけ。
神殿エリアの最奥――封じられた何かが眠る場所へ。
静寂の中、その足音だけが硬く響いていった。
ボスモンスター紹介 No.13
【不安のシャスエティ】
力比べをすればアンガレドに遠く及ばず、
魔力の純粋な規模ではグラージャに劣り、
速度を競えばジェラシアに一瞬で置き去りにされ、
しぶとさではヘティリドに到底敵わない。
さらに狡猾さの面でも、ペシミスティに後塵を拝する。
単純な戦闘力の序列で言えば、彼は六大将の中で最下位。
だが、シャスエティの本質はそこではない。
彼が司るのは“不安”――
その性質ゆえ、無謀を犯さず、決して致命的な失策をしない。
相手の思考を読み、最悪の事態を常に想定し、撤退すべき場面では必ず退く。
生き延び、また戦場に戻る。
その積み重ねこそが、彼を何度も奈落側の勝利へ導いてきた。
「戦いにおいて、ミスをしない者こそ最も恐ろしい」
そう語る者もいる。
ゆえにシャスエティは、数値的な強さでは最下位でありながら、実質的には“奈落六大将最強”の存在である。




