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奈落の果ての冒険譚  作者: 黒瀬雷牙
第四章 血と鉄の城塞編

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悲しみのペシミスティ

 地下へ、さらに地下へ。崩れかけた回廊を抜けた先、奈落第四層の奥地。湖の遺構。


 水の匂い。石の染み。あらゆるものが沈んだような、静かすぎる空間に、緊張が走る。


「……空気が違う。気を抜くな」


 ムラサメが小声で言った直後、足元に広がる水たまりが静かに震えた。


 水面が、笑った。


 その瞬間――空気がねじれた。


「幻術!? いや、これは……!」


 周囲の冒険者たちが突然、互いに剣を抜いた。


「おい、やめろ! 俺だ、仲間だッ!」


「偽物が喋るな!」


 錯乱。混乱。幻影と現実の境界が消える。


「全員、私の近くに集まってください!」


 マーテルが叫び、地を穿ち結界を張る。だが、それで守れるのはわずか数人だけだった。


 悲鳴が上がる。剣が、仲間の盾を貫く音が響く。


 そのただ中、ムラサメの瞳だけが、まっすぐ一人の存在を見据えていた。波打つ水面の中央。蒼白の長髪、冷ややかな笑みを浮かべた人魚が、まるで歌うように囁いた。


「老けたわね、ムラサメ。今度は逃さないわよ」


 その声に、ムラサメの表情が険しくなる。


「…十八年ぶりだな、悲しみのペシミスティ」


 薄く笑ったその唇から、血のように赤い魔法陣が零れ落ちる。


「来なさい。あの時の続きを、してあげる」


 ペシミスティ。奈落六大将のひとりにして、幻術と水魔法の支配者。戦場の感情を乱し、心を狂わせる”悲哀”の化身。


 彼女の前に、ムラサメは一人、剣を抜いた。

 それは愛刀の朧影ではなく、もう一振りの呪われた刀…


 妖刀・新月。


 仲間たちが互いを見失い、結界の中に閉じこもる中、誰もが知る――あの最強の斥候だけが、静かに前に出た。


「幻を見せる暇があるなら、今度こそ本物の痛みを味わわせてやる」


「ふふっ。貴方が守ろうとするものは、すべて私が壊してあげる」


 そして、水が裂けた。


 ムラサメとペシミスティ。十八年越しの因縁が、今、奈落の奥底で再び交わる。


 蒼い霧が立ち込める。水の波紋が、空間そのものを歪ませる。


 ペシミスティの幻術は、見る者の精神を蝕み、現実さえもねじ曲げる。だが、ムラサメの一撃は、常にそこに届いた。


 刀閃。鮮烈な三撃目が水の障壁を断ち、ペシミスティの頬に一筋の血を刻む。


「……おかしいわね。あなた、昔はもっと優しかった」


「優しさでは、お前を斬れない」


 妖刀・新月が低く呻く。刃から滴るのは水ではなく、赤黒い瘴気。命を喰らい、力と引き換えに生命を失わせる呪われた刃。


 それを振るう覚悟は、ムラサメにはとうの昔に備わっていた。


霞剣連舞(かけろれんぶ)


 霧のような斬撃が、連なる月影のごとく襲いかかる。ペシミスティは水鏡を跳ね、霧と一体化するように回避を重ねたが、その身体は既に幾度も裂かれていた。


「……おかしいわね……どうして、ここまで斬れるの?」


「斬れない理由が、もうどこにも残っていないからだ」


 水魔法も幻術も、感情の読み合いも、ムラサメには通じなくなっていた。いや、通じなくなったのではない。通じても、斬ることを選んでいた。


 ペシミスティは悟る。今のムラサメには、情も過去も、幻も効かない。――だからこそ、使った。


 最後の切り札。


「……それでも、あの時の罪からは逃れられないわよ?」


 水面が逆巻く。闇が裂ける。


 そして、現れたのは――


「……ジーク」


 ムラサメの足が、一瞬だけ止まった。


 そこに立っていたのは、十八年前に死んだはずの親友。ムラサメを庇い、命を落とした男。あの頃と変わらぬ微笑で、彼は言う。


「久しぶりだな、ムラサメ。……お前が無事で良かった」


 マーテルが叫ぶ。


「ムラサメさん、目を逸らしては……!」


 言われずとも、ムラサメは目を逸らさなかった。彼は、真正面からその幻を見た。


「……ジークはそんな風に、立ったまま笑わねぇよ」


 次の瞬間、妖刀・新月が雷鳴のように唸りを上げ、ムラサメは一切の躊躇なくその幻影を両断した。


「さようならだ、“贋物”」


 斬られた幻影は、血ではなく涙を流して崩れ落ちた。


 ……それは、幻であるはずの存在の、血のような“悲しみ”だった。ペシミスティが震える。その眼に、はじめて恐怖が浮かんだ。


「まさか……斬れるの、ね。心ごと……!」


 ムラサメの肩から赤黒い光が噴き上がる。妖刀・新月が、主の怒りと哀しみを喰らい、さらに研ぎ澄まされていく。


「お前がジークの顔を借りたこと……それが、最後の手だったな」


「やめ――っ」


「遅ぇよ」


 ムラサメの背後に、ただ一閃。音が置いていかれたような沈黙のあと、風が裂けた。


月牙斬(げつがざん)


 次の瞬間、ペシミスティの身体が、正確に、完全に両断された。その残滓が水面に落ちるより早く、ムラサメは背を向けていた。血飛沫を背に、立ち尽くす斥候の背中には、誰よりも重い“喪失”が刻まれていた。


 こうして、奈落六大将のひとり《悲しみのペシミスティ》は、ついに沈黙した。


 静まり返った奈落の湖に、冒険者たちの駆けつける足音が響いたのは、まさにその瞬間だった。


 水を跳ね、傷だらけの戦士たちが結界の残響を抜けて辿り着いた先で、彼らはただ一人の男が、すべてを終わらせた瞬間を目撃した。


 ペシミスティの身体は、確かに真っ二つに両断されていた。奈落六大将の一角。何百年と討伐されることのなかった悲しみの化身は、ここに滅びた。


「……倒した、のか?」


 誰かが呟き、誰かが膝をつき、誰かが泣き崩れた。


 マーテルが、結界を解除して駆け寄る。


「……勝った……勝ったのよ……!」


 冒険者たちの誰もが満身創痍だった。

 ペシミスティの幻術に翻弄され、同士討ちすら起こった戦場の末、残った仲間たちは、わずか数十名。


 百人以上いた第四層攻略隊のうち、五十数名がこの層で命を落とした。

 名も知れぬ若者、名高い猛者、未来を誓った者。失われた命は、重く、深い。


 だが、その全ての犠牲に意味を持たせたのが、今この地に立つ―ムラサメだった。


「……ムラサメさん、貴方が……」


「……やった……! 本当に、六大将を……!」


 次々と集まってくる仲間たちの歓声。

 剣を天に掲げ、歓喜する者。

 その場に崩れ落ち、涙をこぼす者。

 仲間の亡骸に、黙って手を合わせる者。


 それぞれの「勝利の形」が、そこにはあった。


 やがて、一行は魔法陣を経て、地上、サンライズシティへと帰還する。


 夜明け前の空に、鐘が鳴り響いた。


 《奈落六大将、その一体を討伐》

 幾百年もの間、誰一人届かなかった頂へ。

 冒険者史上初の、偉業だった。

ボスモンスター紹介 No.4

【悲しみのペシミスティ】

悠久の奈落を守護する六大将の一角。湖の遺構に潜む、蒼白の髪を持つ妖艶な人魚。

その真価は膨大な魔力量や水術だけでなく、戦場全体を幻で包む“感情操作”にある。

感情に波紋を立て、敵味方の区別を曖昧にする術は、ただの幻術ではなく、記憶すら揺さぶる精神干渉型。錯乱・同士討ち・自己崩壊を誘発させ、幾多の冒険者が彼女に斬られたのではなく自滅していった。

特に彼女の代名詞たる大技《深層幻視》は、対象者の最も愛したもの、最も憎んだもの、最も悔いたものを具現化し、感情の臨界を突く。

十八年前、奈落の底でムラサメと交戦した因縁の相手でもある。

当時は水中からの奇襲によって勝利したが、再戦ではムラサメの成長と執念の前に圧倒された。

ジークの幻を再現し、ムラサメの精神を折ろうとするも、逆に怒髪天の覚醒を招き、最期は妖刀・新月の一閃によって完全に両断される。

戦術家であり、精神干渉においては六大将随一の才能を持っていたが、ただ一人、“心を切り捨てた剣士”には通じなかった。

彼女の敗北は、奈落の崩壊の前兆とも言える、大きな亀裂の始まりである。

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