誰かの背中を預かるということ
薄明かりの中、五つの足音が、ひたひたと響いていた。
ここは第三層、《迷宮エリア》。
構造は無数の分岐と罠、そして視覚を狂わせる瘴気の霧で覆われている。
視界が狭まり、音は吸い込まれるように消える。沈黙が、五人を包む。
マリーは先頭を歩きながら、ゆっくりと祈りを唱えた。淡い金色の光が彼女の足元に灯り、罠を感知する魔法陣が浮かび上がる。
メイスを構えた腕はまっすぐだが、その額には小さな汗が滲んでいた。
「……ここの罠、以前来た時よりも数が増えとる。誰かが仕掛け直したわけじゃなさそうやけど……自然増殖、ってやつ?」
「それは充分、ありえる」
エリスが呟いた。彼女は後方で地図と手記を照らし合わせながら、周囲の霧を分析している。
「迷宮が生きてるって説がある。内部構造そのものが、意志を持って変化していると考える方が自然」
クロスが肩越しに振り返った。
「つまり、こっちの動きに対抗してきてるってことか?」
「ええ。前回は退いて正解だったかもね。私たちのことを、ちゃんと見てる気がするから」
その言葉に、フローレンスの眉がわずかに動く。
「見られてる…か。嫌な感じですね。影の中に目があるみたい」
ジャンは皆のやりとりを聞きながら、最後尾で周囲を警戒していた。彼の斧は、かつてよりも静かに構えられている。だが今は、ジャンの内面よりも、他の四人の顔がよく見えていた。
仲間たちが歩を進める背中。エリスは情報を探り、マリーは罠に備え、フローレンスとクロスは最前線を守っている。
(……そうだ。俺は、みんなと一緒にいる)
彼は一人で走らず、焦らず、歩幅を仲間たちと揃えた。
そのとき――空気が凍りついた。
「止まって!」
フローレンスの鋭い声に、全員が即座に身構える。
通路の先。霧が収束し、闇の塊が地を這うように出現する。
ねじれた獣の影。異形の四肢。
そして、その中心で脈動する、瘴気の核。
「……レコルダン」
エリスが低く呟いた。
マリーが息をのむ。
「前に、一撃も入れられんかったやつや……」
瘴気を振りまきながら、影の獣は蠢く。まるで彼らを嘲笑うかのように、足元から黒い触腕を延ばしてくる。
だが今回は、誰も退かない。クロスが剣を抜き、フローレンスが剣先を下げて重心を落とす。
「同じ手は食わない…引かずに、やるぞ」
「全員で、だな」
ジャンも頷いた。斧を静かに構え直す。
その瞬間、レコルダンの目が赤黒く輝いた。
レコルダンの咆哮が迷宮を揺らす。
黒き霧が膨れ上がり、通路という通路を塞ぐように触腕がのたうち回る。瘴気の渦。その中心で、レコルダンは明確な意思を宿していた。まるでクロス達を試しているかのように…
「距離を取って!」
フローレンスが叫ぶや否や、彼女は身を翻しながら斬撃を叩き込む。だが、触腕は霧のように形を変え、剣をすり抜ける。
「物理が効きにくい……!」
「後退!私が瘴気を切る…ウィンドスラッシュ!」
風の斬撃が瘴気に染まる触腕を吹き飛ばした。
「エリス、ナイスだ!」
「今のうちに!クロス、左から行くよ!」
フローレンスとクロスが一瞬の隙を突いて斬りかかる。鋼の刃が深々とレコルダンの体躯を裂く……はずだった。
「ちっ……弾かれた!?」
触れた瞬間、金属が鳴いた。肉ではない。レコルダンの身体は影を重ねた殻のように、堅牢な結界で覆われていた。
「やはり……この核、瘴気を媒介に自己強化してるわね!」
エリスが奥から声を張る。魔導計測器の針が狂ったように回っていた。
「瘴気を吸って、どんどん再生してる!長引くほど、こっちが不利よ!」
「となると……核を断ち切るしかないってことか」
ジャンは斧を握り直した。
仲間たちは皆、ベストを尽くしている。マリーの祈りは結界を支え、クロスとフローレンスが前線を保ち、エリスが道を切り開く。
だが、その核へ至る道だけは、まだ誰も開けていない。
「……俺が、行く」
ジャンが一歩、前に出た。
「ジャンさん?」
「瘴気の核を断つには、真正面から斬り込むしかない。それなら、俺の出番だ」
マリーが手を伸ばす。
「でも、無茶や!あんたの斧、あの殻には……」
ジャンは静かに笑った。
「やってみなきゃ、分からないだろ?」
レコルダンが咆哮を放つ。黒い触腕が迫る。
ジャンはそれを見据え、斧を構えた。
……だが、その瞬間――
彼の脳裏に、静かな記憶の声が、蘇る。
ーーーー
「お前に、この技を教える日が来るとはな……」
祖父・エルドの声。木漏れ日の差す縁側、鍛錬のあと、彼は静かにジャンの斧を手に取っていた。
「覇刃……俺の唯一の奥義だ。斧の重さを殺さず、斬撃へ変える。強さじゃなく、覚悟で振るう刃だ」
「覚悟、で?」
「そうだ。これは、誰かを守ると決めた時にしか撃てない。自分のためには使えない技なんだ。……だからこそ、俺は使うたびに斧使いでよかったと…この技を編み出した、アレクシオ様を目指して良かったと思えた」
エルドの瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「いつか、お前にもそんな時が来るかもしれん。そしたら、迷うな。誰かを守りたいと願ったその想いを、そのまま刃に乗せろ。それが、お前の覇刃になる」
ーーーー
「……じいちゃん」
ジャンの目に、熱が宿る。
自分の力じゃ足りない。けれど、仲間たちがいる。彼らのために、自分が踏み込む意味がある。
ならば――
ジャンが駆けた。
瘴気が彼を喰らおうと蠢く。だが、斧が光を纏いはじめる。マリーが祈りを強め、エリスが魔法で空間を押し広げる。クロスとフローレンスが左右から敵の動きを止める。
そのすべてが、ジャンの一撃へと収束する。
「覇刃ッ!!」
渾身の一閃。
斧の軌道は、迷いなく一直線に、レコルダンの核を貫いた。黒き瘴気が、逆巻くように砕ける。影の殻が割れ、内なる光が砕け散るように消滅する。
レコルダンは、叫ぶ間もなく崩れ落ちた。
静寂が、迷宮に戻る。
ジャンは、崩れ落ちた膝を支えながら立ち上がる。
仲間たちが駆け寄ってくる。
「……やった……!」
マリーの声に、クロスがうなずいた。
「今の一撃……やべぇな。必殺技だったぞ」
エリスが囁くように言った。
「覇刃…記録書に残る、アルバトロス家の真の奥義」
ジャンは一言、静かに呟いた。
「……ありがとう、じいちゃん」
迷宮の闇の奥。そこには、まだ未踏の影が広がっている。だが、いま彼らは五人で立っていた。
誰かの背中を預け、預けられる仲間として。
キャラクター紹介 No.22
【ギルバート=アルバトロス】
ジャンの父にして、かつて怪力無双と恐れられた冒険者。巨人族すら振るえぬ大斧を使いこなし、純粋な膂力と技で数々の魔物を屠ってきた。
奈落深層では怒りのアンガレドと拳でぶつかり合い、最期は戦死。その死はギルド内でも語り草となっている。
ジャンが父を知ったのは、祖父エルドと母の語る断片だけ。だが、その覚悟と戦い方は、今もジャンの中に息づいている。




