青年は、英雄へと歩き出す
朝霧がまだ街を包むころ、ジャンはひとり、エリス達が経営するマギアドラッグへと向かっていた。
手の中には、小さなガラス瓶。わずかに残る「百薬の水」が、淡い青白い光を灯している。
ジャンは薬屋としてのエリスの活動を知っていた。奈落病に効く薬の開発を目指していることも。そのために、彼女が自ら奈落に潜っていたことも。
扉をノックすると、中からエリスが現れた。
「あら脳筋くん……?こんな朝早くに、どうしたの?」
ミリスも奥から顔を出す。その頬にはまだ疲れの色が残っていたが、目元には確かな光があった。
「……あの時、俺は何もできなかった。でも……少しだけ、渡せるものがある」
そう言って、ジャンは手の中の小瓶を差し出した。残っているのは、ほんの数滴。それでも、伝説の霊薬と呼ばれる命の水だ。
「百薬の水……!」
エリスは目を見開いた。ミリスも思わず前に出る。
ジャンは、先日、アルガードがマロンを救うために動いてくれた事と、その結末をふたりに語った。そして最後に、こう続けた。
「少しだけ残ったから。エリスとミリスちゃんが、どれほどそれを必要としてたか…俺は知ってる。きっと、その努力は報われるべきだって思った」
エリスはしばらく言葉を失っていたが、やがてそっと小瓶を受け取った。
「……ありがとう、ジャン。これは、大切に使う」
「必ず、意味のある使い方をします。私たちも……まだ、諦めていませんから」
ジャンは小さくうなずき、軽く頭を下げて研究舎をあとにした。
【その夕刻 アルバトロス家 縁側】
陽が傾き、柔らかな光が縁側を包んでいた。ジャンは祖父・エルドと並んで腰かけ、虫の声が遠くから聞こえてくる中、静かに語り始めた。
「……俺、アルガードさんみたいな冒険者になりたいんだ。誰かのために命を懸けて戦える、そんな人に」
エルドは目を細めて空を仰ぎ、しばらくの沈黙のあと、懐かしむように語り出した。
「そうか。……昔の俺も、同じだったよ。若い頃、アレクシオ=リオンドールという英雄に憧れていた。彼の後ろ姿を追い続けて、いつか肩を並べたいと願っていた」
「アレクシオ……?」
「ああ。斧勇者として知られていた俺の師だ。ようやく旅の仲間に入れてもらったと思ったら……彼らは第九層へと向かい、そのまま戻ってこなかった」
エルドの声は穏やかだったが、その言葉には深い想いが滲んでいた。
「俺は行けなかった。その時、病に伏していたから。でも、戻ってくると信じて、ずっとサンライズで待っていた。……けれど、時間だけが過ぎていった」
ジャンは静かに、エルドの横顔を見つめた。
「それでも、待ち続けたんだね」
「そうだ。……でも、やがて気づいたんだ。帰りを待つことと、その志を継ぐことは違う。誰かを超えたいと思うなら、自分の道を歩まなくてはならない」
そして、エルドは微笑んだ。
「お前がアルガードを目指すのなら、それは素晴らしいことだ。だが、同時に……お前自身の冒険を見つけることも、忘れるなよ」
「……うん。ありがとう、じいちゃん」
【数日後 サンライズシティ 教会】
青空の下、白い花に囲まれた教会で、ひとつの別れが静かに行われていた。
棺の中には、エルド=アルバトロス。斧勇者に憧れ、自らも斧使いとなり、数々の冒険を生き抜いた男は、今はただ静かに眠っていた。その顔は、まるで少年のように穏やかで、笑っているようにも見えた。
ジャンとマロンは、並んで祈りを捧げていた。マロンの表情は明るくなり、かつての生気を取り戻していた。
「……ありがとう、じいちゃん」
ジャンはそっと棺に手を置き、心の中で呟いた。
「俺、必ず冒険者として立派になるよ。アルガードさんみたいに。……そしていつか、あの人や、じいちゃんが憧れたアレクシオさんを超えてみせる」
棺に差し込む柔らかな陽の光が、エルドの顔を静かに照らしていた。
その表情はどこまでも穏やかで、まるで「よくやった」と語りかけているかのようだった。
【数日後 サンライズシティ 冒険者ギルド】
ギルドのホールは、いつもの喧噪に包まれていた。
冒険者たちが出入りし、掲示板の前では新しいクエストに目を輝かせる者たちの声が飛び交う。
その賑わいの中、扉が静かに開いた。
「……ジャンさん?」
最初に気づいたのはマリーだった。目を丸くし、手にしていたカップを置く。
クロス、フローレンス、エリスも顔を上げ、一斉にジャンの姿を見た。
確かにそこに立っていたのは、彼らの知るジャンだった。だが、その雰囲気はどこか違っていた。
落ち着いた足取り、真っ直ぐな目。無理に背伸びしているのではなく、内側から変わった“何か”が、彼を一回り大きく見せていた。
「久しぶりだな、みんな」
ジャンは穏やかに笑った。それは、かつての少年のあどけなさではなく、静かな決意をたたえた大人の微笑みだった。
「おまえ……雰囲気、変わったな」
クロスが腕を組みながら、ゆっくり言う。
「……なんやろ、顔つきがキリッとしとる。前はもうちょい、こう……バカ正直に突っ込んできとったのに」
マリーが驚いたように言った。だがその目は、どこか嬉しそうに細められていた。
そこへ、エリスが肩をすくめて口を開く。
「ふーん。なるほどねぇ……これは完全に、“背中で語る系男子”デビューだわ」
「え、なにそれ」
エリスが無邪気に笑うと、周囲からも小さな笑い声が漏れた。フローレンスも頷きながら一歩前に出た。
「次の遠征、少し難しいルート選んでも大丈夫そうね。今のジャンさんとなら、ちゃんと最後まで辿り着けると思います」
ジャンは一つずつ、皆の顔を見て、はっきりと頷いた。
「……ありがとう。今度はもう、迷わない。誰かのために、本気で戦える自分でいたいって、そう思ったんだ」
その言葉に、しばし誰も何も言わなかった。だが次の瞬間、クロスがふっと笑ってジャンの肩を軽く叩く。
「だったら、安心だな。おかえり、ジャン」
「うん。ちゃんと戻ってきてくれて、よかったわ」
「……ホンマや。これでまた、うちらのチームも万全やね」
マリーの言葉に、ジャンは照れたように笑った。
「……みんな、本当にありがとう。また、ここから始めたい」
新しい決意を胸に、ジャンは再び仲間たちと肩を並べた。
彼の眼差しは、もう少年ではない。それは守る者を得て、失う悲しみを知り、乗り越えた者だけが宿す強さだった。
こうして、ジャンの“本当の冒険”が、また一歩、動き出す。
キャラクター紹介 No.21
【アレクシオ=リオンドール】
かつて奈落を制覇すべく挑み続けた、伝説の冒険者。
その名は今もなお、冒険者たちの間で語り継がれている。
屈強な肉体と圧倒的な戦闘力を持ちつつも、仲間を守るために誰よりも盾となる、不器用で真っ直ぐな英雄だった。
若き日のエルド=アルバトロスにとっては憧れであり、目標であり、そして一時の旅の仲間でもあった。
その実力は当時でも第八層のボスモンスターを正面から斧でねじ伏せた男として知られ、戦場では”雷神の影”とまで呼ばれていた。
しかし数十年前、第九層へ向かった遠征の途中、仲間たちと共に消息を絶つ。
当時、彼らの帰還を信じる者は多く、サンライズシティでは“失われた英雄たち”として記念碑が建てられている。
【お知らせ】
今回登場した、ジャンの祖父 エルド=アルバトロスの若き日の物語を描いた短編――
『アレクシオ=リオンドール 〜陽は落ちても、灯は残る〜』
を、本編とあわせて同時公開しました!
冒険者として知られる彼の青春、
そして、彼が生涯憧れ続けた英雄 アレクシオとの出会いと別れ。本編では語られなかった、“もう一つの英雄譚”が、ここにあります。
かつて志を抱いた若者が、年老いてなおその火を灯し続けた理由。
ジャンへと受け継がれた想いの原点を、どうかご覧ください。




