氷を砕く光
【奈落 第七層 最奥中継地点】
沈んだ空間に、アルガードの足音が淡々と響く。冷たく重い空気が、まるで第八層そのものが「来るな」と警告しているかのようだった。
彼の背後に、ふいに乾いた声が落ちた。
「おいおい、英雄様。……1人で格好つけすぎじゃないか?」
振り返ると、そこにいたのは漆黒の外套を羽織った長身の男。背中に負った大太刀は、鞘に収まっていてもただ者ではない存在感を放っている。
ムラサメ。伝説の冒険者。
アルガードはわずかに目を見開き、すぐに姿勢を正した。
「……ムラサメさん。どうして、ここに?」
「そりゃあ、お前さんの背中が俺が全部背負うって叫んでたからさ。見てられなかっただけだ。……まあ、気まぐれってやつだな」
ムラサメはにやりと笑い、肩の朧影に手をやる。
「……恐縮です。ですが、これは私の個人的な任務でして……」
「そんなもん知ったこっちゃねぇ。黙って1人でカッコつけるってのは、若さゆえの罪ってやつだ。……ま、手伝ってやるよ」
一瞬の沈黙ののち、アルガードは深く頭を下げた。
「……光栄です。よろしくお願いいたします」
【奈落 第八層 雪原エリア】
空気が変わる。張りつめた冷気と、肌を刺すほどの圧。第八層に足を踏み入れた瞬間、魔力濃度が一気に跳ね上がり、霧と共に氷の瘴気があたりを包む。
突如、複数の魔獣が現れる。フロストファングの群れ。
「……来ます!」
アルガードが盾を構えた刹那、横を駆ける影があった。
「下がってろ。こっちは遊び足りてねぇんだ」
ムラサメの一閃。朧月
夜の月光のような軌跡を描き、刃が魔獣たちを吹き飛ばす。氷が割れ、鮮血が霧に溶けていく。
アルガードが思わず息を呑むほどの、異次元の剣技。それは、噂でも伝説でもなく、まさに本物だった。
「……すさまじい……」
「ぼさっとしてんじゃねぇぞ、英雄。次が来るぞ」
その言葉の直後、地を揺るがす咆哮が響く。
霧の向こうから現れたのは、氷の竜。
透き通る蒼氷の鱗、凍てつく息、そして周囲の魔力を凍結させるような圧倒的存在感。第八層でもめったに出会えないレアモンスターだ。
「これは……私がやります!」
「ほう。見せてもらおうか、君の力を」
アルガードは盾を地に突き、詠唱を始める。地面に白金の魔法陣が展開され、光が収束していく。
「――聖槍絶光輪!」
天へと伸びる光輪が形成され、巨大な白金の槍となって氷竜を貫いた。轟音とともに、氷の龍が雄叫びを上げ、霧の奥へと崩れ落ちていく。
やがて、静寂が戻った空間に、ポタリ……と透き通った蒼い液体が落ちる音が響く。
それは氷竜の血液――百薬の水。伝説の霊薬。
アルガードはそれを小瓶に封じながら、静かに呟いた。
「……ジャン、君の妹は助かる。きっと……」
ムラサメが近づき、視線を向ける。
「立派なもんだ。あとは帰るだけ、だな?」
「……はい。本当に、ありがとうございました。ムラサメさんがいなければ、ここまで辿り着けなかった」
「礼なら、帰ってから言え。お前の本当の仕事は、ここからだろう?」
アルガードは深く頷くと、小瓶を握りしめて立ち上がった。
ムラサメは歩きながら、ぽつりと呟く。
「……命を賭ける願い、か。昔の自分を思い出すな……」
奈落の霧の中、二人の男の背が、静かに遠ざかっていく。
【サンライズシティ ジャンの家】
ジャンはベンチに腰をかけ、包帯の巻かれた腕をぼんやり見つめていた。室内には、薬草の香りと、かすかに血の匂いが漂っている。
ベッドの上では、マロンが浅く息をしていた。顔色は悪く、唇には血の気がない。
医師は「持ってあと数日」と言った。それでも、ジャンは諦められなかった。
「……何もできないんじゃ、俺は……」
唇を噛みしめたそのとき、扉が静かに開いた。
入ってきたのは、アルガード。
「ジャン」
その名を呼ばれた瞬間、ジャンは目を見開いた。
「……アルガードさん……!」
アルガードはゆっくりと歩み寄り、手にした小瓶を差し出す。中には、淡い青白さを帯びた、澄んだ液体が揺れていた。
「……百薬の水だ。予定より早く戻れたのは、ムラサメさんが協力してくださったからだ」
「ムラサメさんが…!? 」
ジャンはその言葉に言葉を失いながらも、小瓶を両手で受け取る。
「本当に……ありがとうございます。なんてお礼を言えば……!」
震える手で、ジャンはマロンの唇に百薬の水を垂らした。一滴、二滴。途端に、マロンの喉がわずかに動き、浅い呼吸が深く変わる。目を閉じたままの顔に、ゆっくりと赤みが差していく。
「……っ、あっ……」
やがて、マロンのまぶたが開いた。大きな、澄んだ瞳がゆっくりと光を宿す。
「…兄…貴……?」
「マロン……!」
ジャンはベッドに身を乗り出し、妹の手を握った。
「大丈夫か!? 苦しくないか!? どこか痛むところは……!」
「ううん……だいじょうぶ……なんかね……おなか、すいた……かも……」
その言葉に、ジャンの頬を一筋の涙が伝う。アルガードは、静かに視線を落とし、息をついた。
「……本当に……本当にありがとうございます……!」
【その夜】
ジャンは、家の外で夜風に当たっていた。横に立つアルガードが、月を見上げながら問いかける。
「妹さんの容態は、もう安定したようだな」
「はい……さっき、お粥を食べて眠りました。信じられないくらい、元気になって……」
ジャンは空を見上げたまま、静かに言葉を続けた。
「アルガードさん。……俺、これまでずっと、マロンを助けるためにだけ生きてきました。奈落に潜ったのも、全部そのためでした」
「……」
「でも今日、アルガードさんの背中を見て……思ったんです」
ジャンの声に、迷いはなかった。
「俺も……誰かのために戦える人間になりたいです。苦しんでる人を、見て見ぬふりしない英雄に。……アルガードさんみたいな、誇れる冒険者に、なりたいんです」
アルガードは一瞬目を見開き、すぐに微笑を浮かべて、静かに頷いた。
「ジャンなら、きっとなれる」
夜風がふたりのマントを揺らした。
“妹を救うための旅”は、ひとつの終わりを迎え――
ジャンの“新たな旅”が、ここから始まる。
キャラクター紹介 No.20
【エルド=アルバトロス】
ジャンの祖父。百薬の水の存在を最初に教えた人物であり、伝説の冒険者ギルバートの父親でもある。
若き日には、伝説の斧勇者・アレクシオ=リオンドールの護衛として奈落に挑み、最高到達層は第八層まで到達した。その際、人類史上初めて百薬の水を持ち帰ったパーティのメンバー。
エルドの経験と足跡は、ジャンの今の戦いの礎となっている。




