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奈落の果ての冒険譚  作者: 黒瀬雷牙
第三章 奈落の大迷宮編

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氷を砕く光

【奈落 第七層 最奥中継地点】


 沈んだ空間に、アルガードの足音が淡々と響く。冷たく重い空気が、まるで第八層そのものが「来るな」と警告しているかのようだった。


 彼の背後に、ふいに乾いた声が落ちた。


「おいおい、英雄様。……1人で格好つけすぎじゃないか?」


 振り返ると、そこにいたのは漆黒の外套を羽織った長身の男。背中に負った大太刀は、鞘に収まっていてもただ者ではない存在感を放っている。


 ムラサメ。伝説の冒険者。


 アルガードはわずかに目を見開き、すぐに姿勢を正した。


「……ムラサメさん。どうして、ここに?」


「そりゃあ、お前さんの背中が俺が全部背負うって叫んでたからさ。見てられなかっただけだ。……まあ、気まぐれってやつだな」


 ムラサメはにやりと笑い、肩の朧影(おぼろかげ)に手をやる。


「……恐縮です。ですが、これは私の個人的な任務でして……」


「そんなもん知ったこっちゃねぇ。黙って1人でカッコつけるってのは、若さゆえの罪ってやつだ。……ま、手伝ってやるよ」


 一瞬の沈黙ののち、アルガードは深く頭を下げた。


「……光栄です。よろしくお願いいたします」


【奈落 第八層 雪原エリア】


 空気が変わる。張りつめた冷気と、肌を刺すほどの圧。第八層に足を踏み入れた瞬間、魔力濃度が一気に跳ね上がり、霧と共に氷の瘴気があたりを包む。


 突如、複数の魔獣が現れる。フロストファングの群れ。


「……来ます!」


 アルガードが盾を構えた刹那、横を駆ける影があった。


「下がってろ。こっちは遊び足りてねぇんだ」


 ムラサメの一閃。朧月(おぼろづき)


 夜の月光のような軌跡を描き、刃が魔獣たちを吹き飛ばす。氷が割れ、鮮血が霧に溶けていく。


 アルガードが思わず息を呑むほどの、異次元の剣技。それは、噂でも伝説でもなく、まさに()()だった。


「……すさまじい……」


「ぼさっとしてんじゃねぇぞ、英雄。次が来るぞ」


 その言葉の直後、地を揺るがす咆哮が響く。


 霧の向こうから現れたのは、氷のグラシア・エンバークルス


 透き通る蒼氷の鱗、凍てつく息、そして周囲の魔力を凍結させるような圧倒的存在感。第八層でもめったに出会えないレアモンスターだ。


「これは……私がやります!」


「ほう。見せてもらおうか、君の力を」


 アルガードは盾を地に突き、詠唱を始める。地面に白金の魔法陣が展開され、光が収束していく。


「――聖槍絶光輪セイクリッド・ルミナスリング!」


 天へと伸びる光輪が形成され、巨大な白金の槍となって氷竜を貫いた。轟音とともに、氷の龍が雄叫びを上げ、霧の奥へと崩れ落ちていく。


 やがて、静寂が戻った空間に、ポタリ……と透き通った蒼い液体が落ちる音が響く。


 それは氷竜の血液――百薬の水。伝説の霊薬。


 アルガードはそれを小瓶に封じながら、静かに呟いた。


「……ジャン、君の妹は助かる。きっと……」


 ムラサメが近づき、視線を向ける。


「立派なもんだ。あとは帰るだけ、だな?」


「……はい。本当に、ありがとうございました。ムラサメさんがいなければ、ここまで辿り着けなかった」


「礼なら、帰ってから言え。お前の本当の仕事は、ここからだろう?」


 アルガードは深く頷くと、小瓶を握りしめて立ち上がった。


 ムラサメは歩きながら、ぽつりと呟く。


「……命を賭ける願い、か。昔の自分を思い出すな……」


 奈落の霧の中、二人の男の背が、静かに遠ざかっていく。


【サンライズシティ ジャンの家】


 ジャンはベンチに腰をかけ、包帯の巻かれた腕をぼんやり見つめていた。室内には、薬草の香りと、かすかに血の匂いが漂っている。


 ベッドの上では、マロンが浅く息をしていた。顔色は悪く、唇には血の気がない。


 医師は「持ってあと数日」と言った。それでも、ジャンは諦められなかった。


「……何もできないんじゃ、俺は……」


 唇を噛みしめたそのとき、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、アルガード。


「ジャン」


 その名を呼ばれた瞬間、ジャンは目を見開いた。


「……アルガードさん……!」


 アルガードはゆっくりと歩み寄り、手にした小瓶を差し出す。中には、淡い青白さを帯びた、澄んだ液体が揺れていた。


「……百薬の水だ。予定より早く戻れたのは、ムラサメさんが協力してくださったからだ」


「ムラサメさんが…!? 」


 ジャンはその言葉に言葉を失いながらも、小瓶を両手で受け取る。


「本当に……ありがとうございます。なんてお礼を言えば……!」


 震える手で、ジャンはマロンの唇に百薬の水を垂らした。一滴、二滴。途端に、マロンの喉がわずかに動き、浅い呼吸が深く変わる。目を閉じたままの顔に、ゆっくりと赤みが差していく。


「……っ、あっ……」


 やがて、マロンのまぶたが開いた。大きな、澄んだ瞳がゆっくりと光を宿す。


「…兄…貴……?」


「マロン……!」


 ジャンはベッドに身を乗り出し、妹の手を握った。


「大丈夫か!? 苦しくないか!? どこか痛むところは……!」


「ううん……だいじょうぶ……なんかね……おなか、すいた……かも……」


 その言葉に、ジャンの頬を一筋の涙が伝う。アルガードは、静かに視線を落とし、息をついた。


「……本当に……本当にありがとうございます……!」


【その夜】


 ジャンは、家の外で夜風に当たっていた。横に立つアルガードが、月を見上げながら問いかける。


「妹さんの容態は、もう安定したようだな」


「はい……さっき、お粥を食べて眠りました。信じられないくらい、元気になって……」


 ジャンは空を見上げたまま、静かに言葉を続けた。


「アルガードさん。……俺、これまでずっと、マロンを助けるためにだけ生きてきました。奈落に潜ったのも、全部そのためでした」


「……」


「でも今日、アルガードさんの背中を見て……思ったんです」


 ジャンの声に、迷いはなかった。


「俺も……誰かのために戦える人間になりたいです。苦しんでる人を、見て見ぬふりしない英雄に。……アルガードさんみたいな、誇れる冒険者に、なりたいんです」


 アルガードは一瞬目を見開き、すぐに微笑を浮かべて、静かに頷いた。


「ジャンなら、きっとなれる」


 夜風がふたりのマントを揺らした。


 “妹を救うための旅”は、ひとつの終わりを迎え――

 ジャンの“新たな旅”が、ここから始まる。

キャラクター紹介 No.20

【エルド=アルバトロス】

ジャンの祖父。百薬の水の存在を最初に教えた人物であり、伝説の冒険者ギルバートの父親でもある。

若き日には、伝説の斧勇者・アレクシオ=リオンドールの護衛として奈落に挑み、最高到達層は第八層まで到達した。その際、人類史上初めて百薬の水を持ち帰ったパーティのメンバー。

エルドの経験と足跡は、ジャンの今の戦いの礎となっている。

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