命を賭けられる願い
奈落穿ちの《レコルダン》遭遇から二日後。
クロスは自室の窓辺に立ち、剣の手入れをしながら、静かに深呼吸をしていた。昨日、ジャンの母から「打撲と骨のひび、命に別状なし」と報せがあったが、完治にはしばらくかかるという。
「……無茶しやがって」
ふと、指が止まる。あの金色の眼、無音で迫る気配。全身を刺すような恐怖。
レコルダンはただの獣ではなかった。
翌朝、クロスはフローレンス、マリー、エリスと合流し、再び第三層へ挑むべく集合した。ジャンの姿は、当然ながら、ない。
「ジャンさん抜きで行くとか……やっぱり不安やわ。前線では壁にも火力にもなってくれてたし」
マリーが沈んだ声で呟く。
フローレンスはいつも通り無言だったが、腰に差した剣の柄を握る手に、わずかに力がこもっている。
クロスは頷いた。
「でも、今は立ち止まれない。ジャンがいない分、俺たちがしっかり前に出ないと。情報と素材の回収が目的だ、深追いはしない」
「戦闘継続時間も抑えましょう。今回はあくまで探り。本格攻略は、ジャンの復帰を待ってから」
エリスの冷静な指摘に、三人は小さく頷き合う。
聖なる魔法陣を思い浮かべて、四人の姿が奈落へ消える。
【奈落 第三層 迷宮エリア】
探索再開からわずか一時間。迷宮の空気は、先日よりも濃密で重かった。構造変化によって、通路のいくつかは塞がれ、別の道が開いていた。
「くっ……雑魚モンスターの密度、高なってへん……? どんだけおるの……!」
マリーが汗を拭いながら、治癒魔法を何度も使う。だが、その手からすぐさまメイスが振るわれ、目前のモンスターを打ち払う。
その一撃には、明確な「重さ」があった。彼女のメイスは、ただ振るわれるだけでなく、敵の動きを読み、支援と攻撃の両立を意識した間合いを保っている。明らかに、後方に下がっているだけではなく、クロスやフローレンスのすぐ近くで戦線を維持していた。
クロスは前衛を維持しつつ、常に視界の端でフローレンスとマリーを気にしていた。
フローレンスは、いつもより動きが速く、強い。一撃一撃が深く重く、剣筋に迷いがない。だが、明らかに無理をしていた。
背後でエリスが詠唱する支援魔法が、ぎりぎりのタイミングで交差する。
「交代しろ、前線を任せきりにするな!」
クロスが叫ぶが、フローレンスは首を横に振った。
「問題ありません。ジャンの分、私が前に出るだけ」
「それで自分が潰れたら、意味がないんだよ!」
剣と剣が重なり、魔獣の甲殻が砕ける。
そのすぐ横で、マリーが倒れかけたクロスをかばうように、メイスを横薙ぎに振るう。鈍い音を立てて、迫っていた敵の側頭部を砕いた。
「……さっきのは、ちょっと冷や汗もんやったで? 次はうちが押さえる!」
そう言ってマリーは、負傷したクロスの腕に短く治癒魔法をかけると、すぐさま敵に向き直った。攻撃と回復の連携。その切り替えは、もはや戦線の一部を預かる覚悟そのものだった。しかし、それからしばらくして…
「……やっぱ、ダメやな」
マリーが小さく呟く。
「ジャンさんが戦線にいるだけで、こんなに負担が違うんや……今さらやけど、ほんま、うちらの中軸やったんやなぁ」
クロスは、少しだけ笑った。
「ま、あいつが戻ったら調子に乗るだろうな。俺がいねぇとダメだろ?って」
「……その通りだから、否定できないのが悔しい」
エリスがぼそりと呟き、三人は苦笑する。
「今日は、ここまでにしよう。中継地点のマークもしたし、素材も確保できた。撤収しよう」
「異議なし」
【サンライズシティ 夕暮れ】
転移から戻った四人は、短く言葉を交わし、それぞれの自宅へと散っていった。
クロスは帰宅後、静かに机の上の古い地図を広げる。奈落第三層の写し。未知の空間が、まだ数多く残されていた。
歯を食いしばりながら、クロスは小さく呟いた。
「……もう一度、全員で挑もう。絶対に」
【サンライズシティ ジャンの自宅】
窓から差し込む夕陽が、静かな室内を照らしていた。
ジャンは椅子に深く腰掛け、腕に巻かれた包帯を見下ろしていた。痛みはまだ鈍く残っている。だが、それ以上に心を締め付けていたのは、隣室から聞こえてくる、かすかな呼吸音だった。
妹、マロン。小さな咳き込みと、微かに漏れるうめき声。昼夜問わず、彼女の容体は悪化していた。
「くそっ……」
ジャンは立ち上がり、壁に掛けた武具に手を伸ばした。まだ万全じゃない。分かっている。
「……待ってる暇なんて、ねぇんだよ」
彼はそっと寝室の扉を開け、横たわるマロンに目をやる。細くなった腕、やせ細った頬、額には汗。
それでも、彼が覗き込むとマロンはわずかに目を開け、微笑んだ。
「兄貴……帰ってきて、くれたんだ……」
「ああ……ちょっとな」
「また……奈落に行くの?」
言葉が詰まりそうになる。
「……ああ。でも、今度はちゃんと……」
口から出たのは、嘘だった。
ジャンは1人、斧を担いで冒険者ギルドへと向かう。一刻も早く、百薬の水を手に入れなければ、危険な冒険を始めた意味も、仕事を辞めた意味もない。
「君は…ジャン?…その怪我で、どこに行くつもりだ?」
振り返ると、そこにはアルガードの姿があった。
「……あんたかよ。関係ねぇだろ。放っとけ」
ジャンは乱暴に装備袋を肩にかける。だがアルガードは一歩も引かず、真っ直ぐに彼を見つめた。
「手負いのお前が奈落に行くってのは、自殺行為だ。止める」
「っざけんなよ! 俺が行かなきゃ、誰が……っ!」
怒鳴りかけた声が、震える。
「……妹が……マロンが、もう時間ねぇかもしれねぇんだよ……!」
その言葉に、アルガードの表情が変わった。ジャンは拳を握りしめた。
「医者も薬師も、もうお手上げだってさ。だけど……奈落で見つかることのあると言われてる、百薬の水なら、助かる可能性があるって聞いた……」
「……だから、お前は行くつもりだったのか」
「……俺が動かなきゃ……あいつ、もう助からねぇかもしれねぇんだ……」
ジャンの叫びに、アルガードはしばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
「……分かった。俺が行く」
「……は?」
「俺が行く。お前は、妹のそばにいてやれ」
ジャンは目を見開いた。
「いずれにせよ、いまから君がどれだけの快進撃を見せたとしても、百薬の水が手に入ると言われる第八層には数年かかる。だから俺がいく」
そう言い切るアルガードの声に、嘘はなかった。
「時間は三日。できれば二日。命を繋ぐために、俺がやる」
ジャンは息を詰めたまま、その場に立ち尽くしたそして、唇を噛んでうなずいた。
「……すまねぇ、頼む……マロンを……」
「任せろ」
アルガードはそれだけ告げると、振り返り、静かに冒険者ギルドを出た。
まるで迷いのない足取りで、冒険者ギルドへと向かう。
その背に、ジャンはぽつりと呟いた。
「……ありがと、アルガードさん。……ほんと、頼んだぜ」
その頬には一筋の涙が流れていた。
キャラクター紹介 No.19
【マロン=アルバトロス】
ジャンの妹。年齢は十四。
長く病床に伏しているが、弱音を吐くことはほとんどなく、兄の前ではいつも微笑みを浮かべている。痩せた身体に儚げな印象を与えるが、その芯には、兄譲りの頑固さと誇り高さが宿っている。
ジャンが奈落へ挑む理由の一つであり、同時に、彼の人間らしさを最も強く引き出す存在でもある。
マロンのために命を賭けるジャンの行動が、アルガードの心に火を灯したように、彼女の存在は物語全体にも静かに、だが深く影響を与えていく。




