異国の剣聖
とある島国――剣を重んじるこの地で、ムラサメは最後の稽古に臨んでいた。
静かな道場。ムラサメは、一番弟子・月詠と竹刀を交えていた。
張り詰めた空気。互いに一歩も動かず、呼吸だけが交錯する。だが実際は、その静寂の中に激しい読み合いがあった。
一閃。
動いたのは弟子。超高速の斬撃が放たれるも、ムラサメは冷静に捌き、反撃。だがその動きすらも弟子は読んでおり、竹刀で受け止めた。
「……レベルが高すぎる」
「もはや人間じゃないな、あれは……」
弟子たちが見つめる中、戦いは決着を迎える。刹那の交差。勝者はムラサメ。
「よくやった、月詠。お前に免許皆伝を授けよう」
「ありがとうございました、叢雨先生」
ムラサメは流派を月詠に託し、旅立ちを告げる。
「十八年前の決着を、つけに行く」
「……必ず帰ってきてください、先生」
「ふっ、当たり前だ。帰ったら酒を奢れよ」
「……はい! 必ず!」
だが、ムラサメの心に迷いはなかった。
この旅に、帰還の道などない。
彼が向かうのは、サンライズシティ。そして、そこで封印された呪われし妖刀【新月】。
剣の道を極めし者しか触れることを許されぬこの刀は、すべてを切り裂く力を持つ代償に、使う者の命を喰らう業物。
ムラサメは、それを手にする覚悟でいた。
(ジーク……仲間たちよ……待っていてくれ)
斬るべきものは、ただ一つ。十八年前に失ったすべてを、あの奈落で終わらせるために。
ムラサメは、かつて自らが剣を振るったこの島国を後にし、旅立った。向かうはサンライズシティ。奈落が口を開ける、あの終焉の地。
空港の出発ゲート。分厚い黒革の外套に身を包んだムラサメの背には、漆黒の刀が納められている。封印を施した長巻のような木箱に収められたその刀こそが、呪われし妖刀・新月。
通常であれば、刃物の持ち込みなどもってのほか。しかし、その一角だけは別格だった。
「……確認します。搭乗者名、叢雨神威氏。真打《朧影》と妖刀《新月》。封印完了済み……」
空港の警備隊員は額に冷や汗を浮かべながら、確認用の古文書をめくる。隣に控えるのは、国際奈落対策機構の立会人だ。
「伝説の奈落大遠征の生存者であられる彼には、特例が認められています。すべて記録通りです」
係員は深く頭を下げた。
「ようこそ、お戻りくださいました。英雄ムラサメ殿」
「……英雄って柄じゃねえんだがな」
苦笑を浮かべつつ、ムラサメは搭乗ゲートをくぐる。長い歳月の果てに、再び戦場へ向かう瞬間だった。
飛行機は、分厚い雲を超え、大陸を越え、ついにグランドリオン領近くへと達した。
だが、その空域に差しかかった瞬間、機体がわずかに震えた。
「……奈落の瘴気か」
機長の通信が入る。
『ムラサメ様、目的地付近は既に機械系統が不安定です。予定通り、隣国・セントラルユニオン連邦の港湾都市グレイロックへ着陸します』
「構わん。そこからは、俺の足で行く」
窓の外。遥か遠くに、黒く染まった雲が蠢いていた。あれが、奈落。その瘴気は空を蝕み、大地を穢し、あらゆる文明の機械を狂わせる。ゆえに、空路で奈落の周辺に降り立つ者は限られる。
しかも、あの瘴気に精神を侵されずに立ち続けられる者は、奈落の影響を受けてきたグランドリオン領出身の者以外では、世界でもほんの一握り。
ムラサメは、その一握りだった。
着陸した飛行機のタラップを降り立ち、彼はゆっくりとコートの襟を立てる。
背に封印された新月。足は奈落に向けて、真っ直ぐに踏み出された。
(さあ、地獄を終わらせに行こうか)
かつての仲間たちと約束した、あの場所へ。
【港湾都市グレイロック】
海風に晒された石畳の通りを、黒い外套の男が一人、ゆっくりと歩いていた。
白髪混じりの髪に無精髭、険しく刻まれた皺。その風貌はまるで老兵だが、実のところ、彼はまだ五十を迎えたばかり。クロスたちの親世代にあたり、本来なら引退を考えてもおかしくない年齢。だが、この男は今も最前線を歩く戦士だった。
背には封印された長巻型の木箱。そこに収められているのが、呪われし妖刀・新月であることなど、周囲の者たちは知る由もない。
だが、その異質さ…気配だけで、町の空気が変わる。通りすがる者たちが一様に息を呑み、目を逸らした。
「……あれ、なんだ?」
「武器商人か? いや、あの気配は……」
その異物を見逃さなかった者たちがいた。路地裏に潜む影、十数人。貧民街の自警団を装いながら、旅人を狙う無法者たちだ。
標的は、ムラサメ。
狙いは、彼の背にある封印された刀。奇妙な形の鞘に収められたその姿は、骨董好きや裏稼業の人間にとっては、涎の出る代物に映った。
「なあ、あのジジイ……やべーもん持ってるぜ?」
「目立たず、静かにやれ。音を立てずに……」
「合図しろ、囲め。数で押せばどうにでもなる」
ムラサメが角を曲がったその瞬間――
全方向から、盗賊たちが飛び出した。
「動くな! それを置いていけ!」
「ジジイ、命が惜しけりゃ――」
言葉が終わる前に、彼らの視界が暗転した。
それは、何が起きたのかわからない速度。
一歩も動かず、ムラサメはただ右手を一閃しただけ。だがその手刀が、まるで雷のように一瞬で十の方向に届き、全員の首筋、胸、腹、膝をピンポイントで突いていた。
衝撃すら感じなかったのか、盗賊たちは次の瞬間、無様に地面に倒れた。悲鳴もない。呻き声もない。すでに気絶していた。
それは「武術」などではなかった。ただの「現象」だ。強すぎて、戦いですらない。
「……つまらん」
ムラサメは、倒れた者たちに一瞥もくれず、再び歩き出す。
通りの影で震える老人が、小さくつぶやいた。
「あれは……人じゃない……」
町の人々は理解した。あの黒衣の男は、この世の理から逸脱した“剣鬼”なのだと。
誰もが、二度と彼に手を出すまいと心に誓った。
その背にある封印の刀を見て、誰もが知る。
あれは触れてはならぬ死そのものだ。
ムラサメは立ち止まることなく、グレイロックの外れにある旅商の馬車に近づいた。目的地は、サンライズシティ。
「……宿はいらん。すぐに発てるか?」
「ひ、ひぇっ……! す、すぐ準備します!」
旅商は恐怖で震えながら、ただ頷いた。
その日、グレイロックの裏社会は音もなく潰えた。
黒衣の男が通ったという“記憶”だけが、都市の空気に刻まれる。誰もが語らぬ、ただひとつの伝説として。
キャラクター紹介 No.13
【ムラサメ】
本名・叢雨神威
クロスの父・ジークの親友にして、伝説のパーティの唯一の生存者。
剣を重んじる島国に生まれ、若くして流派を極めたムラサメは、奈落の存在を知り、さらなる高みを求めて単身サンライズシティへ。
そこで出会ったジークたちと共に奈落へ挑み、数々の偉業を成し遂げるも――第十層にて奈落六大将の前に仲間は全滅。彼ひとりが生還した。
以後、沈黙を守り続けてきたが、弟子・月詠に剣を継がせた今、十八年の時を越えて再び剣を手に取る。
封印された呪刀【新月】を携え、命を削る覚悟で、再びサンライズシティを目指す。
普段使いの刀は、愛刀【朧影】。
流れるような剣技と感情を抑えた寡黙な佇まいから、かつては「霧を斬る男」と呼ばれたという。
己の命と引き換えにでも、奈落に刻まれた“過去”に決着をつける――それが、彼が再び剣を抜く理由だ。




