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第7話 謝

人が「死」を認識するのは、何歳の時だろう。

死を恐れるのは、何歳の時だろう。

そして、死を受け入れるのは、何歳になってからのことだろう。


それを知っている人、覚えている人は殆どいないことと思う。

そもそも死とは何なのか。

恐怖し、畏れ怒り危惧し、そして結果的に「何なのか」分からず、自己完結して紛らわそうとする。


そんな不確定的で未確定かつ流動的な要素。

そもそも要素であるのかどうかも分からないそれは、私達の頭の中、そのすぐ傍を常にたゆたっている。



汀は、壁を這っている小さな蜘蛛を、ぼんやりと見ていた。

どこから入り込んだのか、一センチくらいの茶色い蜘蛛が、一生懸命のぼろうとしている。


どこに向かっているのか。

上に行って、そして窓も開かないこの部屋のどこに隠れ、何を獲って過ごすつもりなのか。


汀の脳裏に、足を天井に向け、床に転がっている蜘蛛の姿がフラッシュバックした。

気づいた時、汀は動く右手を、強く壁に叩きつけていた。


ジーンと手が痺れる。

ぼんやりとした視線を手の平を広げて、そこに向けると、もはや飛沫と化した蜘蛛の姿があるばかりだった。


「どうした?」


扉を開けて圭介が入ってくる。

汀は小さく咳をしてから、手と壁をティッシュで拭いて、それをゴミ箱に捨てた。


「何でもない」

「具合が悪かったらすぐに言えよ。そうでなくても、最近お前は不調なんだ」

「……お外に出たいな」

「生憎と今日は土砂降りの大雨だ。気づかなかったのか?」


圭介がカーテンを開けると、外の土砂降りの景色が汀の目に飛び込んできた。

しかし汀は、それを一瞥しようともせずに、ぼんやりと繰り返した。


「お外に行こうよ……何か食べに行こ」

「今の体調と、この天気じゃ無理だ」

「退屈だよ」

「ゲームは? 漫画は?」

「そんな気分じゃない」


我侭を言う汀を、圭介は呆れたように見ていたが、少しして息をつき、言った。


「……なら、患者の診察をしてみるか?」

「え?」


汀はきょとんとして圭介を見た。


「でも、マインドスイーパーは、先入観をなくすために、患者さんのことはあんまり知らないほうがいいって……」

「比較的軽度なら、別に構わないケースもある。それに、お前の精神衛生も考えてな……」


少し表情を暗くした圭介を、汀は不思議そうに見ていた。

やがて彼女は頷いて、彼に言った。


「どうせ暇だし、やってみるよ」



「へぇ、あなたがねぇ。マインドスイーパーっていうのかい。小さいのに、たいしたもんだねぇ」


動く右手を温かい両手で包まれ、汀はきょとんとした顔で、その患者を見た。


「こんなに痩せて。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」


優しい顔をした、老婆だった。


「え……あ……は、はい……」

「そうだ。飴ちゃん食べるかい? 今時の女の子が好きそうな飴じゃなくて、のど飴しかないけど、私は黒糖入りが好きでねぇ」


かばんの中から飴を取り出し、二つも三つも汀の手に握らせる老婆。

温かい言葉と行為の攻撃に、汀はついていくことが出来ずに、圭介に困った視線を送った。


しかし圭介は、壁にもたれかかって腕を組んだ姿勢のまま、軽くにやけただけだった。

圭介を頼りに出来ないと気づいた汀は、飴を片手で剥いて口に入れ、残りをポケットに入れた。

そして戸惑いがちに口を開く。


「あの……診察……」

「あぁ、そうだったね。今日はお嬢ちゃんと、お話が出来るんだってね。私の孫も、小さい頃はお嬢ちゃんみたいに可愛かったのよ。今では結婚して、太っちゃったけどねぇ」

「は、はぁ……」

「何歳なんだい? 髪は染めてるのかい? 駄目だよ、小さい頃に染めたら、髪が痛んじまうよ」

「十三歳です。髪は、薬の影響で……」

「あら、そうだったのかい。それは悪いことを聞いたね……」


老婆のペースに流されまいと、汀は無理やりに話題を変えた。


「あの……自殺病の治療に来られたと聞いたんですけれど……」


とても、自殺病を発症しているとは思えない、優しい雰囲気と、元気なオーラを発している女性だった。

それを聞いて、女性はしばらく目をしばたたかせた後、合点がいったように頷いた。


「ええ、そうなのよ。赤十字病院に行ったら、自殺病の第一段階初期とか言われて、もう困っちゃうわぁ」

「だ、第一段階初期……?」


汀はそれを繰り返して、カルテに目をやった。

圭介が書いた流浪なドイツ語が目に飛び込んできたが、当然汀には読むことは出来ない。


「それなら、投薬で十分治療できると思います。自覚症状もないみたいですし……赤十字の先生は、何て言っていましたか?」


戸惑いがちに汀がそう聞くと、老婆はにこやかに微笑んで答えた。


「それがね、どうも私は、自殺病の薬が効かない体質らしいのよ。困っちゃうわ、本当」

「は、はぁ……」

「よく聞いてみたら、ここの病院が一番スッキリ取り除いてくれるっていう話じゃないの。少し遠かったけど、来てみたっていうわけ。お嬢ちゃんと会うのは初めてだけど、高畑先生とは何回か診察でご一緒してるのよ」


ペラペラと、良く口が回るものだと言うくらい流暢に老婆は喋ると、バッグから小さなペットボトルを出して、その中のお茶を喉に流し込んだ。


「圭介……」

「ん?」


圭介を呼び、汀は彼の方に車椅子を向けた。

そして小声で言う。


「赤十字に回したら?」

「まぁそう言うな。息抜きも大事な仕事のうちだ。それより、お前の見立てではどうだ、『汀先生』?」


問いかけられ、汀は手元の資料に目を落とし、右手で器用にめくりながら言った。


「別にダイブしてもいいけど……話口調もはっきりしてるし、瞳の混濁も見られないし……情緒不安定な面も、確認されてないみたいね……投薬が出来ないらしいけど、放っておいても自然治癒するんじゃないかしら」


それを聞いていた老婆が、口を挟んできた。


「それでも心配じゃないの、頭の中に正体不明の病気がいます、なんてことはねぇ。できればすぐにはっきりとした状態に戻して欲しいの」

「でも……自覚症状がないんでしたら、放置していても問題はないと思いますけど……」


汀はボソボソとそう返すと、息をついた。


「一応ダイブしておきますか? 一応っていう表現はおかしいかもしれませんけど……ただ……」


汀は、そこでキィ、と車椅子を老婆に向けた。


「心の中を私に見られて、あなたはそれで構わないんですか?」


端的な疑問をそのまま口に出す。

老婆は、しかし笑顔でそれに頷いた。


「最初は、どんな子がくるのかと思ってたけれど、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ。どうぞ、沢山覗いていってくださいな」

「はぁ……そうなんですか」


納得がいかない、といった風に汀が首を傾げる。

そこで圭介が汀の脇に移動し、デスクから書類の束を取り出した。


「それでは、契約の確認をしましょうか。それと、当施術は保険の対象外ですので、その点もご了承ください」

「ええ、分かっています。どうぞ、宜しくお願いします」


老婆が深く頭を下げる。

汀は、それを複雑な表情で見ていた。



汀は、施術室の中で、てきぱきと準備をしている圭介を見た。

老婆は、麻酔薬を導入され、ベッドに横になっている。

頭にはマスク型ヘッドセットが被せられているが、別段、手足を縛り付けられているという風な様子はなかった。


「絶対おかしいよ。圭介、何企んでるの?」


そう問いかけられ、計器を点検しながら圭介は返した。


「別に。何も」

「私がやらなくても、赤十字のマインドスイーパーで対処できる内容だよ。てゆうか、ダイブする必要がないと思う」


汀の膝の上で、白い子猫、小白がニャーと鳴く。


「ダイブする必要がないって、どこをどうしてそう判断するんだ?」

「だって……たかがレベル1でしょ?」


伺うようにそう聞いた汀に向き直り、圭介は続けた。


「たかが? レベル1でも自殺病には変わりないだろ。何嫌がってるんだ?」

「嫌がってなんていないよ。でも、わざわざ私が行く必要があるのかなって」

「汀、何か勘違いしてないか?」


圭介は壁に背中でもたれかかり、息をついた。


「お前は、人を助けたいんだろう? なのに、この人は助けなくてもいいって言うのか」

「助ける必要がないと思うだけ」

「それはお前の驕りだよ」


断言して、圭介は少しきつい目で汀を見た。


「お前、自分を何か特別な存在だと思ってないか? お前は、特A級能力者である前に、一介の、ただのマインドスイーパーだ。マインドスイーパーは仕事をしなきゃいけない。それがどんな患者であってもだ」

「……圭介は、それが本心なんだね」


そう言って汀は悲しそうに目を伏せた。


「何?」

「圭介は私のこと、道具としか見てないんだ。道具だから言うこと聞けってことでしょ? 道具だから、文句言うなってことでしょ?」


怒りではなく、悲しみが伝わってくる言葉だった。

圭介はしばらく押し黙っていたが、近づいて汀の頭を撫でた。


「すまん、少し言い過ぎた」

「…………」

「最近お前、情緒不安定だぞ。体調も良くならないしな。だから、単純に、『普通』の人間の心理壁を観光ついでに見て来い、っていうだけのつもりだったんだ。いらない邪推をするなよ。幸い、患者もそれに同意してくれてる。小白とダイブして、遊んで来い」

「……遊ぶ? 遊んでいいの……?」

「ああ。そのために用意したステージだ」


圭介は軽く微笑んで、汀にヘッドセットをつけ、マスク型ヘッドフォンを被せた。


「少し、それで頭冷やして来い。時間は四十分に設定する」

「え?」


汀が素っ頓狂な声を上げる。

圭介は頷いて言った。


「ああ。それだけあれば、十分遊べるだろ。外に連れて行けない代わりと考えてくれればいい」

「分かった。圭介、変なこと言ってごめんね。遊んでくる!」


汀が笑ってそう返す。

圭介は、計器前の椅子に腰を下ろし、少し表情を曇らせた。

しかしすぐに柔和な表情に戻って、言う。


「行っておいで」



汀は目を開いた。

そこは、巨大なトンネルのようになっている空間だった。

足元の小白を抱き上げて肩に乗せ、汀は周りを見回した。


「へぇ……」


そう呟いて、息をつく。

そして彼女は、ヘッドセットのスイッチを入れて口を開いた。


「ダイブ完了。さすが、精神崩壊が起こってない人の心の中って、綺麗ね」

『そうか。状況を教えろ』

「整頓された心理壁の内面に続く通路の中にいるみたい。トラウマに構築された世界じゃないね」

『今回のメインは観光だ。ゆっくりとしてくるといい』

「分かった」


頷いて、汀は散歩にでも行くような調子で歩き始めた。

ベートーヴェンの曲が聴こえる。

落ち着いた空気と、清涼感が漂う綺麗な場所だった。


トンネルは、全てジグソーパズルで出来ていた。

綺麗に全てのピースがはまっていて、そこには、老婆が観光で行った所なのか、

いろいろな景色が映し出されていた。

そこには必ず、同年代の男性と一緒にポーズをとっている老婆の姿があった。


それは、写真だった。

写真のジグソーパズルで構築されたトンネル。

思い出のトンネルだ。

汀は面白そうに笑いながら、手を広げてその場をくるくると回った。


足元もジグソーパズルだ。

どこに光源があるのか分からないが、ぼんやりと光っていて明るい。


「見て、小白。ハワイだよ、ハワイ。行きたいなぁ」


汀は、にこやかにピースサインをしている老人と老婆を見て、自分もピースを返した。


「私が生きてるうちに、行けるかなぁ」

『ハワイになら、夢の中で何回も行ってるだろ』


そこで圭介が口を挟む。

汀は頬を膨らませてそれに返した。


「夢と現実は違うの」

『そうなのか。お前の感覚は良く分からんが』

「本物は、もっとこう……違うんじゃないかなぁ。だって、この写真のお爺ちゃんとお婆ちゃん、笑ってるもん。こんなに楽しそうに、笑ってるもん」

『…………』

「私、こんなに楽しそうに笑えないな。ねぇ圭介」


汀は、裸足の足を踏み出して彼に問いかけた。


「私、大きくなったら大河内せんせと結婚できるかな」

『…………』

「結婚したら、普通にお母さんになって、普通に子供産めるかな」


圭介は、それには答えなかった。

汀は写真を覗き込んで、構わずに続けた。


「男の子がいいな。そして、女の子二人。せんせはなんて言うだろ。せんせは、忙しいから子育てできないかな。そしたら、圭介が手伝ってくれる?」

『…………』


圭介はまだ、押し黙っていた。


「圭介?」


ヘッドセットの向こうに怪訝そうに問いかけた汀に、圭介は口を開いた。


『汀、よく聞け。お前は……』

「ん?」

『……お前は……』


彼が言い淀んだその時だった。

突然、静かに鳴っていたベートーヴェンの音楽が消え、代わりに救急車のサイレンの音が鳴り響いた。

周囲も赤い光源になり、汀はハッとして周りを見回した


「トラウマだ。でもどうして……?」

『……トラウマだって? どのくらいのレベルの奴だ?』

「この人の心が警鐘を鳴らしてるくらいだから、外部からの外的衝撃が加わったってことだと思うけ……きゃあ!」


ズシンッ、とトンネル内に地震が起こった。

バラバラと写真のジグソーパズルが降って来る。


汀は、震度七ほどにも匹敵する地震に抗うことも出来ず、ゴロゴロと地面を転がって、したたかに頭を壁にぶつけた。

ザァァァッ! と雨のようにジグソーパズルが降って来る。

息も出来なくなり、目の前が確認できなくなった汀の手の中の小白が、ボンッ、と音を立てて膨らんだ。

そして傘のようになり汀の体を覆う。


ジグソーパズルの落下はとどまるところを知らず、天井、壁、床全ての写真が崩れ落ち、無残に雪のように積もった。


地震が収まり、時折パラパラとパズルが落ちてくる中、汀はもぞもぞとその中から這い出した。

体の所々が、パズルの角で切れてしまっている。

小白が空気の抜ける音を立てて元にもどる。


そこで、ドルンッ、とエンジンの音が聞こえた。

汀がジグソーパズルの海の中、サッと顔を青くして振り返る。

そして、彼女は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、硬直した。


そこには、ドクロのマスクを被り、右手に錆びた巨大なチェーンソーを持った男がゆらりと立っていた。

ピーポーパーポーピーポーパーポーと救急車のサイレンが鳴り響いている。


「いやああああああああああああ!」


汀は、耳を塞いで目を閉じ、絶叫した。

エンジンの音は、チェーンソーが起動した音だったのだ。


『どうした、汀!』

「やだ、やだ、やだ、やだ!」

『落ち着け、何が……』

「やだやだやだやだやだやだ! いやあ! いやあああああ!」


完全にパニックになった汀は、パズルの海を抜け出そうともがいて、その場に盛大に転んだ。

しかしそれでも、全身をブルブルと震わせながら、這って逃げようとする。

男が、パズルを踏みしめて足を踏み出した。


ズシャリ。

ギリギリギリギリギリ。


チェーンソーの端が、壁に当たりそこを削り取る。

汀は両目から涙を流し、腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。


「あ……あああ……あ……あ…………」


言葉になっていなかった。

男がゆっくりと近づく。

小白が、男と汀の間に立ち、シャーッ! と牙を剥き出して威嚇した。

その体が風船のように膨らみ、全長五メートルほどの化け猫の姿に変わる。


『汀、トラウマか? まさかドクロの男か!』

「圭介! 圭介、か、か……回線! 回線切って! 助けて! 助けて! 助けてえええ!」


いつもの飄々とした威勢はどこに行ったのか、汀が泣き叫ぶ。

彼女は後ずさって逃げようとしたが、壁に追い詰められてしまっていた。


『分かった、今すぐに回線を……ブブ……』


そこで圭介の声がノイズ混じりになり、ヘッドセットから、砂画面の音が流れ出した。


『何…………ザザ…………これ…………ブブブ…………』

「圭介!」


汀の悲鳴が、虚しく響く。


「一分…………逃げろ……し……待って…………ブブ…………」


プツン、と音が消えた。

次いで、突然ヘッドセットからの音がクリアになった。

そして面白そうに笑う、少年の声が聞こえる。


『なぎさちゃん』


踊るようにその声は言った。

マスクの男が顔を覆うドクロの口元をめくり、裂けそうなほど広げた。

ヘッドセットと、マスクの男両方から、声が聞こえた。


『みーつけた』


そこで、小白がマスクの男に飛び掛った。

男がチェーンソーを振り回し、小白のわき腹をなぎ払う。

ドパッと鮮血が散り、小白が地面を、パズルを飛び散らかせながら転がった。

次いで男は飛び上がると、小白の脳天に向けてチェーンソーを振り下ろした。


「小白!」


汀が震えながら悲鳴を上げる。

そこで、しゃがみこんでいた汀の両腕に、壁から飛び出た鉄の枷が嵌められた。


あっ、と思う間もなく、彼女は壁に引き寄せられ四肢を磔られた。

首と両足にも枷がはまり、汀は涙をボロボロと流しながら、横に目をやった。


彼女は、縦にした棺のような場所に磔られていた。

そして、ドアを連想とさせる脇の部分には……。

沢山の長い針が、内側に伸びた棺の裏部分が見えた。

頼りなげに揺れている。


棺の扉が閉じたら、中にいる汀は、その沢山の針で串刺しになってしまう。

そういう寸法だった。

暴れることも出来ずに、汀はただ、呆然と体を震わせていた。


彼女の股の間が熱くなる。

あまりの恐怖に、小さな少女は、年齢相応に恐怖し、そして失禁してしまっていた。


マスクの男が飛び上がる。

そして小白の脳天にチェーンソーを突き立てる。

しかし小白は、頭を強く振ると、男を跳ね飛ばした。

飛ばされた男は、まるで無重力空間の中にいるかのように、天井に「着地」すると、そこを蹴って、小白に肉薄した。


そしてパズルの一つを手にとる。

それがぐんにゃりと形を変え、ジグザグの鋲のようになった。

男は、それを小白の腕にたたきつけた。

小白の右腕を鋲が貫通して、地面に縫いとめる。


もがく化け猫に次々と鋲を打ち込み、四肢を地面に磔にしてから、男はチェーンソーを肩に担いだ。

そして紐を引っ張って、ドルンドルンとエンジンを空ぶかししながら、ゆったりと汀に近づく。


「や……嫌あ…………」


口を半開きにさせて、ただひたすらに恐怖している汀に近づいて、男はマスクを脱いだ。


「ひっ!」


思わず顔をそらした汀の前で、男は


「あは……ははははは!」


と面白そうに笑うと、チェーンソーを脇に投げ捨てた。

汀が恐る恐る目を開くと、そこには白い髪をした、十五、六程の少年が立っていた。


「はは……あっはっはははははは!」


爆笑だった。

少年は腹を抱えて、汀が恐れおののいている様子を指差して笑うと、しばらくして、呆然として色を失っている彼女に、息をつきながら言った。


「はは……はははは……面白かった! なぎさちゃんがこんなに驚くなんてさ! どう? 似てた? 僕演技すげぇ上手いでしょ?」


少年……ナンバーXは汀の前をうろうろしながら、彼女の顔色を伺うように、チラチラと視線を投げてよこした。


「どのくらい似てた? 百点? 二百点? 僕は三百点は固いと思うんだけどな」

「だ……」


汀は小さく、か細い声で呟いた。


「誰……?」


まだ彼女の両目からは涙が溢れている。

ナンバーXは少しきょとんとした後、ポン、と手を叩いた。


「もしかして、僕悪いことしちゃったかな? そっか。GMDの副作用を忘れてたよ。うっかりしてた」


彼は顎に手を当てて考え込むと、せかせかと歩き回りながら言った。


「でもグルトミタデンデオロムンキールのA型だと仮に仮定したとしても、そこまで急激な記憶の喪失ってあるのかな? まぁ、なぎさちゃんなら、そんなこと関係ないよね!」


ナンバーXはそう言って笑うと磔られて失禁している少女の周りを伺うようにうろついた。

怖気が汀の背を走る。


何故、彼がこんなに怖いのか、それは汀には分からなかった。

しかし彼女は、あまりの恐怖と、嫌悪感に、彼の視線から何とか逃れようと、体を無理にねじらせて抵抗していた。

その様子をクスクスと笑いながら見て、彼は言った。


「無駄だよ。僕の空間把握能力と構築能力は、なぎさちゃんなら良く知ってるでしょ? 僕のは絶対に破れない」


そう言って、ナンバーXは、キィキィと、わざと音を立てて針がついた扉を動かし、汀の泣き顔を楽しむと、怪訝そうに眉をひそめた。


「どうしたの? まさかおしっこもらすほど驚くとは思わなかったけど、僕はそんなこと気にしないよ? あ……! そうだ、この前、会ったことも忘れちゃってるか。てゆうことは、僕のことも分かんない? そんなわけないよね? ね? どう? 僕のこと思い出せない?」


ナンバーXが顔を近づける。

汀は、必死にそれから目をそむけようとした。


そこで、汀の脳裏に、今よりも少し幼いナンバーXの顔がフラッシュバックした。

笑顔で、右手に何かを包んでいる。

その何かを、差し出している。

笑顔で。


「い……」


汀は、引きつった声で、しゃっくりのように呟いた。


「いっくん……?」

「ほら来た! やっぱりなぎさちゃんだ! GMDなんてクソ喰らえだね! 僕達の絆に比べたら、そんなもん屁でもないさ! そりゃそうさ! 僕達は『前世から結ばれる運命にあった』二人なんだからさ! ね? なぎさちゃん!」


一人でヒートアップして騒ぐ、ナンバーX。

汀はそれを呆然と見つめ、しかし自分が、彼の名前以外思い出せないことに気づいて青くなった。


それ以前に、本当にいっくんというのか。

それは名前から取ったあだ名なのか、苗字から取ったものなのか。

いや、それよりも。


私達に、苗字なんてあったのか?


「……ッは!」


そこで、汀の右即頭部に凄まじい痛みが走った。

汀は、歯を噛み締めてそれに耐えながら、かすれた声を発した。


「あなたが……『いっくん』……?」

「ん? そうだよ。今更どうしたの?」

「な……なぎさって……誰?」


そう問いかけた彼女を、きょとんとした顔で見て、ナンバーXは答えた。


「君だよ」

「私……? 違う、私は……」

「あー、そういうのいいから。大事なのは過去や未来じゃなくて、今。今僕と君はこの空間に二人きりでいる。それが重要じゃないか。なぎさちゃんが、自分のことを知らなくても、僕は全然構わない。だって、僕はなぎさちゃんのこと、何でも知ってるもん」


怖気の残るような台詞をすらすらと笑顔で言って、無邪気に彼は扉を動かした。


「だから、ね。ちょっとだけなぎさちゃんに痛い思いをして欲しいんだ。大丈夫。死にはしないから。『機関』が君の事を探してる。僕もだ。だから、君のいる位置を逆探知させてもらうよ」

「い……いや…………」


扉の針が迫ってくる。

訳が分からない。

分からないが。

このままでは、自分は殺されてしまう。

もがくが、枷はびくともしなかった。


「大丈夫。すぐに済むから。痛いのはほんの五秒くらいさ」

「待って……!」


汀は悲痛な声を上げた。


「ん?」


扉を止めて、ナンバーXは汀の顔を覗き込んだ。


「どうかした?」

「一つだけ教えて……! お願い……私達に何があったの……!」

「…………」


彼は動きを止めて少し考え込んだ。

そしてポケットに手を入れて、クローバーの葉を一枚取り出した。


「持ってるでしょ?」


端的に問いかけられ、汀は首を横に振った。

ナンバーXは怪訝そうな顔をして、汀を見た。


「嘘ついてもすぐに分かるよ。これは特別な空間に続く鍵なんだ。『僕』が、『絶対に外れないように』なぎさちゃんの心の中に、縫いつけたじゃないか。忘れたとは言わせないよ?」


汀の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。


燃える家。

悲鳴。

断末魔の絶叫。

ドルンドルンと鳴り響くチェーンソーの音。


紙芝居のように揺らめく景色。

マスク。

頭蓋骨。

頭蓋骨の形をしたマスクを被った男。


血まみれのチェーンソーを持って、もう片方の手に、髪の毛を掴んだ人間の頭を持っている。

そう、頭部だけ。

その頭部は。


そこまで思い出した時、汀のヘッドセットの電源がついた。


『再アクセス完了。全ての設定をニュートラルにして自動構築開始。汀、聞こえるか?』

「圭介!」


汀が悲鳴を上げる。


「助けて、圭介!」

『もう大丈夫だ、Tを投与した。効果開始まで、あと三秒』

「チッ!」


そこで、ナンバーXが扉を引いた。


「ごめん、なぎさちゃん! 君のためなんだ!」

「……!」


バタン。

ドアが閉まった。

強くそれを押し込み、息を切らしてナンバーXは歯噛みした。


「くそ……あの医者か! 僕のなぎさちゃんに……くそ! くそ!」


地団太を踏む彼。


汀は、その彼を、冷めた目で見つめていた。

後方、二十メートル程後ろに、彼女は立っていた。

今まで拘束されていた部分が、青黒いあざになっている。


いつの間に脱出したのか。

いつの間に枷を外したのか。

全く分からないほどの、一瞬の移動だった。


ナンバーXは、ポカンとした顔で汀を見ると、急いで扉を開けた。

中には、何も入っていなかった。


「え……」


呆然と呟き、彼は汀に向き直って、言った。


「ど……どうしたの? 何、したの?」

「…………」


汀は、妙に落ち着いた表情で彼を睨んでいた。


「なぎさちゃん! 君じゃないか! 僕の構築から抜け出せる人はいないって、褒めてくれたの、君じゃないか! なのに……なのにどうして? ずるいよ!」


喚くナンバーXの耳に、汀がスライドさせたヘッドセットから、圭介の声が流れて飛び込んできた。


『クソガキが』


汀が首の骨を、コキ、コキ、と鳴らす。

瞳は光を失っており、不気味な様相を呈していた。


『俺より早く鯨の居場所に気づくとは、たいしたもんだが、一手遅かったな』


汀が軽く笑って、見下したように彼を見て言う。


「マインドジャック……?」


ナンバーXが唖然として呟く。


「なぎさちゃんの意識を乗っ取ったな! ヤブ医者!」

『ジャリが。オトナへの口の利き方というものを、どいつもこいつも知らんらしい』


汀の口を通して圭介はそう言い、彼女の体を一歩、動かした。

汀の意識は、なくなっているようだった。

圭介はいつもの柔和な様子とは裏腹に、黒い声調子で続けた。


『いい加減にしろよ変態野郎。こいつは俺のものだ。誰にも渡しはしない』

「なぎさちゃんは僕のものだ! てめぇの玩具じゃねぇんだよ!」


ナンバーXが、そこで吼えた。


「なぎさちゃんを返せ!」

『面白いじゃないか。かかってこいよ』


汀が手を上げ、焦点の合わない瞳で彼を見て、挑発的に動かす。


「この……!」


ナンバーXはそこで走り出した。

そしてパズルの一つを掴んで、振る。

それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃になった。


汀も走り出し、足元のパズルを手に取る。

それが同様に形を変え、刃渡り三十センチはあるかという、長大なサバイバルナイフに変わった。


「やめろ! なぎさちゃんの脳をこれ以上刺激するな!」


ナンバーXが怒鳴って、彼女の頭に銃を突きつける。

しかしその銃身を手で弾き、汀は、躊躇なくナイフを突きこんだ。


少年がそれを身をひねって避け、何回か宙返りを繰り返して距離を取る。

そして銃弾を連続して発射する。


次の瞬間だった。

汀は、キン、キン、キン、と言う金属音を立てて、目の焦点が合わないまま、目にも留まらない速さでナイフを振った。

彼女の後ろの壁に、それぞれ両断された銃弾が突き刺さる。


「てめぇ!」


ナンバーXが怒鳴る。

そこで、汀の体が消えた。


彼女は地面を蹴って、凄まじい勢いで加速すると、一瞬でナンバーXに肉薄した。

そしてナイフを横に振る。

身をかがめてそれを避けた彼の髪の毛が、途中から綺麗に両断されて散る。


「くそ……!」


毒づいた彼の拳銃が、汀の持つナイフと同じものに変化した。

それで斬撃を受け止めて、鍔迫り合いのような状況になりながら、ナンバーXは汀を押し返した。


「ふざけるなよヤブ医者……下衆め! その子は僕のものだ! 貴様のものじゃない!」

『今は俺のものだ』


汀が、目を細めてにやぁりと笑った。


『最高の玩具だよ』

「この……!」


ナンバーXが、汀を突き飛ばす。

しかし汀は猫のように地面をくるりと回ると、無表情でナンバーXの喉笛に、ナイフを突き立てた。


「か……」


空気の抜ける音と共に、彼がよろめく。

ナイフを抜いて、汀はもう一度、ナンバーXの胸にそれを突き刺した。

そして彼を蹴り飛ばす。


『これでそのおしゃべりな口も、しばらくはきけないだろう。ウイルスを忍ばせてもらった。お前が使ったのと、同じ手だ』


汀の体から力が抜け、彼女はナイフを取り落とし、ずしゃり、と無造作にその場に崩れ落ちた。


『前に汀と遭った時に、接触ついでに、こいつの体にウイルスを付着させたな? それで位置を探知して、ジャックしやすそうな場所にダイブしたから、襲ってきたと言うわけか』


ヘッドセットの向こうで、圭介は醜悪に笑った。


『網を張っていた甲斐があったよ』


ナンバーXは、地面に倒れこんで、汀の方に手を伸ばした。


「な…………ちゃ…………」


その手が、パタリと力をなくして地面に崩れる。

しかし、水溜りのように広がった血液が、汀の方に流れ、彼女の足に触れた。

それを見て、ナンバーXはニヤリと笑い、そして動かなくなった。



汀が目を覚ましたのは、それから数分経ってのことだった。

彼女は目を開き、緩慢にその場に起き上がる。


赤く点滅している光源に照らされた、一面崩れたジグソーパズルだらけの空間だった。

地面には血液が広がっている。


それが病院服を濡らしているのを見て、汀は慌てて体を触った。

そして股間の不快さに顔をしかめ、他に異常がないことを確認してから、ヘッドセットのスイッチを入れる。


「……圭介……?」

『起きたか。大丈夫か?』

「…………ううん。大丈夫じゃない……頭がガンガンする……」

『お前、トラウマと戦ってるうちに、記憶が飛んだんだよ。大丈夫だ。もう心配はない』

「トラウマと……?」


汀は自分の手を見た。

手の平がぐっしょりと血で濡れている。

そこで彼女は、地面に小白が横になっていることに気がついて、慌てて駆け寄った。


「小白……!」


小さな猫はプルプルと震えていた。

両手足から血が出ている。


「小白が怪我してる!」

『早く患者を治療して、戻って来い。小白もそうすればついてくるだろ』

「わ……分かった」


先ほどまでのことを全く覚えていないのか、汀は慌てて周りを見回した。


「異常変質心理壁は……」


彼女はそう呟き、少し離れた場所に、一箇所だけ崩れていない写真があるのを見た。

人間大のそれは、淡く白い光を放っている。


それは、巨大な鯨の絵の前に立っている老婆と老人の写真だった。

一つのジグソーパズルのピースとして、それが立っている。


「この人にとって特別なものなんだ……」


そう呟いて、汀は頭を抑えながら、写真の右半分にスプレーのようなもので殴り書きがしてある文字を読んだ。


「……どういうこと?」

『分からん。何かのトラウマだろう。消せるか?』

「やってみる」


汀はそう答え、頭を抑えてふらつきながら、その数字を手でこすった。

簡単にそれは消え、写真が輝きを増した。


「治療完了……目をさますよ……」


汀はその場に眠るように崩れ落ち、そこで意識を失った。



汀が出歩けるようになったのは、それから八日目のことだった。

彼女は、診察室のドアを開いて、にこやかな表情で座っている老婆を見て、表情を暗くした。

そして車椅子を自分で操作して、彼女の前に移動する。


「お待たせしてすみませんでした……」


かすれた声でそう言った汀を、老婆は心配そうに見つめ、そして彼女の右手を手に取った。


「どうしたの? こんなに手を冷たくして。無理して、出てきてくれなくても良かったのよ?」


汀は、そう言われてしばらく黙っていたが、やがてしゃっくりを上げたあと、ボロボロと涙をこぼした。

その様子を、圭介は壁にもたれかかり、腕組みをしながら、表情の読めない顔で見ていた。


「泣かないで。あなたは良くやったわ」


老婆に頭を撫でられ、汀はしゃっくりを上げながら言った。


「でも……私……私、あなたの記憶……思い出、全部消しちゃって……」


老婆は、全ての「思い出」をなくしていた。

具体的には、七年前に亡くなった夫との、旅行の思い出を全て、なくしていた。


「私、壊すことしか出来ない……私、人を治すつもりしてて、本当は人を壊してるのかもしれない……」


それは、圭介にも言ったことがなかった、汀の心の吐露だった。

圭介が顔を上げ、意外そうな顔をする。

老婆は、しかしにこやかな顔のまま、汀の手にのど飴を握らせた。


「あのねぇ、汀ちゃん」


彼女はそう言うと、微笑んだ。


「それは違うと思うわ」

「違う……?」

「あなたは、確かに私の中の、夫との思い出を壊したのかもしれないわ。私、何も思い出せなくなっちゃったもの。でもね」


彼女はそう言って、鯨の絵の前でポーズをとっている自分と、夫が写った写真を汀に差し出した。


「この思い出だけは、あなた、守ってくれたのよね」

「これ……」


汀は呟いて、そして写真を受け取った。


「これはね、交通事故で死んだ、私の息子が撮ってくれた写真なのよ。私の中で、一番大事な思い出」

「私……何もしてない」


汀は首を振った。


「私何もしてない。これは、あなたの思い出が強かったから、残っていただけの……」

「それでも……あなたが『守って』くれたことにかわりはないわ」


老婆はまた、微笑んだ。


「私には、それで十分なのよ」

「どうして……?」


汀は首をかしげてそう聞いた。


「思い出がなくなったんですよ……怖くないんですか? 苦しくないんですか……悲しくは、ないんですか? 私のことが、憎くはないんですか?」


老婆は首を振った。

汀は、また目から涙を落とした。


「どうしてそんなに、私に優しく出来るんですか……」


汀は、右手で顔を抑えた。


「優しくしないでください……私、本当に何もしてない……何も、私には出来なかった……」

「汀ちゃん」


老婆はそう言うと、彼女の肩を叩いて、そっと撫でた。


「大事なのは、『今』じゃないかしら」


そう言われ、汀はハッとした。

思い出せない。

思い出せないが……。

誰かが、そう言っていた気がする。


「過去の記憶がなくなっても、大事なのは今、何をして、これからどこに行くかなんじゃないかしら。私は、あなたに自殺病を治療してもらったわ。これで、心配なく『明日』に向かうことが出来るわ」


そう言って、老婆は汀に頭を下げた。


「本当に、ありがとうね」


汀はそれを見て、また涙を流し、手でそれを拭った。



「『機関』は、ナンバーズをどれだけ所持している?」


圭介は、汀が寝静まった夜中、携帯電話に向けて重い口を開いた。


『テルしてきたのが君で安心したよ。その様子だと、無事に番号は回収したみたいだね』


電話口の向こうの相手が、飄々とそう答える。


「質問に答えろ」

『機嫌が悪いね』

「……汀に、GMDを投与した。止むを得ずの処置だったが、重度の記憶障害を引き起こす可能性がある」

『あらら。それは迂闊な』

「お前が、剥きさらしの場所に番号を設置するからだ。ふざけるなよ……!」


押し殺した声で低く言った圭介に笑い声を返し、電話口の向こうの男は、軽く言った。


『まぁ、こっちも相応のリスクを負ってるから。君達にもリスクは背負ってもらわなきゃ。割に合わないだろう?』

「…………」

『聞きたいことがあったんだっけ? 機関が所持してるナンバーズは、三人だよ』

「三人……」

『現存してるナンバーズは五人しかいない。そのうち、関西総合病院の加原岬は、昨日の夜、病院から行方が分からなくなった』

「何……?」

『詳細までは分からないよ。ただ、その人数だけは情報として提供できるかな』


圭介は息をついた。

そしてピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を喉に流し込み、続けた。


「もう一人はどこにいる?」

『施設だろうね、多分』

「赤十字の虎の子か……」


そう呟いて、圭介は口をつぐんだ。


『さて、これからどうする?』


そう呼びかけられ、圭介は、口の端を吊り上げて言った。


「機関には、しかるべき贖罪をさせなければいけない。それに……汀にもな」

『そうだね。それが僕達に与えられたカルマなら、仕方のないことなのかもしれないね』


答えて、電話口の向こうの声は、続けた。


『じゃ、これ以上話すと逆探知されるから、回線を切るよ。次は「河馬ふぐ」のところで待ってるよ』

「こちらから直接行く。それじゃ」


プツリ、と電話を切って、圭介は息をついた。

ピンクパンサーのグラスの氷が、カランと音を立てた。



汀はびっくりドンキーのいつもの席で、

ぼんやりとした表情のまま、膝の上の小白を撫でていた。

メリーゴーランドのパフェを半ば食べてしまい、することがなくなったのだ。


「圭介」

「ん?」


彼に呼びかけ、汀は続けた。


「死ぬってどういうことなのかなぁ」


ぼんやりと呟いた汀に、圭介はステーキを口に入れて飲み込んでから答えた。


「何もなくなることさ」

「本当に?」


汀は彼を見た。


「でも、あのお婆さんは、死んじゃった旦那さんのことを、心理壁が壊れても、ずっと覚えてたよ」

「…………」

「何もなくなるなら……思い出って一体何なんだろう」


圭介はフォークとナイフを置き、彼女をまっすぐ見た。

そして少し口ごもってから言う。


「汀、よく聞け」

「何?」

「思い出って言うのは、つまるところ幻だ。その人の心の中で、都合のいいようにつくられた幻想なんだ」

「…………」

「今お前を苦しめてる『思い出』も、言うなれば同じようなものだ。幻想だよ」


汀は小白を撫でながら言った。


「幻想……幻想なのかな」

「ああ、幻想さ」

「なら、どうして……」


汀は、言いよどんでから伺うように聞いた。


「あのお婆さんは、幸せそうだったの? 自殺病にかかった人は、幸せにはなれないんでしょう?」


圭介は複雑な表情で、汀から目をそらし、フォークとナイフを手に取った。

そして、呟くように言った。


「さぁな。自分が幸福ではないのに気づくことができない。それが、あの人にとっての『不幸』なのかもしれないな」



圭介と汀を、少し離れた席で、パーカーを目深に被って、ポケットに手を突っ込んだ少年が見ていた。

その目は殺気を帯びていて、今にも飛び掛りそうな衝動を圭介に向けていた。


「お客様、ご注文は?」


店員にそう聞かれ、彼は口の端を吊り上げて笑い、メニューの、メリーゴーランドのパフェを指した。


「かしこまりました」


頭を下げて店員が下がる。

彼は息をついて背もたれに体を預けると、携帯電話を手に取った。

弄って消音にしてあるのか、動画撮影のボタンを押して、気づかれない位置に立てかける。

そのカメラは、二人の方を向いていた。

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