第2話 血の雨が降る
涙が落ちる。
土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。
降っているのは雨ではない。
赤い。
どろどろした粘性の血液だった。
それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。
足元には血だまり。
コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。
壮年男性だろうか。
背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。
顔は見えない。
ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。
汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。
男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。
汀は口を開いて何事かを言おうとした。
しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。
少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。
そしてかすれた声で呟く。
「ダイブ続行不可能。目をさますよ」
◇
「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」
そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。
「患者の家族は何て言ってる?」
「相変わらず知らず存ぜずだよ」
「そうか……」
圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。
「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」
柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。
そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。
圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。
「これで六回目のダイブ失敗か」
「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」
大河内がフォローするように言う。
汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。
余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。
腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。
汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。
急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。
「汀!」
呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。
「圭介……吐く……」
「分かった。もう少しだけ我慢しろ」
備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。
そして背中をさすってやる。
何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。
しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。
「限界か?」
問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。
「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」
「なら……」
「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」
圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。
彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。
「大河内せんせ!」
嬉しそうに彼女がそう言う。
大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。
そしてその場をくるくると回ってやる。
「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせ、いつ頃来たの?」
「二回目のダイブの途中から見ていたよ」
「私が吐くとこも?」
圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。
大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。
「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」
「本当?」
汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。
「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」
「ああ。で、患者はもういいのか?」
「どうでもいいよこんなの」
汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。
「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」
「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」
「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」
「あ……ああ、すまない」
圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。
「高畑、それじゃ今日は……」
「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」
「せんせ、手つなご」
汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。
大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。
「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」
圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。
「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」
圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。
汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。
「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」
「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」
「えへへ」
「お寿司でも頼もうか」
「本当? 私も食べる!」
二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。
そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。
いつも柔和な表情は、極めて暗かった。
◇
大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。
それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。
「汀ちゃんは上手いなぁ」
「ここを、こう飛び越えるんだよ」
「こうか? それっ!」
子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。
先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。
しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。
「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」
圭介が資料から目を離さずに言う。
汀はむすっとして彼を見た。
「全然疲れてないもん」
「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」
大河内がそう言って、寿司を口に入れる。
「汀ちゃんも食べるかい?」
「せんせが食べさせてくれるなら食べる」
「どれがいい?」
「うに」
「やめておけよ」
圭介が資料をめくりながら言う。
「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」
「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」
「はいはい」
肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。
「おいしい」
やつれた少女は笑った。
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。
「ほらな」
慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。
そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。
その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。
「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」
「全く……人の話を聞かないから」
呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。
「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」
バタン、と音を立ててドアが閉まる。
少し沈黙した後、汀はため息をついた。
「……圭介、怒ってる」
そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。
「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」
「違うの。私には分かるの」
汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。
「私が、役に立たないから……」
大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。
そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。
強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。
体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。
「汀ちゃん!」
汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。
血の雨。
立ち尽くす男。
泣き声。
血だまり。
コンクリートの地面。
先の見えないスコール。
土砂降り。
「あなたは何をなくしたの? 」
汀はそう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。
何をなくして、どうして泣いているのか。
しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。
「何をなくしたの!」
汀は叫んだ。
何度も、何度も。
掴みかかって、男を揺さぶる。
そこで汀はハッとした。
聞こえるのは、泣き声。
しかし男の顔は。
ただ、笑っていた。
「…………っ」
頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。
頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。
「高畑! 高畑、来てくれ!」
大河内が大声を上げる。
そこで、汀の意識はブラックアウトした。
◇
「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」
診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。
圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。
「気に病むなよ。いつものことだ」
「…………」
「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。多少はしゃいでゲロ吐いたって、あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」
「だろうが……口が悪いぞ、高畑」
「そうか?」
顔を上げずに、彼は続けた。
「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」
資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。
「あの患者の経歴だ」
「どこから取り寄せた?」
「世の中には『親切な人』が沢山いてね」
柔和な表情で彼は腕を組んだ。
大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。
「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」
「…………」
圭介は少し沈黙してから、言った。
「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」
「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」
「でも、汀は特A級だ」
「天才であることは認めるよ。しかし、適材適所という考え方もある。これは、赤十字の担当に回したほうがいい」
「大河内」
彼の言葉を遮り、圭介は言った。
「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」
問いかけられ、大河内が口をつぐむ。
圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。
「治すさ。汀は」
「…………」
「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」
「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」
「無理でもやるんだよ」
いつになく強固な声で、圭介は言った。
「それが、あの子の仕事だ」
◇
汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。
汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、息をついてベッドに体をうずめる。
「おはよう」
「おはよう、良く眠れたか?」
圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。
「よく寝れなかった」
「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」
「加減?」
「…………」
圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。
そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。
「いや、いいんだ。別に」
「気になるよ。何かあったの?」
「大河内が来ただけだ」
「せんせが来たの?」
汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。
「ど、どうして起こしてくれなかったの?」
どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。
「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」
「せんせ、ここに入ってきたの?」
「ああ」
「恥ずかしい……私、こんな……」
毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。
彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。
「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」
まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。
否、覚えていない風、なのではない。
覚えていないのだ。
圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、隣の診察室に歩いていった。
汀が胸を押さえながら、俯く。
大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。
圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。
「これは覚えてるか?」
問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。
そして首を傾げる。
「誰?」
「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」
興味がなさそうに資料をめくり、しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。
「ふーん」
と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。
「それで、いつダイブするの?」
「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」
「いいよ。圭介がそう言うなら」
にっこりと笑って、汀は続けた。
「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」
問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。
しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。
「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」
◇
「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」
赤十字病院の一室で大河内がそう言う。
彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。
「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」
資料に目を通しながら圭介が言う。
大河内は反論しようと口を開けたが、言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。
「クスリが強すぎる」
「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」
含みを込めてそう言うと、圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。
数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、前に横たえられた壮年男性の姿が見える。
マジックミラーのようになっていて、向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。
汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。
『準備完了。これからダイブするよ』
壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。
圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、そのマイクに向けて口を開いた。
「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」
『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』
「時間は十五分でいいな?」
『うん』
頷いて、汀は呟いた。
『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』
隣で大河内が軽く唾を飲む。
圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。
「集中しろ」
『分かってるよ』
「これが終わったら、考えてやってもいい」
『本当?』
「ああ、本当だ」
『約束だよ』
「ああ、約束だ」
『うん、私頑張る。頑張るよ』
何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。
「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」
◇
汀は、古い日本家屋の中に立っていた。
床に、立っていた。
「うわっ!」
小さく叫び声を上げ、汀は真下に落下した。
ドタン、と受身を取ることも出来ずに、体をしたたかに打ちつけ、彼女はしばらくうずくまって、痛みに耐えていた。
『どうした?』
圭介の声がヘッドセットから聞こえる。
汀は息をついて、腰をさすりながら起き上がった。
「ちょっと失敗しただけ。何でもない」
そこは、上下が逆になった世界だった。
床が天井の位置にある。
反対に、天井が床の位置にある。
しかし、家具や電灯は、重力に逆らって上方向に固定されていた。
汀だけが、家屋の中、その天井に立っている。
先ほどは床の位置から落下したのだ。
息をついて周りを見回す。
タンスに、大きなブラウン管型テレビ。
足元の電球の周りには虫が飛んでいる。
障子は開いていたが、その向こう側は真っ白な霧に覆われていた。
そこは居間らしく、頭上にテーブルと座布団が見える。
奇妙な光景だった。
今にも家具が天井に向けて『落ちて』きそうな感覚に、汀は少し首をすぼめた。
「ダイブ完了。でも、良くわかんない」
『分からないってどういうことだ?』
「煉獄に繋がる通路じゃないみたい。トラウマでもないし。普通の、通常心理壁の中みたいだよ」
『何か異常を探すんだ』
「上下が逆になってるだけ。それくらいかな」
何でもないことのように汀は言うと、天井に立った。
そして彼女は、這うようにしてテレビの方に近づくと、頭上の床から垂れ下がるようになっているそれに手を伸ばした。
何度かピョンピョンとジャンプし、スイッチをやっと指で押す。
さかさまになっているテレビの電源がつき、砂画面が映し出された。
しばらくして勝手にチャンネルが変わり、汀の顔が映し出される。
「……?」
首をかしげて、さかさまに映っている自分のことを、彼女は見た。
黒い画面に、汀が立っているだけの映像。
またしばらくして、画面の中の汀の首が、パンッと音を立てて弾け飛んだ。
首のなくなった彼女の体が、グラグラと揺れて、無造作に倒れこむ。
汀は冷めた目でそれを見ると、手を伸ばしてテレビの電源を切った。
「訂正。通常心理壁じゃない。ここ、異常変質心理壁だ。H型だね」
『知ってる。そこから出れるか?』
「何で知ってるの?」
汀の質問に答えず、圭介は続けた。
『この患者は普通じゃないと言っただろ。中枢を探してくれ』
「……分かった」
汀がそう言った時だった。
ゴロゴロゴロゴロ……ドドォォーンッ! と、雷の音があたりに響いた。
「ひっ」
雷が怖かったのか、汀は息を呑んで体を硬直させた。
そして気を取り直して障子の向こうを見る。
パタ……パタタタタタタ……! と、連続的な音を立てて、何かが下から上に、『降って』きた。
それは、血液のように赤かった。
否。
血液だった。
上下がさかさまになった空間の外で、下から上に、血の雨が降っている。
それは途端に土砂降りになると、たちまちゴーッという耳鳴りのようなスコールに変わった。
汀の頭の上で、床下浸水したかのように、溜まった生臭い血液が、家屋の中に進入してくる。
狭い部屋の中、血液の波は一気にタンスやテレビを飲み込んだ。
テレビの電源が勝手につき、そこからけたたましい笑い声……男性の、引きつった痙攣しているような声が響き渡る。
汀は、頭の上から迫ってくる血だまりを見上げ、足下の天井を蹴って、障子に向かって走り出した。
その途端だった。
ぐるりと視界が反転し、彼女は、入ってきた時と同じように、血の海の中に頭から突っ込んだ。
上下さかさまになっていた空間が、突然元に戻ったのだ。
床が下に。
天井が上に回転した。
小さな体を動かし、汀はもったりとした血液を掻き分けて顔を出し、息をついた。
しかし、ぬるぬると血液は彼女の体を沈み込ませようとする。
それに、どんどん血液は家屋の中に進入して、かさを増してきていた。
汀は成す術もなく、血の海に飲み込まれた。
◇
気づいた時、彼女は一面の花畑の中に横たわっていた。
「……ゲホッ、ゲホッ!」
激しくえづいて、飲み込んでしまった臭い血液を吐き出す。
体中血まみれだ。
『汀、大丈夫か? 返事をしてくれ』
圭介の声に返そうとして、汀は自分を囲んでいるつたに手を伸ばし
「痛っ!」
と言って手を引っ込めた。
彼女がいたのは、真っ赤な薔薇が咲き誇る、一面の薔薇畑だった。
無数の棘がついたツタに囲まれ、彼女は起き上がろうとして、ビリビリと病院服のすそが破れたのを見て、舌打ちをした。
「……攻撃性が強すぎる」
『それが痴呆症の特徴だ。理性の部分のタガが外れてるからな』
「寒い……」
肩を抱いた汀の頭上、そこからプシュッ、と言う音がした。
良く見るとそこは広いビニールハウスで、天井にはスプリンクラーがついている。
そこから、勢い良く血液が噴出した。
たちまち豪雨となり、痛いくらいに汀の体を、生臭くて生ぬるいモノが打ち付ける。
たまらず、汀は足を踏み出して、薔薇の棘で全身を切り刻まれるのも構わず、走り出した。
スプリンクラーが強すぎて、息も出来ない。
『汀、何があった!』
「大丈夫! 何でもない!」
悲鳴のように答えると、彼女は近くの薔薇の茂みに飛び込んだ。
僅かに血の豪雨が防げる場所に、体中を切り刻みながら入り込み、小さくなって震える。
とても寒かった。
「何でもない……大丈夫。私やれるよ……」
か細く、ヘッドセットにそう言う。
圭介は一瞬沈黙してから、言った。
『頑張れ。俺はお前を、応援してる』
「分かった……」
頷いて、汀は近くの薔薇を手にとって、小さな手が傷つくのも構わず、それを毟り取った。
そして大きな棘を、自分の左腕、その手首につける。
グッ、と力を込めると、棘は簡単に柔肌にめり込み、たちまち汀の腕から、ものすごい勢いで血が溢れ出した。
痛みに顔をしかめながら、彼女はビニールハウスの地面……血が溜まってきたそこに、自分の血を垂らした。
ジュゥッという焼ける音がして、汀の血が当った場所が蒸発した。
左腕を掴み、血を絞り出す。
「そんなに血が好きなら……好きなだけ飲ませてあげるわよ。好きなだけね!」
もう一度汀は、自分の腕を棘で切り刻んだ。
ボタボタと血が垂れる。
汀の足元、蒸発した空間から、白い光が漏れ出した。
それが円形の空間に変わり、真っ白い光を放ち始める。
汀は、棘を掻き分けてそこに飛び込んだ。
◇
病院服も破り取られ半裸で、体中に切り傷をつけた状態で、汀は高速道路に横たわっていた。
のろのろと起き上がり、空を見上げる。
曇り空で、黒い雲があたりに広がっている。
また血の雨が降るのも、時間の問題のようだ。
『死んじゃえばいいのに』
そこで、何も走っていない高速道路に、子供の声が響いた。
『お爺ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに』>
別の男性の声がした。
『お爺ちゃんは、死んだ方が幸せなのかもしれないよ』
『もうお爺ちゃんは、元にもどらないの?』
『お爺ちゃんは、幸せな世界に行ったんだよ』
『だから、ね』
『現実の世界の、この体は、さよならしよう』
キキーッ!
ブレーキの音が聞こえる。
汀は、慌てて振り向いた。
自分めがけて、巨大なトラックが迫ってくるところだった。
避けようとしたが、体が動かない。
小さな体は、ブレーキをかけたトラックにいとも簡単にはねられ、数メートル宙を待ってから、糸が切れたマネキンのように地面に崩れ落ちた。
『汀!』
圭介の声が聞こえる。
汀は、したたかにコンクリートに打ち付けた頭から血を流しながら、ぼんやりと目を開いた。
そして、はねられた後だというのに、のろのろと起き上がる。
腕と足が異様な方向に曲がっており、満身創痍にも程があると言った具合だった。
トラックの運転席には、誰もいない。
今は停まっているそれを見て、彼女はゆっくりと振り返った。
ケタケタと、写真で見た壮年男性が笑っていた。
十メートルほど離れた場所に直立不動で立って、目だけは笑っていない顔で、笑っている。
ポツリ。
また、血が降ってきた。
汀は、荒く息をついて、彼に向かって口を開いた。
「……あなたに、輸血が出来なかった」
か細い声だった。
「事故に遭ったあなたは、宗教上の理由で輸血をしてもらえなかった」
ケタケタと男が笑う。
「だから、あなたは狂ってしまった」
血の雨が強くなった。
「麻痺が残った体で、あなたは段々と夢の世界に逃避するようになっていった」
汀は、男に向けてズルリと足を引きずった。
あたりに豪雨がとどろき渡る。
汀は、男の前に時間をかけて移動すると、その焦点の合わない瞳を見上げた。
そしてさびしそうに口を開く。
「あなたが探しているものは、もうどこにもないよ」
男は、いつの間にか笑っていなかった。
真正面を凝視している彼に、汀は続けた。
「元になんて戻れない。一度狂ったら、狂い尽くすしかないんだよ。この世は」
男が手を振り上げ、汀の頬を張った。
何度も。
何度も。
汀は殴られながら、悲しそうな顔で男を見上げ、そしてその手を、折れていない方の右手で掴んだ。
「でも、そんなのはさびしすぎるから」
男の目が見開かれる。
「私が、狂い尽くすことを、許してあげる」
血のスコールの中、汀は男を引き倒した。
そしてその上に馬乗りになり、まだパックリと開いている自分の左腕の傷口を彼の口に向ける。
ポタポタと、汀の血が、男の口に入った。
男が悲鳴を上げて、滅茶苦茶に暴れる。
それを押さえつけ、汀は血を彼の口の中に絞り出した。
しばらくして、徐々にスコールが止んできた。
やがて雲が晴れ、空に青い色が見えてくる。
晴れた空の下、汀は力なく横に崩れ落ちた。
男は、どこにもいなかった。
彼女はボロボロの体で、ヘッドセットのスイッチを操作して、呟いた。
「治療完了……目をさますよ」
◇
「三島寛治。六十九歳。高速道路で、車から転落。その後、病院に運ばれるも、家族に宗教上の理由で輸血を拒否され、十分な治療が出来ずに体に麻痺が残る。後にアルツハイマー型痴呆症の悪化と自殺病を併発……か」
大河内は資料を読み上げ、それを圭介に放った。
「もっと早くこの資料を見つけてれば、ダイブは初期段階で成功してたんじゃないか?」
「それを汀に見せたのは、ただ単なる気まぐれだよ。規定概念がダイブに影響すると、余計な状況を招く恐れがあるからな」
「それにしても……やはり、見せるべきだったと俺は思う。七回もダイブする必要はなかったんだ」
汀の部屋で、大河内は立ったまま、すぅすぅと寝息を立てている彼女を見下ろした。
「ここまで負担をかけることもなかった」
「負担? 何を言ってるんだ」
圭介はピンクパンサーのコップに入れた麦茶を飲んで、続けた。
「仕事だよ」
「お前……」
大河内が顔をしかめて言う。
「口が過ぎる」
「そういう性格なんだ。知ってるだろ?」
「汀ちゃんにこれ以上負担をかける治療を行っていくっていうのなら、元老院にかけあってもいいんだぞ」
「脅しか?」
「ああ」
「…………」
少し沈黙してから、圭介は息をついた。
「やるんならやれよ。前みたいな失敗を、繰り返したいんならな」
「…………っ」
言葉を飲み込んだ大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。
「結果が全てだろ。所詮。元老院だって分かってるはずだ。今回のダイブだって、アメリカの症例二件を含めなければ、日本人で初のアルツハイマー型痴呆症患者の治療成功例として登録されたんだ。褒められはすれど、怒られるいわれはないね」
「人道的な問題というものがある」
「人道的……ね」
圭介はFAXの方に近づいて、資料を手に取った。
「じゃあ、最初からやらなければ良かったと、お前はそう言うのか?」
「ああ、そうだ」
「助けなければ良かったというのか?」
「助ける? お前、自分が何を言っているか分かってるのか?」
大河内が声を荒げた。
「自殺病を治しただけで、アルツハイマーは治っていない。それが、患者の幸福に繋がっているとでも言いたいのか!」
胸倉を掴み上げられ、圭介は、しかし柔和な表情のまま口を開いた。
「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれない。そういう病気なんだ。知ってるだろ?」
「俗説だ」
「じゃあ逆に聞くが、お前はあのまま、死なせてやった方が患者のためになるとでも言いたいのか?」
「…………」
「なぁ大河内」
圭介は大河内の手をゆっくりと下に下ろし、麦茶を飲んでから言った。
「俺達は医者だ」
「…………」
「そしてこの子は、道具だ」
「…………」
「それ以上でも、それ以下でもない」
大河内は少し沈黙してから、小さく言った。
「なら何故、ここまでする?」
汀の部屋を見渡す。
最新のゲーム機、雑誌、漫画、それらが所狭しと置かれた部屋の中で、圭介は肩をすくめた。
「必要だからさ」
「それだけとは、私にはどうも思えないのだがね」
「皮肉か?」
「それ以外の何かに聞こえたのなら、多分そうなんだろう」
大河内は息をついて、圭介に背を向けた。
「また来るよ」
「出来れば来ないで欲しいんだけどね」
「それは無理な相談だ」
大河内はドアに手をかけ、そして言った。
「私はその子の『父親』でもあり、何しろ『恋人』でもあるんだからな」
「…………」
圭介はそれに答えなかった。
◇
びっくりドンキーの前と同じ席で、汀はゆっくりとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その頭が、眠そうにこくりこくりと揺れている。
圭介はステーキを口に運んでから、汀に声をかけた。
「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
「久しぶりのお外だもん……無理なんてしてないよ……」
しかし眠そうに、汀は言う。
「この後、本屋さんに行ってね、ゲームセンターに行ってね…………ツタヤにも行って…………」
「そんなに回れないだろ」
「……何でも言うこと聞いてくれるって言ったのは圭介だよ……」
息をついて、圭介は手を伸ばして、汀の前からパフェをどけた。
「とりあえず、店を出よう。一旦車で休んだ方がいい」
「うん……」
頷いた汀を抱きかかえ、車椅子に乗せる。
「高畑様、お帰りですか?」
オーナーが進み出てきてそう聞く。
圭介は頷いて、苦笑した。
「この子がもう限界でしてね。会計は、後ほど」
「かしこまりました」
頷いた彼から、圭介はもうまどろみの中にいる汀に目を移した。
汀は、こくりこくりと頭を揺らしながら、小さく呟いた。
「圭介……」
「ん?」
「あのね……あのね…………」
少し言いよどんでから、とろとろと彼女は言った。
「ずっと、考えてたの……」
「何を?」
「何も分からないで死ぬのと……何も分からないで生きるのって……どっちが正解なのかな……?」
「…………」
「結局何も分からないなら…………何も出来なかったのと、同じじゃないかな…………」
圭介は無言で車椅子を押した。
そして店員達に見送られながら、駐車場に向かう。
「……俺にはまだ、よく分からないけど」
彼はそう言って、車のドアを開けた。
「生きていた方が、多分その方が幸せなんだろうと思うよ」
「…………」
「たとえ何も分からなくても、その方が……」
寝息が聞こえた。
彼は、眠りに入っている汀を見下ろし、息をついた。
そして小さく呟く。
「幸せだと、思うよ」
その呟きは寂しく、かすかな風にまぎれて消えた。