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第18話 お釈迦様

赤十字病院の会議室に集められた医師達が、全員暗い表情で何かを考え込んでいる。

それを見回し、ジュリアが口を開いた。


「海外からのマインドスイーパーの協力をとりつけることができました。この機会に、各所の赤十字病院協同で大規模な治療を開始します」

「これでやっと一安心か……」


老人の一人がそう呟くと、医師達と反対側の席の老人達が、口々に安堵の呟きを発して顔を見合わせた。


「しかしシステム復旧の目処が立っていない以上、安易に治療を行うのは危険です! まだテロリストの排除にも成功していないんですよ!」


大河内が声を荒げて口を開く。

彼と反対側の席で、圭介が睨み殺さんばかりの視線を、大河内に向けていた。

ジュリアが冷静な目で大河内を見て、口を開く。


「対スカイフィッシュ変種用のマインドスイープ部隊も編成済みです。常時アクセス可能な環境を構築し、テロリストの侵入が確認でき次第送り込みます」

「くっ……」


歯噛みした大河内に、元老院の一人が静かに言った。


「大河内君。システムの起動はまだ早すぎたんだ。マインドスイープの完全な機械化は、理論的には可能だが、時代がまだそれに追いついていないのかもしれない」

「何をおっしゃいますか! システム化は十二分に可能なはずだ!」

「冷静になりたまえ」


大声を上げた大河内の声を打ち消し、老人は続けた。


「君の報告書には目を通させてもらった。ナンバーIシステムの起動、運用に際して、正体不明の致命的なエラーが三千九十八箇所も発生していたそうではないか。そんな不確定な代物に、赤十字病院の名を冠して治療を任せるわけにはいかんな……凍結だ」

「エラーはプログラムにはつきものです。それに、ナンバーIシステムは学習プログラムを組み込んであります。一度エラーを起こした問題は即急に解決して……」

「聞こえなかったか。ナンバーIシステムは凍結だと言ったのだ」


老人がゆっくりと繰り返す。

安堵の色を浮かべる医者もいたが、殆どが暗い顔をしていた。

大河内が言葉を飲み込んで、腕組みをして俯く。

そこで圭介が口を開いた。


「つきましては政治的、医療的に今後重要なポストとなりえる患者を優先的に治療しようと思うのですが、宜しいでしょうか」


元老院の老人達は表情を変えなかったが、医者達は違った。

色をなして、顔色を変えて圭介を見た者もいる。

圭介は薄ら笑いのような微妙な表情を浮かべながら、それを見回して続けた。


「何、私の保有しているマインドスイーパーの弾には、限りがあるもので」

「しかし現在、高畑汀、片平理緒という二人の特A級スイーパーは、システムへの干渉とテロリストとの交戦で行動不能になっていると聞く。どうするつもりだね?」


老人に聞かれ、圭介は横目でそれをみてから手元の資料に視線を落とした。


「フランソワーズを使わせていただきます」

「ほう……フランソワーズ・アンヌ=ソフィーか。フランス赤十字が首を縦に振るとは思えんが」

「振ります。いついかなる場合でも、マインドスイープには『本人』の意思許諾が必要になるはずです。今回の協力は、本人の強固な意思による、自主的な要望です」

「解せんな……」


別の老人が押し殺した声を発する。


「だが……君がフランソワーズ君を使って治したい患者とは一体誰だね?」

「話が早くて助かります」


そう言ってから、圭介は資料をテーブルの上に放った。


「患者の名前は白坂純一。重度の自殺病を発症し、現在七日目。放っておけばあと一両日中に死に至ります」

「しかし……」


そこで黙って聞いていた医師の一人が口を開いた。


「他にも重篤な患者は多数いる。高畑医師、あなたが今仰った患者は、私達が知らない一般外来の患者だ。ここは赤十字病院に急患で運び込まれた患者を優先すべきではないのか?」

「……私に、あなた方に合わせる道理はないわけでして」

「口が過ぎるぞ!」


ドン、とテーブルを叩いて別の医師が怒鳴り声を上げる。


「……先程も言った通り、協力者であるフランス赤十字のA級マインドスイーパー、フランソワーズの自由意志を尊重した結果です」


圭介がゆっくりとそう言うと、テーブルを叩いた医師が怒鳴った。


「どうせお前の誘導だろう!」

「静粛に」


そこでジュリアが手を叩いて場の注目を集めた。


「世界医師連盟の承諾も、既に取り付けてあります。高畑医師のチームに、まず私達は協力することになります」

「何だと!」


医師達が色めきだった。

明らかに敵意を向けている者もいる。


「モグリ医者風情が、我々よりも優先されるというのか!」


医師の一人が大声を上げると、それに同調する声が次々に上がった。

圭介はそれに興味が無さそうに小さく欠伸をすると、鞄からiPadを取り出した。

そして電源をつけて、表示されたカルテに目を通す。


「失礼。最近は紙のカルテですと偽装される恐れがありましてね。世界医師連盟から、今回の患者に関しての資料は全てデータで送られてきています」


周囲のざわめきを完璧に無視して、圭介は続けた。


「白坂純一、四十五歳。重度の不眠症を患っている患者です。投薬により眠りを深くし、いわゆる『夢』を見ないように調整されているそうです」

「統合失調症の治療薬を投薬されているのか?」


元老院の老人がそう問いかけると、圭介は頷いてカルテを読み上げた。


「強度のジプレキサなどが投薬されていますね。抗鬱剤に加え、アナフラニールなども試されているようです」

「一応聞いておこう。この非常事態に、何故その患者なのだね?」


落ち着いた声の老人に聞かれ、圭介は一拍おいてからiPadをテーブルに置いた。


「この患者は、対マインドスイーパー用の精神防壁構築訓練を受けている、『初期治療』の生き残りです」


彼がそう言うと、驚きのざわめきが広がった。

戸惑った声で老人がそれに返す。


「何だと……? ということは、赤十字病院の『実験』の……?」

「そうなりますね」


興味が無さそうに言って、圭介はカルテにまた視線を戻した。


「外部に漏れると困る話だとは思いますが……恐れながら、元老院のご老人方や日本赤十字病院の方々は、これから慎重に発言された方が良い。私は世界医師連盟の依頼で動いています」


そう言って圭介はiPadを操作した。

そして全員に見えるように、画面を表に向ける。

通話中のアイコンが点滅していた。

それを見て、場の全ての空気が止まった。


今までの会話は全て、どこの誰かと分からない人に対して流されていたことになる。

いや。

分からない人ではない。

医師も、元老院の老人達も、全員が察した。


「……申し遅れましたが、世界医師連盟の会長、アルバート・ゴダック氏と通話が繋がっております」


圭介は薄ら笑いを浮かべてそう言ってから、iPadの画面を見えるように、スタンドでテーブルの上に立てかけた。


「さて、『話し合い』を続けましょうか……」



「高畑汀と片平理緒はまだ意識が戻らないの?」


不安げにそう問いかけられ、圭介は松葉杖を鳴らしてから答えた。


「汀はさっき目が覚めた。しかしダイブできるかどうかは危ういな……夢傷むしょうが体中に開いてる。精神の傷つきようがかなり激しい」


※夢傷=夢の中で傷ついた場所が、痣になったり皮膚が裂けたりすること。


「片平理緒は?」

「集中治療室に移動させた。もう、意識は戻らないかもしれないな」


淡々とそう言った圭介を睨みつけ、ソフィーは押し殺した声を投げつけた。


「あなたは人間じゃない……高畑汀と片平理緒が可哀想だわ!」

「可哀想? 何がだ?」


圭介は壁に寄りかかって息をつき、鼻を鳴らした。


「俺は自由意志を尊重しているだけだ。君達マインドスイーパーには、今まで何一つとして強制したことはない」

「よく言うわ、詭弁よ! 私達が子供であることをいいことに、あなたは自分にされたことと同じことを返しているだけよ!」


ソフィーに刺すように言われ、圭介は口をつぐんだ。

そしてポツリと、小さな声でそれに返す。


「ああ……そうかもしれないな」

「…………」


言葉を飲み込んだソフィーに資料を投げて渡し、圭介は軽く咳をしてから言った。


「とりあえず、汀に会わせよう。同じ現役マインドスイーパーの君の方が、あいつがダイブ可能かどうか判断できそうだ。どうも……俺にはよく分からない」

「分からない……?」

「ああ。俺にはどうも、君たちのことはよく分からなくてな」


自嘲気味にそう言って、圭介は松葉杖をついて病室の外に向けて歩き出した。



汀は、腕中にいくつも点滴を刺され、鼻にカテーテルを深く差し込まれた状態で、ぼんやりと宙を見ていた。

しばらくして、病室のドアが開いて圭介が入ってきたのを見て、言葉を発しようとして失敗する。

鼻から入ったカテーテルが喉に到達しており、喋ることができなくなっているのだ。


「また吐くぞ。落ち着け」


圭介に言われて、汀は息をついた。

体中に膏薬が貼り付けてあり、包帯には血が滲んでいる。

交通事故に遭った後のような無残な姿になっている汀を見て、ソフィーが息を飲んだ。


「酷い……」


そう呟いて、彼女はキッ、と圭介を睨んだ。


「ダイブできるわけないじゃない! 彼女は重病人よ、夢傷に冒されすぎてる!」

「見ただけでよく分かるな。さすが天才は違う」

「からかわないで! どういう神経してるの!」


ソフィーが無事な右手を伸ばして、視線を向けようとしない圭介の服の袖を掴みあげた。


「あなたこの子の保護者でしょう! 私は、彼女にダイブを強制するようなら、医師連盟にありのままを報告するわよ!」


汀が、そこで軽くえづいて指を伸ばした。

圭介がiPadを操作してあてがうと、汀は表示されたキーボードを指で操作し始めた。

程なくして彼女の意思を表示する書き込みが出来上がる。


『ダイブできるよ。次の患者は?』

「何を言ってるの!」


ソフィーがヒステリックに叫んで、汀に覆いかぶさるようにして大声を上げた。


「拒否権を行使しなさい! このままじゃ、あなたは殺される!」

『私はダイブできる。精神世界なら、普通に動ける』

「そういう問題じゃ……」

『邪魔をしないで』


表示された言葉を見て、ソフィーは口をつぐんだ。

そして圭介の服から手を離し、疲れたように椅子に腰を下ろす。


「……邪魔をしているわけじゃないわ。気に障ったなら、謝る」

『心配してくれてありがとう。でも動けるから、大丈夫』


時間をかけて文字を入力し、汀は圭介の方を見た。


『痛み止めをちょうだい』

「これ以上は投与できない。眠れなくなるぞ」

『いいよ』

「駄目だ」


端的に汀の言葉を打ち消し、圭介はため息を付いて頭をガシガシと掻いた。


「ソフィーにも言ったが、俺にはどうも、お前がダイブできる状態かどうか判断がつかない。ちなみに、赤十字の医師の見解は、お前は二ヶ月間絶対安静だ」

「…………」


無言を返した汀を見て、圭介は続けた。


「死ぬぞとは言わない。それは覚悟の上のことだろうからな。だが、俺から一つ言わせてもらうとすれば……お前はこのままではスカイフィッシュになってしまう可能性がある」

「ど……どういうこと?」


ソフィーが声を震わせて呟くように聞く。

圭介は彼女を横目で一瞥してから、投げやりにそれに答えた。


「何という事はない。過去に同じような症例があっただけだ」

「人間がスカイフィッシュになるとでもいうの? 意識だけが肉体から切り離されて、夢世界の中で生きるだけの存在になるとでも?」

「その通りだ。人間はスカイフィッシュに変わる」


何でもない事のように圭介は言うと、ソフィーを意外そうな顔で見た。


「天才ならとっくに気づいていると思っていたがな」

「馬鹿にしないで! それが事実だとしたら、マインドスイープを続けることで、悪夢の元を量産していることになるじゃない!」

「その通りだ。スカイフィッシュは、元々はマインドスイープさせられすぎた人間が、『ある記憶』を共有することで変質したものだからな」


唖然としたソフィーに圭介は続けた。


「ナンバーIシステムは、その応用だ。人工的にスカイフィッシュに相当するプログラムを造り出したに過ぎない」

「スカイフィッシュは……何かの策謀で造られた、人工的なものだとでも言いたいの?」


ソフィーにそう問いかけられ、圭介はしばらく沈黙してから汀に向き直った。


「どうするんだ、汀。一気に死ねるなら余程いい。死ねなくなるぞ」


端的にそう聞かれ、汀は充血した目をiPadに向けた。

そして指先を緩慢に動かして文字を打ち込む。


『私は人を助けるよ。スカイフィッシュにもならない』

「この通りだ」


肩をすくめた圭介に、ソフィーはしばらく考えこんでから息をついて、言った。


「……分かったわ、高畑汀。あなたの意思を尊重して、次のマインドスイープに同行してもらうわ」

「いいのか?」

「そういう風に誘導したいんでしょう。どういう作意があるか分からないけど、私も死にたくはないから」


ソフィーはそこで、何とも言えないやるせないような視線を汀に向けた。


「ごめんね……」


聞こえるか聞こえないかの声でそう呟くと汀が端的にそれに返した。


『気にしないで。いいよ』

「……それじゃ、今回のダイブについて説明する。危険地帯へのダイブになるから、十分注意して聞いてくれ」


圭介が、感情を感じさせない瞳で二人を見る。

ゾッとする程の無表情だった。


「二人共、再起不能になられては俺も困る。だから今回は防衛策を張らせてもらう」

「防衛策?」


怪訝そうにソフィーに問いかけられ、彼は頷いて続けた。


「好きな武器を持たせてあげよう」



ソフィーは目を開いた。

そこは、波にゆらゆらと揺れるボートの上だった。


水が苦手な彼女が、思わず身を固くして中央のマストにしがみつく。

病院服に裸足。

いつもの夢世界での格好だ。


ボートは誰も操縦していないのに、エンジンがかかっていてゆっくりと進んでいる。

青い海だった。

さんさんと照りつける太陽が薄着の体を焼く。


「……ダ、ダイブ完了。夢世界への侵入に成功したわ」


ヘッドセットを操作して引きつった声でそう言ったソフィーに、マイクの向こうの圭介が口を開いた。


『どうした? 状況を説明してくれ』

「ボートの上にいるわ。どこまでも海が続いてる。不眠症って聞いてたけど、この抑揚のなさは、まだ夢に入りかけててレム睡眠状態ね……麻酔が弱いんじゃないかしら」

『すぐに麻酔の投与量を増やす。ノンレム睡眠……つまり「夢」に入る前に、汀の治療を頼む』

「ええ、分かったわ」


頷いてソフィーはボートの上を見回した。

沢山のブルーシートにくるまれた荷物が積んである。

今回のダイブに際して、かなりの数の人間が動いていた。


実際にダイブしているのは汀とソフィー二人だけだったが、日本赤十字病院中の医師による情報機器の管制。

そして、テロリストの襲撃に備えて海外で多数の対スカイフィッシュ用の訓練をされたマインドスイーパーが待機させられていた。

テロリストの侵入が感知されたら、即回線を通して夢の中に送り込まれる仕組みになっている。


それだけではなかった。

今回は、ダイブに至るまで実に六時間半もの準備時間がかかっている。

夢の世界の座標軸を安定させ、ジュリア達特殊なマインドスイーパーがダイブ。

そして、患者の夢の中に、代わる代わる変質させた「道具」を設置するというものだった。


多数の機銃がブルーシートの中から覗いている。

武器もあったが、ソフィーが何よりまず飛びついたのは、大きな救急セットだった。

そして彼女はセットを引きずりながら、ボートの隅で弱々しく丸くなっていた汀に近づいた。

小白がボートの隅で丸くなって眠っている。


「高畑汀、意識はある? 応急だけど処置をするわ」


そう呼びかけると、汀は熱で真っ赤になった顔でソフィーを見た。


「ダイブ……成功したの?」

「ええ。傷を見せて。夢の中で治療しなきゃ、現実のあなたの夢傷は、いつまで経っても治らないわ」

「うん……」


体を動かして、小さく悲鳴を上げた汀の体を見て、ソフィーは息を飲んだ。


「何……これ……」

『どうした?』


圭介に問いかけられ、ソフィーは歯噛みしてそれに答えた。


「簡単に言うわ。夢傷が化膿してる。このままじゃ腐って、現実の体の内臓疾患に結びつく危険があるわ」

『その程度のことは分かってる。何のために君をダイブさせたと思ってる? 道具はあるはずだ。患者が夢を見始めるまで、汀の処置を済ませるんだ』


舌打ちを押しとどめ、ソフィーは簡潔に圭介に返した。


「……了解」


汀の傷は、殆どが膿んで真紫の膿に汚れていた。

まだ血が流れ落ちている傷もある。


夢の中でここまで傷ついているのだ。

動けていることが……いや、現実世界でまだ「生きて」いられていることが不思議な程の傷だった。


「どうしてこんなになるまで放置していたの……!」


ガーゼに動く片腕だけで消毒薬を吹き付け、ソフィーが膿を拭き取り始める。

消毒薬が当たった傷口が、ジュッと音を立てて白い煙をあげる。

汀は押し殺した声で悲鳴を上げた。


「我慢して」


ソフィーが短く命令し、次々と膿を拭き取り、傷口を露出させていく。

体中に開いた刺し傷が潮風に触れ、たまらず汀は、体を断続的に痙攣させながら、しゃっくりのような声を上げた。


ソフィーが消毒薬とガーゼを大量に消費しながら、汀の様子に気をかけることなく、機械的に処置をしていく。

キシロカインの注射液を汀に投与し、ソフィーは口も使って深い切り傷を縫い始めた。


「すぐに済むから……」


局部麻酔が効いてきたのか、汀の呼吸が安定してくる。


「早くして……」


汀に必死に懇願されながら、ソフィーはあらかた傷を縫い終わり、膏薬を塗りつけたガーゼをそれぞれの傷口に当てた。

そして強く包帯を巻き始める。

程なくして、体中に包帯を巻いた姿で、汀は両目に大きく涙を溜めながら息をついた。


「よく耐えたわ。あなた、本当に痛みに対して鈍感なのね。ショック死しててもおかしくないのに」


呆れたようにソフィーが言う。


『終わったか?』


圭介に問いかけられ、ソフィーはため息をついてそれに答えた。


「キシロカインを投与したから、しばらくはうまく動けないはずよ。そうじゃなくても、骨に達してる傷もある。動けない、じゃなくて『動かしちゃいけない』状態ね」

『……聞いたか、汀。戻ってこい』


圭介が少し考えこんでから汀に呼びかける。

しかし彼女は、額に浮いた汗を手で拭ってから、ソフィーの服の裾を手で掴んだ。


「痛み止めを打って」

「馬鹿なことを言わないで……」


それを振り払って、ソフィーは軽蔑するように汀を見た。


「痛み止めを打っても、夢の中の傷よ。根本的な解決にはならない」

「大丈夫。痛みさえなければちゃんと動ける……!」

「分からない子ね……足手まといだって言ったの。あなたのエゴで、助けられる患者一人潰すつもり?」


ソフィーに鼻を鳴らされ、汀は口をつぐんだ。


「あなたの夢世界での治療は完了したわ。もうこの患者へのダイブは私に任せて、後退して頂戴」

「圭介、私に『T』を投与して」

『何……?』


思わず聞き返した圭介に、汀はヘッドセット越しに言った。


「要は脳が動けばいいのよね。私にクスリを投与してよ。そうすれば私が仕事を……」


パァン、と音がした。

ソフィーに頬を殴られた汀が、呆然として体を硬直させる。

次いで襲いかかってきた痛みに、彼女は悲鳴を上げて丸まった。


「いい加減にしなさい……!」


吐き捨てるように言って、ソフィーは続けた。


「私ね、そうやって自分だけがいい気分してる奴って一番嫌いなの。自分しか治せないとか、どうせそんなこと思ってるんでしょ!」


肩を抱いて痛みに震えている汀の前にしゃがみこんで、ソフィーは言った。


「これだけで動けなくなってるような状態で、何か助けになるとは思えないわ。ドクター高畑、患者が夢に入る前に、彼女の回線を強制遮断して」

『……分かった。汀、回線を切るぞ』

「嫌だ、戻らない!」


汀は引きつった大声を上げた。


『聞き分けてくれ。お前、本当に大変なことになるぞ』

「大河内せんせは? せんせと話をさせて!」

『…………』

「圭介!」

『分かった。今、替わる』


圭介が短く言って、通信を操作する。

程なくして、汀は通信の向こうから聞こえてきた大河内の吐息に、顔を輝かせて口を開いた。


「せんせ……せんせ! どうしてお見舞いに来てくれなかったの? 私寂しかった!」


彼女の声を受け、大河内はしばらく沈黙した後、静かに答えた。


『汀ちゃん、仕事中だ。私用なら、話は後で聞くよ』

「現実では私喋れないんだよ? せんせ、私せんせに聞きたいことがあるんだ」


汀は段々尻すぼみに小さくなっていく声で、しばらく迷った後言った。


「せんせは、私のこと嫌い? 嫌いになっちゃった? だから来てくれなかったの?」

『すまない、汀ちゃん。ダイブ中だ。通信を切る』

「せんせ!」

「高畑汀、いい加減に……」


彼女のヘッドセットをむしりとろうとしたソフィーの腕を、汀が不意に掴んだ。

そして荷物の中からサバイバルナイフを抜き出し、ソフィーを後ろ手に締めあげてから首にナイフを当てる。


「な……何を……」


青くなったソフィーに


「ごめん……ちょっと話をさせて」


と囁いて手を離してから、汀は続けた。


「私まだせんせのこと好きだよ、大好きだよ! だから、せんせが私をスカイフィッシュにしたいんだったら、私のことをシステムにしたいんだったら、私せんせの思う通りになるよ!」

『…………』


マイクの向こうで、大河内が絶句して言葉を失う。

汀はナイフを脇に構えて、腰を浮かせながら言った。


「だからせんせ、教えて? あなたの目的は何なの? 機関は、『GD』は何をしようとしてるの?」

『…………』


大河内は、しかし答えようとしなかった。

ブツリと音がして、通信が大河内から圭介に切り替わる。


「せんせ!」


大声を上げた汀に、冷静な圭介の声が刺さった。


『気が済んだか? 強制遮断するぞ』

「せんせとお話させて! 私には要求する権利がある!」

『ない。この状況ではお前の意思よりも患者の命が優先される。たくさんの人に迷惑をかけて、何をしてるんだお前は』


口をつぐんだ汀に、淡々と圭介は続けた。


『それに、大河内の身柄は現在医師連盟に更迭されてる。現場の指揮権は俺にある』

「そんな……」


言葉を失った汀に、ソフィーが言った。


「分かった? 何もかもが全て自分の思うとおりになるとは思わないことね」

「せんせは何も悪いことをしてないじゃない!」

『駄々をこねるな。大河内の行為は医師連盟規定に違反してる。これ以上干渉させるわけにはいかない。それに、お前はそれ以上のことは知らなくてもいい』

「…………」

『戻ってくると一言言えば、お前がさっき言った言葉は聞かなかったことにしよう』


取引とも言える言葉を聞いて、汀は歯を噛んだ。

しかしそこでソフィーが、ハッと顔を上げた。

そして青くなってヘッドセットの向こうに声を張り上げる。


「患者がノンレム睡眠に入るわ! それに何だか様子がおかしい!」


海が、段々と荒れ狂い始めた。

小さなボートがまるで木の葉のように、波の上をふらふらと揺れる。

小白がそこで目を開けて、汀の足に擦り寄った。

汀はサバイバルナイフを縁に突き立てると、小白を抱いて口の端をニィ、と歪めた。


「C型の異常変質区域だね」


ソフィーが悲鳴を上げてマストにしがみつく。

辺りにモヤのような白い霧が立ちこめ、たちまち周りが暗くなった。

汀はよろめきながらヘッドセットに手をやり、言った。


「私が、治してあげてもいいよ」

『どういう意味だ?』


圭介に問いかけられ、汀は喉を軽く鳴らして答えた。


「取引しようよ圭介。ソフィーじゃ、この患者を治療できない。いくら装備を持っても、未経験者一人で、対マインドスイーパー用の訓練をされた、不眠症患者の治療は無理だわ」

『…………』


沈黙した圭介に、ソフィーは唇を噛んで押し殺した声で言った。


「……やっぱり……何かあると思ったけど、最初からこの子を使うつもりで、私にこの子の治療をさせるためにダイブさせたわね!」

『俺は君達の自由意志を尊重している。何一つとして強制はしていない。不躾な物言いは止めてもらおう』


圭介は静かにそれに返すと、汀に向けて言った。


『……で、だ。お前から要求してくるとは珍しいな。確かにその患者は、特別な事情を持つ不眠症患者で、夢という空間それ自体が安定しない。物理法則が通用しないから、普通のマインドスイーパーでのダイブは無理だ。何だ? 気づいていたのか』

「私を誰だと思っているの」


馬鹿にしたように呟き、汀は続けた。


「大河内せんせを解放して。私がこの患者の治療に成功したら、せんせにかけた更迭を、圭介に責任をもって解いてもらいたいの」

『嫌だね。犯罪者の肩を持つほど、俺は落ちぶれてはいない』

「圭介の好き嫌いは聞いてないの。やるの? やらないの? ちなみに私は、せんせが助からないなら、別にこの患者が死んでも死ななくても構わないわ」

『そう来たか……汀、お前が今発言したことは、かなり重要なことだぞ。子供だからといって何でも言っていいというわけではない』

「私は子供じゃない!」


押し殺した声で叫んだ汀に、ソフィーがなだめるように小さな声で言った。


「高畑汀、患者の命を盾に取る行為は、テロリストと何ら変わらないわ。馬鹿な真似はやめて」

「私は自分の正当な権利を行使しているだけよ」

『やれやれ……厄介だな。まさかダイブ中にへそを曲げられるとは思わなかった』


圭介がため息をつき、しかし変わらない調子で続ける。


『……いいだろう。だが責任をもってその患者を完治させろ。他人に責任を要求するのなら、お前にも責任が発生する。その単純な理屈は分かるな?』

「…………」

『危なくなったら「T」を投与するが、それまでは何とか我慢しろ。ソフィー、気休めでいい。汀に痛み止めを投与するんだ』

「……分かった」


頷いて、ソフィーは揺れるボートの上で救急箱から取り出した薬を、汀の腕に注射した。


「……効かない」


呟いた汀に


「当たり前よ。時間差があるし、ただ痛みを拡散させるだけの薬よ」


と返し、ソフィーは波が治まってきたのを見て息をついた。

数秒後、フッ、と嵐直前の様相だった海から、映像をぶつ切りにしたかのように、静かな、波一つない大海原に変わった。


霧がだんだん引いていき、真っ暗な海が眼前に広がる。

空には星ひとつない、完全な暗闇だ。

汀が荷物の中から手探りでライトを取り出して光をつける。

そして前方を照らして、動きを止めた。


「気をつけて。その傷で海に落ちたりなんかすれば、確実にショック死するわ」


近づいてきたソフィーも前を見て息を呑む。

先端が見えないほど大きな、コンクリートと思われる壁が海を寸断していた。

とろとろとボートがそちら側に進んでいる。


「何これ……こんな巨大な拒絶壁、見たことない。まさか、これがこの人の心を守る障壁なの?」

「マインドスイーパーに対して、防御型の心理壁展開で侵入を防ごうとしてるね。でも人間の心だから、必ず穴があるはず」

「どうやってこれを越えて中に入ればいいのかしら……前の患者みたいに、パズルになってたら楽だけれど……」

「あの患者は、私達を誘い込んで殺す待機型の心理壁を持ってた。パズルはその、逃さないための一環ね。こっちのほうが単純な分楽だわ」


呟くように言って、汀はボートの先端がコンクリートの壁にコツンと当たったのを確認し、オールを持って歯を食いしばりながらボートを壁に横づけにした。


「どうするの? 完全に心への侵入を拒否されてる」

「何事にも偶然って言うことはないんだ。私達がこの場所に止まったのは、この患者の意思でもあるの」


汀はライトを口にくわえて、壁を手探りで触り始めた。

遠目だと分からなかったことだったのだが、壁には三十センチ四方くらいの穴が所狭しと開いていて、中には仏像が掘り込んである。

その不気味な光景に息を呑んだソフィーの耳に、圭介の声が響いた。


『患者のバイタル安定を確認した。ダイブのカウントダウンを開始する。二十分でどうにかしてくれ』

「ちょっと黙ってて」


汀が冷たくそう言って、近くの仏像を手でつかみ、引っ張る。


「これじゃないか……」


そう言って、また別の仏像を引っ張る。

しばらくそれを繰り返すと、不意にガコン、と言う音がして、反応した仏像がはまっていた穴が、ひとりでに開いた。


中は数メートル、トンネルのようになっているが……。

小さい。

三十センチ四方の穴しか開いていない。

体全部を通すには小さな穴を見て、ソフィーが舌打ちした。


「高畑汀、意味が分かる?」

「何となく。この人の職業は細工職人。多分伝統工芸品の……仏像かな、それを作ってる。仕事は好きだけど、仕事それ自体がトラウマになってるみたいね。奥さんを早くに亡くしてるみたい。それが原因かな……」


呟きながら、汀は背後をライトで照らした。


「どうしてそこまで……」


唖然としたソフィーが停止した。

彼女が悲鳴を上げてマストにつかまる。


背後の海に、何か巨大なモノが立っていた。

全長にして三百メートルは超えるだろうか。

身長百五十にも満たない彼女達にとっては、規格外の大きさだった。


『どうした?』


圭介に問いかけられ、汀が小さく笑いながらそれに答える。


「別に。心を守ろうとしてるガーディアンっていうの? それがいるだけ」

『障害は排除して進め』

「分かってる」


ソフィーが悲鳴を上げたのも無理はなかった。

巨大な影は、人間の形をしていたのだ。


いや。

違う。

背後に数十本の腕を生やした三面の化物。


千手観音のような姿をしたそれは、脇についている二本の腕、その指先にそれぞれじょうろのようなものを摘んでいた。


そこから水滴が海に落ちる。

すると、海がボコボコと沸騰をはじめ、たちまち周囲を真っ白な煙が覆った。

熱気で息をすることも困難になり、汀とソフィーは口を手で抑えて、ボートにしゃがみこんだ。


「高畑汀、一旦退却しましょう! あれが動き出したら、太刀打ち出来ないばかりか、このボートはすぐに熱湯に転覆するわ!」


ソフィーが悲鳴のような声を上げる。

しかし汀は首をふると、三百メートル近い巨体がゆっくりと足を踏み出しはじめたのを見て、面白そうに笑ってみせた。


「あはは、たーくんみたい」

「ちょっと、聞いてるの!」

「ちゃんとマスト掴んでなきゃ本当に落ちるよ」


端的に汀がそう言った瞬間、足を踏み出した千手観音の体に押された巨大な波がボートを襲った。

小さなボートが巨大な津波に飲み込まれる……とソフィーが体を固くした時だった。


「クリアできないゲームって結構あるけど、付け入る隙のない人間の心って、あんまりないんだよね」


汀はそう言って、襲いかかる熱湯の津波に、先ほど開いた穴から取り出した仏像を向けた。

仏像の顔に、女性の写真が貼り付けてある。


「いいの? あなたの奥さんは、私達を通してくれるつもりみたいだけど」


津波が、まるで映像を一時停止させたかのように止まった。

汀とソフィーに覆いかぶさる寸前で停止している。

汀は肩の小白を撫でてから続けた。


「時間がないから、相手をしてる暇がないの。追ってくるなら追ってきて」


彼女は仏像の手に当たる場所にはめ込まれた小さな瓶を摘みとった。

中には透明な液体が入っている。

それを半分口の中に流し込んで、汀はソフィーに瓶を押し付け激しく咳き込んだ。


ソフィーも、慌てて瓶の中身を口に流しこむ。

猛烈な苦味と、なんとも言えない臭みが口の中に広がった。

思わずえづいたソフィーの体が、みるみるうちに縮んでいく。


汀も同様だった。

数秒後、彼女達は十数センチほどの大きさになって、ボートの上に立っている小白の背中に乗っていた。


「ちゃんとつかまって。行くよ、小白」


ソフィーと小白に汀が言う。

小白がニャーと鳴いてジャンプし、コンクリートの壁の穴に飛び込んだ。

悲鳴を上げてソフィーが小白の毛にしがみつく。

そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。



汀とソフィーが目を開けた時、彼女達は座礁して横転した船の縁に転がっていた。

体の痛みに呻き声を上げている汀に、慌ててソフィーが近づいて助け起こす。


「高畑汀、しっかりして! やっぱり無理よ!」

『どうした? 状況を説明してくれ』

「ドクター高畑! 高畑汀だけでも強制遮断して! 無理よ、このままじゃ本当に死んでしまう!」

『汀は死なない。あとおよそ十五分で治療を完了させれば済む話だ』

「あなた……!」


一転して冷たい調子で断言した圭介に、ソフィーが息を呑む。

そして彼女は激高した。


「……あなた達はおかしい! ドクタージュリアも、ドクター大河内も、あなたも! 人の命を道具とも思わないあなた達はおかしい! そんなの医者じゃないわ。高畑汀、あなたも例外ではないわ!」


肩を掴まれて汀が悲鳴を上げる。

ソフィーは彼女の鼓膜が破れんばかりに大声を上げた。


「何のためにダイブするの? 自分の命や、大切な人の命や、大切なはずの命さえ大事に出来ない人が、何かを救えるとは、何かから救われるとは到底思えないわ。いいえそんなはずはない! あなた達は狂ってる! 狂ってる人が、狂ってることをやって、当たり前のように幸せやその結果を望むのは間違ってる!」

『ソフィー、時間がない。文句があるなら戻ってきた後聞こう』


圭介が淡々と言う。

絶句した彼女に、汀が冷たい視線を投げつける。


「離して」

「帰還しなさい。目の前で人が死ぬのを、医者として見過ごすわけにはいかない」

「分からない子ね……このままじゃ、あなたも死ぬよ」

「患者の命を助けてから死ぬわ」

「多分それさえも無理。無事に、あなたと私が揃って帰還するためには私の力が必要なはず。言い争ってる暇が惜しいわ」


彼女達が転がっていたのは、どこまでも広がる果てしない砂漠だった。

赤茶けた細かい砂が、風一つ吹かない平野に広がっている。


どこまでもどこまでも続く。

地平線が見えない。

天空にはメラメラと燃える火の玉が無数に浮かんでいた。


熱い。

暑い、のではなく熱い。

皮膚から白い煙が立ち登り始める。

小白が汀の肩の上で弛緩して、舌を出して細かく呼吸をはじめた。


日差しを遮るものが何もなく、風も吹かない状況だ。

熱気がダイレクトに皮膚を焼く。


「このままじゃ私達、こんがり焼かれて勝手に唐揚げになっちゃう」


汀がクスクスと笑いながら言う。

ソフィーは歯噛みして汀から手を離し、何か役立つものは無いかと横転した船の荷台を漁り始めた。


「逃げるよ。手を貸して」


そこで汀が鋭く呟いた。

え、とソフィーは呟きかけ、空を見て硬直した。


いきなり暗くなった、と思ったら、先程の千手観音がいつの間にか後ろに出現して、彼女達を見下ろしていたのだった。

両目からボダボダと褐色の血の涙のようなものを流している。

それが落ちた地面が、不気味な音を立てて真っ黒に沸騰した。


「ひ……」


スカイフィッシュに睨まれた時に似ていた。

ソフィーの体から力が抜け、失禁しそうに腰から下の感覚がなくなる。

震えて尻餅をつき、後ずさったソフィーの手を、汀がしっかりと掴んで引いた。


「早く! あれの目を見ちゃだめだよ!」


そこでハッとしてソフィーは手近なハンドガンを掴み、汀を支えて、よろめきながら走りだした。


「ど……どうしてあなたは平気なの!」


息を切らしながら問いかけたソフィーに


「……慣れた!」


と端的に返し、ソフィーは肩にしがみついている小白に言った。


「しっかりつかまってて!」


小白がニャーと鳴く。

ソフィーに支えられながら、汀は手に持った仏像の、もう片方の手に掴まれている小瓶を手に取った。


「これしかないの……?」


吐き捨てるように呟く。

それを横目で見て、ソフィーが走りながら口を開いた。


「さっきの……小さくなる薬?」

「うぅん。さっきのはなくなった。これは反対側の手に握られてたやつ」

「じゃあ……」

「この人はアリス症候群の可能性が高いね。ものの大小が分からないんだ。不眠症の副産物なのかどうかまではわかんな……きゃあ!」


そこで汀が、砂につんのめって前に倒れこんだ。

それを支えようとしたソフィーも足を取られて盛大に転がる。


「う……」


体中の痛みに硬直している汀が、しかし自分達を踏み潰そうと足を上げた千手観音を見上げる。

そしてソフィーが持っていたハンドガンを奪い取り、小瓶の中身を振りかけた。


「アリス症候群なら、逆にそれを利用してやればいいだけの話……!」


不思議の国のアリス症候群。


そう呼ばれている。

日常生活を送るにあたって、ものがいきなり大きく見えたり、小さく見えたりする疾患だ。


原因は脳の一部が炎症を起こしているせいだと言われている。

特に子供に起こりやすく、遠い記憶でそのような体験をしたことがある人も、少なくはないのではないだろうか。


酷い時には蚊が何十センチの大きさにも見えたり、逆に人の頭部がなくなって見えることもあるらしい。

汀が液体を振りかけたハンドガンが、次の瞬間、ぶくぶくと風船のように膨らんで膨張をはじめた。

そしてたちまち、車よりも大きな……戦車のようなサイズになって、ズゥン、と砂に沈み込む。


「唖然としてないで手伝って!」


汀に怒鳴られて、ソフィーが慌てて空に向けられた銃口から弾丸を発射せんと、一抱えほどもあるトリガーに手をかける。

汀とソフィー二人が力の限り引いて、そして撃鉄が降りた。


パンッ、という軽い音がした。

しかし音に反して、発射された人間大の銃弾は空気を裂いて飛んでいき、千手観音の足を貫通して空の向こう側へと抜けていった。


「うわ……」


小さく呟いた汀の目に、ぐらりと後ろ向きに倒れこんだ観音像が映る。

足の傷口からおびただしい量の血が垂れてきて、小白が瞬時に傘のような形状になり、汀とソフィーを守った。


血が当たった小白傘の表面が、ジュゥ、という音とともに白い煙を発する。

倒れこんだ千手観音は、しかしそのまま倒れたわけではなかった。

空中でみるみるうちに小さくなり、たちまち人間大にまで圧縮されて、ドチャリと地面に崩れ落ちる。


「お……終わり……?」


ホッとしたようにソフィーが呟く。

しかし汀は、巨大な銃口を千手観音に向けて動かそうと体に力を入れた。


「まだ……終わってない!」


彼女の体に巻かれた包帯に、ものすごい勢いで血が滲み始める。

汀の馬鹿力とも呼べる力に押されて、天を向いていた銃口が横にスライドして、千手観音の方を向いた。


「引き金を……」


そこまで汀が言った時だった。

倒れこんでいた千手観音の姿が消えた。


そして、反応できていなかった汀の体が宙を舞った。

実に五メートル近く放物線を描いて小柄な体が舞い、地面に叩きつけられる。

もんどり打って頭を押さえ、汀が地面を引っ掻いて悶え回る。


何が起こったのか、とソフィーが理解するよりも早く、砂煙を舞い上げながら千手観音が、車にも負けない勢いで移動するのが見えた。

空中を僅かに浮遊している。


時速にして九十キロ近くは出ているだろうか。

観音像は汀のすぐ上に移動すると、無数の腕を振り上げて、満身創痍の汀に向けて力の限り振り下ろした。


小白がとっさに反応したのか、風船のような姿に変わってそれを受け止めるが、殴られた勢いに負け、ボコボコと変形しながら汀を巻き込んでまた吹き飛ばされた。

ゴロゴロと小さな女の子と猫がバラバラに地面を転がる。


「お……おかしいわ! こんなの、強すぎる!」


引きつった声をソフィーが発する。

少し沈黙して圭介が押し殺した声で言った。


『ガーディアンと戦闘中なのか? 汀のバイタルが異常値だ』

「相手の姿が見えない! 人間の想像力の限界を超えてる!」

『ガーディアンとはそういうものだ。物理法則が通用しないと言っただろう。野生のスカイフィッシュのようなものだと思え』

「どうやって……きゃあああ!」


そこでソフィーの脇を観音像が走り抜けた。

彼女の体が空気圧に負けて吹き飛ばされ、砂の上を転がる。


見ると、汀はうつ伏せに倒れこんだままピクリとも動いていなかった。

小白が近づいてその頬をペロペロと舐めている。


『汀のバイタルが消えた……ソフィー、早くガーディアンを倒して治療を完了させろ!』


遂に汀の体と精神に限界が訪れたらしかった。

分かっていたことなのだが、ソフィーが青くなって息を飲む。


「私一人じゃ……」


そこで、彼女はゾクリと悪寒を感じて振り返った。

背後の、数十センチも離れていないところに千手観音が浮いていた。


悲鳴を上げたソフィーの頬に、鞭のようにしなった腕の一つが突き刺さる。

そのまま少女は地面に頭から叩きつけられた。

殴られた、そう感じる暇もなく、ソフィーは無我夢中で手を伸ばした。


そして指先に硬い感触が当たったのを感じて、それを掴む。

汀が取り落とした仏像の一つだった。

そこの顔に当たる部分に貼ってあった女性の写真を手で剥がし、血が混じった唾を吐きながら、彼女は叫んだ。


「あなたの奥さんを殺したのはあなた自身……仕事じゃないわ! その罪の意識から逃げ出そうとして、どんなに私達を痛めつけても何も変わらない!」

「…………」


千手観音の動きが止まった。


「奥さんの死因はわからないけど、あなた、死に目に仕事をしてて立ち会えなかったの? そうなのね? だから精神を病んで……こんな不毛な世界になったんだ!」


彼女の糾弾に、千手観音は僅かに後ずさった。

ソフィーは押し殺した声で叫んだ。


「現実を見ましょうよ! あなたの見ている景色は大きくも小さくもなくて、等身大の、あなたの奥さんと同じ景色よ!」


千手観音が身を捩り、口を開いて不気味に絶叫した。

ソフィーは手に持った写真を観音像に向けて投げつけた。


次の瞬間、写真が一瞬真っ白く光り火柱を吹き上げた。

それに巻き込まれて、千手観音が身を捩りながら段々と砂になっていく。

荒く息をついたソフィーの目に、今まで観音像がいた場所に、ビー玉のようなか細い精神中核が浮かんでいるのが見えた。


「……ガーディアンを撃退したわ。精神中核を確認……」

『了解した。すぐに治療班を向かわせる。君達は帰還してくれ』


圭介の淡々とした声を聞いて、ペタリと尻餅をついてソフィーは呟いた。


「治療……班?」

『精神中核の汚染を除去できるチームは用意した。君達の仕事は、ガーディアンの撃退だ。よくやった』


クックと笑って、圭介は付け足した。


『ご苦労様』


そこでソフィーは、ひらひらと先ほど爆裂したはずの女性の写真が舞い落ちてきたのを見た。

それが裏向きに、パサリと砂の上に落ちる。

そこにはエーゲ海の青い海原と、右下に「No,35」という表記が見て取れた。

左上に、ゼロと一の羅列が書いてある。


「夢座標……?」


そう呟いたところで、ソフィーの意識はブラックアウトした。

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