第15話 おやすみ
「B級とA級のマインドスイーパー達がダイブできない状況が続いているわ。あなたたちに『治療』をお願いしたいの」
会議室に集められた少女達がジュリアを見ていた。
理緒は、大事そうに汀の車椅子を持っている。
汀は、どこか暗い瞳でジュリアを睨んでいた。
その膝には小白が丸まって眠っている。
最近、とみに眠っていることが多くなった。
まだ子猫だというのに、あまり活発な動きをすることがない。
大河内は、汀の精神世界の中で長時間過ごしすぎたためだと言っていたが、それも汀の心を暗くしている一つの要因だった。
「何よ……完全なテロ行為じゃない。医療行為の妨害なんて、信じられない……」
その隣の椅子に腰掛けた、ソフィーが口を開いた。
彼女は、左肩から下をギプスで固定して、三角巾で首から吊っている。
汀の精神世界でスカイフィッシュに斬られてから、彼女の左腕は機能しなくなっていた。
「フランスの赤十字は何て言ってるの?」
ソフィーがジュリアにそう問いかけると、彼女は頷いて資料をめくった。
「今は、ソフィーさんの身柄の安全を確保することを最優先に、ということよ。だから、危険なダイブは当然あなたには避けてもらうわ」
「相手は、日本の赤十字のセキュリティを潜り抜けて、精神遠隔操作までしてきて、強制的にダイブしてくるのでしょう? ネットワークを通じてマインドスイープする機構がある以上、その脅威はどんな状態でも避けることは出来ないわ。今、狙われているこの二人をマインドスイープさせることが一番危険だと、私は思うのだけれど」
ソフィーに指差され、汀が眉をひそめる。
ジュリアが少し考えて答えた。
「そうね……でも、こうしている間にも、一般外来の自殺病患者の死亡数は増えていくばかりだわ。一定以上の成果が期待できるマインドスイープを行えるスイーパーは、あなた達しか、現状残っていないの」
「フランス赤十字から、増援の派遣は?」
「世界中に要請しているわ。警察も本格的に動いてる。ここ数日の辛抱だと思うけれど、私達が医者である以上、目の前で苦しんでいる人を助けなければいけない使命は変わらないと思うの。だから、あなた達の意思に任せることにしたわ」
ジュリアがそう言うと、ソフィーは鼻を鳴らして馬鹿にしたように笑った。
「ていのいい言葉ね。結局はダイブを強制したいんじゃない」
「そう受け取るならそれでもいいわ。汀さん、片平さんはどうかしら?」
汀はしばらくジュリアを睨んでいたが、息をついて答えた。
「……私は人を助ける。重篤な患者からダイブしていくわ」
「汀ちゃんが行くなら、私も行く」
理緒が微笑みながら頷く。
ジュリアがそれを聞いて、安心したように息をついた。
しかし汀は、低い声で続けた。
「人体実験をしたいなら、いくらでもすればいい。あなた達の思惑には乗らない」
「……どういうことかしら?」
「とぼけるつもり?」
ジュリアと汀が数秒間睨み合う。
そこで部屋の扉を開けて、大河内が入ってきた。
「重度の患者が、また死亡した。今日助けられる見込みがあるのは、あと三人だ。早くしてくれ」
「二人とも、行きましょう。私達しかダイブできないなら、どの道ダイブしなければ患者は死ぬわ。たとえ中が『戦場』になったとしても、仕方がないことだと思う」
ソフィーがそう言う。
汀はしばらく考えて
「……そうね」
と呟き、表情を暗くした。
◇
「僕らの記憶を共有しよう」
いっくんがそう言った。
私達は、手を繋いで円を作り、その花畑の中に立っていた。
四葉のクローバーが無限に広がるその空間に。
「共有……ってどういうこと?」
みっちゃんが首を傾げる。
いっくんは笑い、そして続けた。
「この先、何かがあって、僕らの中の何かがどう狂うか分からない。だから、僕らは、今のままの僕らでいられるように、忘れない一つの記憶を共有するんだ。そうすれば、離れ離れになっても、また会ったときに思い出せる。お互いのことを」
たーくんが苦笑しながらそれに続けた。
「一貴と話したんだけどさ、俺たちはいつ離れ離れになるか、いつここに集まることが出来なくなるか、分かんないらしいんだ。特に、なぎさちゃんなんてそうだろ?」
問いかけられ、私は頷いた。
「うん……」
みんなと会えなくなる。
この世界が、現実ではなくなる?
そう考えるだけで、私の胸は張り裂けそうだった。
だから、私は乗った。
彼の、悪魔の提案に。
分かってはいた。
分かってはいたはずなのに。
私は、孤独でいるよりも、その「恐怖」を共有する道を選んだ。
みんなを忘れないように。
いつか、きっとまた。
ここで、みんなと遊べますようにと、単純な願いのために。
だから、私は。
笑って、いっくんの手を握った。
「いいよ。同じ夢を見よう」
「私も。いっくん達と同じ夢を見れるなら、悪夢でも構わない」
「俺も、それでいいよ」
みっちゃんとたーくんがそう言う。
いっくんは頷いて、そして目を閉じてから言った。
「僕は今から、みんなの心の中に僕の記憶……僕の悪夢の元を埋め込む。最初はそれに苦しむだろうけど、身を任せるんだ。悪夢に逆らおうと考えずに、悪夢になるんだ。このように」
いっくんの体がざわつく。
髪がひとりでに風になびいたように逆立ち、服が体に巻きついて形を変える。
髪の毛はドクロのマスクに。
病院服は薄汚れたジーンズとシャツに。
思わず後ずさった私達を見回して、いっくんは息をついた。
「そう怯えなくてもいいよ。すぐに見慣れる」
瞬きする間に、いっくんの姿は元に戻っていた。
彼は、私達の手を握りなおすと言った。
「さぁ、僕と同じところに、みんなも早く来るんだ。待ってるから。ずっと」
◇
「高畑汀!」
フルネームで名前を叫ばれ、汀はハッとしてその場を飛びのいた。
今まで汀が立っていた場所に、首狩り鎌のような、巨大な、湾曲した鎌が突き刺さった。
「汀ちゃん!」
理緒が大声を上げて、汀を引き寄せて地面を転がる。
鎌がザリザリと音を立てて地面を抉り、脇に大きく振られたのだった。
二人の頭の上を、鋭く尖った鎌が通り過ぎる。
「え……? え!」
汀は動揺しながら周囲を見回した。
今に至るまでの記憶が全くない。
頭に残っているのは、一貴の声。
そして岬、もう一人……忠信の顔だった。
「思い出した……私……?」
そう呟く。
「ドクタージュリア、高畑汀の意識が戻ったわ!」
「汀ちゃん、来るよ!」
頭を振って無理やり現実に照準を合わせる。
いや、「夢の中」に意識を集中させた。
巨大な鯨が浮かんでいる。
一頭、二頭……三頭。
真っ赤に着色された、気味の悪い空に、ひれを動かしながら浮かんでいる。
あたり一面、人間の首が据えられていた。
十字架を象った墓標の前に、人間の頭部が無造作に置かれている。
そのどれもが舌を出し、目を見開き、無残な様相を呈していた。
全て日本人だ。
汀達は墓地の中にいた。
どこまでも、果てしなくその墓地が続いている。
そして目の前には……奇妙なモノがいる。
鯨人間とでも言うのだろうか。
巨大な鎌を持った、頭部だけが鯨の男が、髭歯をむき出しにして笑っている。
上半身は丸出しで、下半身は血まみれのシーツのようなものでくるまれている。
鯨人間は、手近な人間の頭部を掴むと、口の中に入れた。
バリ、ボリ、と良く分からない液体を飛び散らせながらそれを咀嚼する。
汀の肩にくっついていた小白が、シャーッと声を上げた。
「私、意識を失ってたの?」
慌てて立ち上がり、鯨人間から距離を取る。
理緒が頷いて、近くの人間の頭部を蹴り飛ばして、墓石を手に掴んだ。
墓石が形を変え、出刃包丁に変わる。
「三十秒くらいかな。大丈夫。汀ちゃんはじっとしてて。私があれ、ブッ殺してくる!」
そう言って、ソフィーが制止しようとする間もなく、理緒は鯨人間に踊りかかった。
「片平理緒! どうしたの? 様子がおかしいわ!」
『片平さんは人格欠損を起こしているわ。二人とも、彼女が暴走しているようだったら止めて!』
ジュリアの声が耳元のヘッドセットから聞こえる。
丁度そこで、理緒が包丁で鎌を受け止め、横に吹き飛ばされた。
人間の頭部を巻き込んでゴロゴロと転がりながら、理緒が墓石にしたたかに背中を打ち付ける。
しかし理緒は、それに全く構うことなく、地面を蹴ってすぐに鯨人間に肉薄した。
そして自分に鎌が振り下ろされる直前に、鯨人間の首に、包丁を突き立てる。
どう、と音を立てて鯨人間が倒れた。
「きゃははは! あはははははは!」
狂ったように笑いながら、理緒は何度も、何度も、倒れた鯨人間に包丁を振り下ろした。
やがて包丁を突き立てられているモノが痙攣し、動かなくなったところで、やっと汀は理緒に追いつき、血まみれの彼女を引き剥がした。
「理緒ちゃん、もう死んでる! 死んでるよ!」
荒く息をつきながら、理緒は返り血で真っ赤になった顔で汀を見て、ニコリと笑った。
「汀ちゃんもやろうよ。人殺しって楽しいんだよ」
「酷い……赤十字に何をされたの?」
ソフィーが、動かない左腕を庇うようにして走って来て口を開いた。
問いかけられ、汀は目を伏せた。
ソフィーが舌打ちをして、汀の胸倉を、右腕で掴み上げる。
「……何とか言いなさいよ! こんなの片平理緒じゃないわ!」
「汀ちゃんに何してるの?」
そこで、ゾッとするような低い声で、理緒が呟いた。
彼女は焦点の合わない目でソフィーを見ると、立ち上がって包丁をゆらゆらと振った。
「汀ちゃんに何してるの?」
もう一度問いかけられ、ソフィーは汀から手を離して、理緒に言った。
「……あなたはダイブできる状態じゃない。ドクタージュリア。すぐに片平理緒の接続を切ることをオススメするわ」
『そこは異常変質心理壁の中よ。すぐには切れないわ!』
「理緒ちゃん、落ち着いて」
汀は慌てて、ソフィーを守るように立った。
そして理緒の肩を掴んで、力を込める。
「落ち着いて。この子は敵じゃないわ。私を守ってくれたんでしょう? ありがとう。だから、少し落ち着こう、ね?」
「私は落ち着いてるよ」
「落ち着いてないから言ってるの。包丁を手から離して」
「分かった」
ガラン、と音を立てて包丁が手から離れ、地面を転がる。
息をついた汀とソフィーの目に、しかし二人が反応できるよりも早く、鯨人間の持っていた鎌を掴み上げた理緒の姿が映った。
身を守ることも出来ずに、ただ呆然とその鎌が振られるのを見送る。
奇妙な手ごたえと共に、断末魔の声が上がった。
ソフィーの後ろに立っていた、先ほどの鯨人間と全く同じ形のトラウマが、袈裟切りに両断されて地面にドチャリと着地した。
周りを見回した二人の目に、十……二十体近くの鯨人間がこちらに、鎌を持って近づいてくるのが映る。
「トラウマに囲まれてる……」
ソフィーが歯噛みする。
顔についた鯨人間の血を手で拭いながら、汀は理緒の落とした包丁を拾い上げて、腰のバンドに刺した。
そして口を開く。
「理緒ちゃん、無駄に殺してもキリがない。少し待って。ソフィー、中枢への扉を持ってるトラウマを特定できる?」
名前を呼ばれ、ソフィーは頷いた。
「挙動がおかしいトラウマがいる。左後方の、三十メートル先の鯨」
丁度それが、足元の人間の首を口に入れて噛み砕いたところだった。
「おかしいってどこが?」
「他のものは規則的に動いてるのに、あれの動きは不規則だわ」
「聞いた? 理緒ちゃん、殺すならアレにして」
「うん。汀ちゃんがそう言うならそうするよ」
理緒は微笑んで、鎌を構えて、こちらに向かって踊りかかってきた鯨人間達を見回した。
「ま、どの道皆殺しにしそうだけど」
楽しそうにそう、彼女が言った時だった。
凄まじい爆音、そして熱風が彼女達を襲った。
とっさに小白が化け猫の形に膨らみ、汀達を覆い隠す。
蛇のように、飛び掛ってきた炎は周囲を舐めると、瞬く間に墓地を火の海にした。
鯨人間達が苦しそうに咆哮を上げ、火に飲まれていく。
『外部からのハッキングよ! 回線を緊急遮断するわ。遮断まで残り二分!』
ジュリアの声が聞こえる。
「いつもいつも対応が遅い!」
汀が、ところどころ焦げた小白の皮の下から這い出て、怒鳴る。
ソフィーが歯を噛んでから言った。
「それは違うわ、高畑汀。ドクタージュリア達は、私達とテロリストを交戦させたいのよ。そんなことも分からない?」
言われてから、汀は言葉を飲み込んで歯軋りした。
「……どこまでも最低な奴らね……!」
『…………』
ジュリアが押し黙る。
そして、しばらくして彼女は、ノイズ交じりの音声と共に言った。
『ハッキング対象は、一人のようよ。三人で協力して撃退して頂戴。患者の命を第一優先に』
「詭弁を」
ソフィーが鼻で笑う。
「日本赤十字は患者の脳をバトルフィールドに使う集団ね! 医者ってみんなそう!」
「その通りだよお嬢さん。赤十字病院のそれが本来の姿さ」
そこで、落ち着いた声が周囲に響いた。
熱気から汀達を守るようにしていた理緒が立ち上がり、首を傾げる。
「あれ……? 工藤さんじゃない」
彼女の呟きに、マイクの向こう側が緊張するのが分かる。
ソフィーが特定した鯨人間……既に事切れているその死体をズルズルと引きずりながら、背の高い猫背の少年が、墓地の向こうの火を掻き分けて、姿を現した。
ぼさぼさの白髪をしている。
目は鷲のように尖っていて、眼光が異様に鋭い。
口元はだらしなく開いていて、ガムでも噛んでいるのか、クチャクチャと音を立てていた。
右手にはバタフライナイフを持っていて、カチャン、カチャン、と音を立てながら、刃を出したり引っ込めたりを繰り返している。
「やあなぎさちゃん。殺しに来たよ」
どこか狂気を感じさせる、ゆったりとした口調でそう言うと、彼はドサッ、と鯨人間の死体を放り投げた。
「あなたは……忠信君……たーくん……?」
汀が呟く。
忠信と呼ばれた少年が、にっこりと微笑む。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。
◇
チク、タク、チク、タク、と鳴る、巨大な古時計が空中に浮かんでいる、四方が白い空間に四人は立っていた。
人一人分くらいの大きな時計だ。
広さは正方形に十メートルほど。
汀は、目が開くと同時に、腰にさしていた理緒が変質させた包丁を抜き放って、振り下ろされたバタフライナイフを受け止めた。
耳鳴りのような音がして、汀と忠信が互いに反対方向の壁に向かって吹き飛ばされる。
汀は、体を反転させて壁に「着地」し、軽く蹴って床に下りた。
忠信は壁を蹴り、何度か床を転がってからゆらりと立ち上がった。
長い髪の奥で、鷲のような目を鈍く光らせながら、彼はバタフライナイフを何度か開閉させた。
「最初は何がいいかな。そうだ、服を剥ごう」
ブツブツと、小さい声で忠信は呟き始めた。
「下着だけにするのがいいな。うん、それでいこう。女が服を着てるのには虫唾が走る」
「たーくん……? たーくんよね? どうしたの? 私……私だよ」
自信がなさそうにそう言って、汀は、口をつぐんだ後、続けた。
「私、なぎさだよ! どうしてあなた達は、私を攻撃してくるの!」
「うん、君がなぎさちゃんだって言うことは知ってる。そんなのは周知の事実だ。俺が今考えているのは、君の服をどう剥ぐかということと」
バタフライナイフを回転させ、指先で回してから、
彼はそれを掴み、刃先を理緒とソフィーに向けた。
「他の二匹をどうしようかなということだ」
「気をつけて、高畑汀。あのテロリスト、精神崩壊を起こしてる挙動があるわ」
「……分かった」
ソフィーが押し殺した声で言う。汀は頷いて、そして眉をひそめて前に進み出た理緒を見た。
「理緒ちゃん下がって。相手が悪いわ」
「汀ちゃんは前に出ることはないよ。私が全部やるから」
「相手が悪いわ。おそらくS級のスイーパーよ」
理緒が服を破り取る。その一片が形を変え、出刃包丁に変質した。
『……二人とも、片平さんを止めて!』
マイクの向こうでジュリアが声を荒げる。
しかし制止を聞かずに、理緒は駆け出すと、無造作に忠信に肉薄した。
そして包丁を突き出し……体をひねって避けた忠信に、躊躇なく胸にバタフライナイフを叩き込まれた。
「か……」
目を見開いて体を硬直させた理緒を面白そうに見て、口の端をゆがめた忠信は、二度、三度と彼女の胸にナイフを突き刺した。
そのたびに理緒の体が痙攣する。
ゴボッ、と理緒が血の塊を吐き出した。
「理緒ちゃん!」
汀が走り出す。
忠信は理緒を片手で、汀に向かって投げ捨てた。
弾丸のように飛んできた理緒を真っ向から受け止め、汀は背中から床に叩きつけられ、反対側の壁に勢いよく頭をぶつけた。
小さくうめいて体を丸めた汀の手の中で、理緒はガクガクと震えながら立ち上がろうとし、しかし鼻と口から血を噴き出して、その場に崩れ落ちた。
徐々に彼女の目の光がなくなっていく。
「どいて!」
ソフィーがそこで怒鳴って、理緒を汀から引き剥がした。
そして自分の病院服を破りとり、理緒の胸の傷口を手で抑えて、止血を始める。
「ドクタージュリア! 片平理緒がやられたわ! 彼女の意識が消える前に、回線を緊急遮断して!」
『…………』
「ドクタージュリア!」
ジュリアの返事がないことに、ソフィーが悲鳴のような声を上げる。
考える間もなく、忠信が腕を振った。
その瞬間、彼の腕がまるで鞭のように伸びた。
ゴムの玩具のように、腕が伸び、七、八メートルは離れている汀に向かってバタフライナイフを掴んだ手が飛んでくる。
汀は包丁でそれを受けて、忠信の体に向けて走り出した。
「左肩だ」
忠信がそう言って、伸びた腕を振る。
それがしなり、汀の後ろから、彼女の左肩にナイフが突き刺さった。
うめき声を上げて、もんどりうって床を転がった彼女の目に、シュルシュルと音を立てて戻っていく忠信の手が見える。
「……自分の体を変質させてるの……?」
ソフィーが呆然と呟く。
ボコリ、と忠信の体が風船のように膨らんだ。
病院服の背中が割れ、中から肉を裂き、無数の「腕」が姿を現す。
まるで、さかさまになった蜘蛛のような姿だった。
そのおぞましさにソフィーが硬直する。
まるで千手観音のように、合計十六本の腕を背中から生やした忠信は、それら全てにバタフライナイフを持ち、一斉にシャコン、と刃を出した。
そこで、か細く息をしていた理緒の体が、まるで蜃気楼のように、フッと残像を残して消えた。
彼女だけ、夢の世界から、強制的に回線が遮断されたのだった。
「私達には、あの化け物を撃退しろってこと……?」
ソフィーがマイクに向かって悲鳴を上げる。
ノイズ交じりのマイクの向こうから、ジュリアの声がした。
『残り一分三十秒で回線を遮断するわ。それまでもたせて』
「ふざけないで! 早く切りなさい! 人命救助保護法に違反してる!」
『…………』
「ドクタージュリア!」
ブツッ、と音がして、通信回線が切れた。
ソフィーが呆然としてヘッドセットを取り落とす。
忠信が奇妙な笑い声をあげて、背中の腕を大きく振った。
全てが先ほどのように伸び、しなり、鞭のように汀に斬りかかった。
雨あられのように、四方八方から襲い掛かるバタフライナイフにどうすることも出来ずに、汀は体のいたるところを突き刺され、一瞬で血まみれになった。
しかし、自分の顔面を狙ってきた一本の腕、その手首を正確に掴んで止めると、力の限りそれを引っ張った。
忠信の体が宙に浮き、人一人が重機に引っ張られたかのような衝撃で汀に向かって引き寄せられた。
汀は拳を固め、こちらに向かって飛んでくる忠信の顔面に向かって、それを突き出した。
奇妙な音がした。
汀の手首からと、忠信の首からだった。
衝突の勢いが強すぎたのだ。
吹き飛ばされ、向こう側の壁に激突し、ずるずると床に崩れ落ちた忠信を目にし、汀は手首を押さえてうずくまった。
右腕が、おかしな方向に曲がっていた。
忠信がそこで、甲高い声で笑いながら立ち上がった。
伸びていた腕がすべて元にもどり、背中でわさわさと動く。
「やっぱりなぎさちゃんだ! そういうところ好きだなぁ! ひゃはは!」
曲がっていた首を自分の手で掴んで、不気味な音と共に元の位置に戻す。
しばらく首を回して感触を確かめると、忠信は汀に言った。
「やっぱり下着は駄目だ! 全裸に剥こう! そのほうが君にはお似合いだよ!」
「……あなたを『治療』するわ」
汀はそう言って、右腕をダラリと垂らしたまま、立ち上がった。
そして、残った左腕で包丁を構える。
「治療? 僕を? どうして?」
「あなたが患者で、私が医者だからよ」
汀はそう言って、地面を蹴った。
その姿が掻き消え、一瞬で忠信に肉薄する。
知覚することも難しいほどの速度で動いたのだった。
「おやすみ、たーくん……」
寂しそうに汀は呟いた。
包丁は、正確に忠信の心臓を貫いていた。
「あ……?」
忠信は呆然としてそれを見つめ、やがて鼻と口の端から、おびただしい量の血を流し始めた。
「何だよ……? 何してんだよ……」
そう呟いた忠信の背中の腕が動き、汀の体がバタフライナイフでめった刺しにされる。
衝撃で汀の小さい体が後ろに弾かれ、彼女は床にナメクジのように血の跡を光らせながら、転がった。
ソフィーが慌てて汀に駆け寄り、彼女を抱き起こす。
忠信の背中の腕がゆっくりと消えていき、彼は胸に突き刺さった包丁を抜こうと必死になっていた。
「くそ……抜けねぇ……何だこれ! 抜けねぇ!」
怒号と共に吐き出された血が飛び散る。
汀は荒く息をつきながら立ち上がろうとして崩れ落ち、ソフィーに支えられながら口を開いた。
「……あなたの精神中核を……もらっていくわ……」
「俺に何をした!」
「その包丁にウィルスを仕込ませてもらったわ。精神中核に到達してる。もう抜けない」
「くそっ! 勝ったつもりか!」
忠信が包丁を抜くのを諦め、バタフライナイフを振って汀に向かって走り出した。
そこで、彼女の肩に乗っていた小白が膨れ上がり、化け猫の姿になった。
「小白、やっていいよ」
化け猫が腕を振り上げる。
それを呆然と見上げた忠信の頭に、巨大な腕が振り下ろされる。
奇妙な声を上げて、まるで蟲のように人間一人が叩き潰される。
すぐに元の姿に戻った小白の頭を撫で、汀は地面を這って忠信だったモノに近づいた。
そして、包丁を抜き取る。
そこには、まだ脈動している心臓が突き刺さっていた。
「テロリストの精神中核を捕縛。理緒ちゃんが行動不能のため、患者の治療を中断……目を覚ますよ……」
汀がそう言って、血を吐き出して崩れ落ちる。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。
◇
「忠信を緊急搬送! 絶対に死なせるな!」
結城が怒鳴っている。
あたりには、忠信が吐き散らした血液が散らばっていた。
怯えた顔で、岬は一貴にしがみついて、辺りをバタバタと騒がしく移動している沢山の病院関係者達を見ていた。
一貴が、ベッドに横になりながら、手を伸ばして岬を引き寄せる。
「大丈夫だよみっちゃん。なぎさちゃんは、忠信を殺したりしない」
「たーくん……やられたの……?」
「だから僕はとめてたんだ。なぎさちゃんには、忠信じゃ勝てない。スカイフィッシュの悪夢に取り込まれた人間じゃ、勝てないんだ」
一貴は軽く咳をすると、呼吸器をつけられ、担架で搬送されていく忠信を見た。
忠信の手からバタフライナイフが落ちて、床に転がる。
意識はない様子だった。
「たーくん……一体どうしちゃったの……」
恐る恐る岬がそう聞く。
「悪夢に負けたんだ。精神が壊れかけてた。このままじゃ、どのみち現実の世界でも犯罪者になるところだ。僕も……人のことは言えないけど」
自分の手を見つめ、一貴は点滴をむしりとった。
そして岬に支えられながら、ベッドから起き上がる。
「なぎさちゃんに会って、忠信の精神中核を取り戻さなきゃいけない」
それを聞いて、結城が素っ頓狂な声を上げた。
「精神中核を抜き取られた……? そんな芸当が、ナンバーⅣに可能なのか?」
「基本的に、僕にできることはなぎさちゃんにも、みっちゃんにも、忠信にもできる。そう考えた方がいいね。早くしないと、忠信の精神中核から情報を抜き取られるよ」
「チィ!」
舌打ちをして、結城は足早に忠信を追おうとして、近づいてきた人影に、足を止めた。
それは、どこか暗い顔をした、タバコを吸っている男だった。
「あんたは……」
言いよどんだ結城に、タバコの男は煙を吐き出して、壁に寄りかかりながら口を開いた。
「……貴重なサンプルを駄目にするとは。君の管理責任を、一度問いた方がいいな……」
「サンプル……?」
岬が顔を青くして、一貴の横に隠れる。
それを面白そうに見てクスリと笑い、男は一貴に目をやった。
「久しぶりだな、ナンバーX」
「久しぶりですね、教授。いや、今はGDと呼んだ方がいいでしょうか?」
どこか皮肉気にそう言った一貴に、軽く笑いかけてから、男は続けた。
「私は、今はただの『喫煙者』だよ。そう呼んでくれればいい」
「何の用ですか? 今、大事なところなんですが」
結城が喫煙者に低い声で言う。
彼はタバコをふかしてから、それに答えた。
「赤十字が、ナンバーⅠの使用を解禁しようとしている」
「何……だって……?」
それを聞いて、一瞬意味が理解できなかったのか、結城が目を白黒とさせる。
一貴は深くため息をついて、ベッドに腰を下ろした。
「そうなれば、君達はお仕舞いだ。理想とやらも実現できずに、このテロも幕を閉じる」
「全力で阻止する必要がありますね。あなたはどうお考えですか?」
一貴がそう言うと、彼は頷いてから手に持っていた資料を放った。
それが床に落ちる。
結城が拾い上げて、そこに載っていた写真を見た。
「こいつは……」
「高畑圭介。本名、中萱榊……元老院お抱えの、医者ということになっている」
「何度か交戦しましたよ」
一貴が写真を横目で見て言う。
頷いて、喫煙者は続けた。
「彼の力は強力だ。単体でS級スカイフィッシュを撃退する程の能力を持っている。出来うることなら、目の届かない場所で遂行したい。ゆえに、赤十字中枢へのダイブを行い、即急にナンバーIの起動を阻止する」
「それが機関の選択ですか」
結城が苦い顔でそう言うと、彼は笑ってタバコをふかした。
「何のために君達を遊ばせていたと思うんだ。今、この時を利用しなければ、何の意味もない」
「……わかりました。やりましょう」
一貴がそう言うと、岬が青くなって彼の袖を引いた。
「いっくん駄目……駄目だよ。死んじゃうよ……」
「大丈夫。僕は死なない。絶対に。死なない」
自分に言い聞かせるようにそう言って、一貴は喫煙者を見た。
「僕がやります」
決意を含んだ声は、しかしどこかかすれていて、力が含まれていなかった。
喫煙者はそれを聞いて、ニヤリと微笑んでみせた。