Nothingness
クマノの「あの経験」以来、僕はすっかり別人になりはてた。
ナニをするにも億劫だし、ナニ事にも意欲がわかず、ナニもする気がしない。
誰とも会いたいと思わないし、ナニをしても楽しくない。
報告書は書きたくない。思い出したくもないからだ。戦場で見た生首がフラッシュバックするばかりで、仕事が進まない。
とにかく、ただ、呆然としている。
それまでとは、世界がまるで違って見える。アート、スポーツ、音楽、生きる意味とか、愛情とか友情。目にするヒトやモノ、大切だとされるモノゴトの持つ意味がことごとくリセットされ、そこから生じるはずの刺激を感じなくなってしまっている。あげくには、自分自身の存在さえ、注意しないと意識にのぼらない。
ただ、すべてがリセットされて無になった。
あらゆるものが悉く意味を喪失し、背景と化した。
価値感が崩壊し、意味の認識が異次元にむけパラダイム・シフトした。
あの日、あの経験以来……
尊厳あるヒト・誰かにとって大切な存在・人権が尊重され手厚い社会保障で守られた国民・自分の人生の主人公・個としての特別な存在・主権者として選挙権を行使する主人公……。
それがただの肉片になった。炭になった。
無慈悲に、一方的に、さしたる意味もなく。
こんな感覚はいつからだろう? ことによると、いまの状況の芽は以前からあったのかもしれない。例の、オイハギの老人を射殺した件から。あのときは気づかなかっただけで、「イマ」はあそこを基点として生まれた可能性がある。それぐらい、今までとの断絶を感じない。シームレスに時間のつながりを感じる。
これまで自分が思ってきたことはすべて、思い過ごし。ただの思い込みに過ぎなかった。目の前の物体はただ存在するだけで、それ自体に意味はない。それぞれ個人が勝手に妄想をなすりつけているだけだ。音楽なんてただの物体の振動の周波にすぎないし、絵画は顔料の羅列。生きる目的とか友情や愛情は人間の脳が作り出した妄想だし、国家や法律や道徳だって実体なんかない、人間の脳が生み出した影みたいなものだ。その証拠に、あったりなかったり、人によって違ったり、時代によって変化する。
真実は「生きるか死ぬか」。現実はむき出しの暴力。強い者が支配する世界で生きる自分。利用されるだけの無力な大衆。
圧倒的な力の前では、人間の営みなどウツロでそらぞらしい。アートや音楽やエンターテイメント、そんなものはすべからく、所詮はうわついたタワゴトにすぎない。
社会の秩序を維持するための道徳や法律、政治でさえ無意味だ。そんなものは一夜にして葬り去ることができる。たかだか1~2万ドル程度だせば買える、たんなる有機化合物の寄せ集めにすぎない爆弾さえあれば。国家権力だって軍隊で乗っ取ることができる。
すべてのものは無意味であり、たわごとに過ぎない。
そうであれば、そんなものにかかずりあっているなんて無駄だ。
どうでもいい他人を気遣ったり話をあわせたり、それが無意味なら、ただ面倒くさいだけで、会ったところでしかたない。会いたくない。
ウツロでそらぞらしい音楽やスポーツを観たり聴いたりするのだって、時間の無駄にすぎないのだったら、する意味がない。
あの日のあの経験を経た自分にとっては当たり前の、そういう素朴な感情の変化は自然なことだし、病んでいるとは思えない。自分自身が病んでいるという感覚も当然ない。メシはうまいし、酒だって楽しめる。むしろ食事だけが生きがいと言っていい。自分が興味をもてる範囲のものには、今までどおりの執着をもてる。気さえむけば、何だって楽しめる。感覚はとぎすまされ、意識だけはギラギラしていて、周囲の動きに敏感になっている。
自分にとっては単なる変化にすぎないものが、周囲にとっては異変に映るようだ。
日頃あいさつを交わす人々はみな、僕の様子をうかがうような目をする。スナは何か言いたげだが、あえて何も言わないようにしているようだ。カン少尉はうるさがられないよう、そ知らぬ顔をする。アシスタントのパク君だけは他人の気持ちを察する天才のようで、実に心地よく接してくれる。離れすぎず近づきすぎず、絶妙の間合いを維持できるのだ。彼のそういう鋭敏な感覚は、彼の性的志向をもたらしている特性と、同じ部分から派生してきているように思える。どっちも彼のしなやかさと連続しているように感じられるからだ。
モニターごしに僕を監視しているAIは、しつこいぐらいに警告表示をお見舞する。
「フォン……メンタル・コンディションに不調があるようです。ただちに休息をとって専門家のアドバイスを受けてください」
あるいは、すがすがしい音楽とともに、こんなナレーションも。
「急性ストレス障害、戦争PTSDを知っていますか? アフガンとイラクでの戦闘による死者は7057人。しかし自殺者は3万人規模にのぼります。帰還兵の3割以上がPTSD……」
そういうウインドウをたたんで何度となくやりすごすと、こんどは陸軍病院から美人の軍医が飛んでくる。カウンセリング・ルームに連れて行かれて、型どおりの質問をされるハメになるのだ。
で、「メシはうまいし酒だって楽しい」と返事をすると、こう言う。
「もし何か困りごとがあったら、いつでも連絡をくださいね」
「おまえも見たのか? あれを」
そう言ったのは、キム部長だ。
ある日、コーヒーでも飲もうと将校クラブを訪ねると、キム部長がバーカウンターにもたれかかってコーラか何かを飲んでいるのを見かけた。キム部長クラスになると、部下に気を使ってそういう場には顔を出さないものだから、これはかなりめずらしい光景だった。
キム部長は僕に気が付くと、笑みを浮かべて手招きした。将校クラブでは敬礼はご法度だけど、なれなれしくもできない。何だか妙な気分で隣に腰掛けた。
部長は何も言わなかった。ただ、隣でコーラを楽しんでいた。僕がコーヒーを注文して仕上がりを待っていると、くだんのセリフを吐いた。
「おまえも見たのか? あれを」
一瞬、部長の意図を把握できずに戸惑った。
「……あれと申しますと?」
「クマノで見ただろう? おびただしい焼死体を」
「ああ、ハイ……」
部長は僕の言葉のつづきを待っているみたいだったが、僕は何も言えなかった。ただ、静かな時間が流れた。
バーテンダーが給仕したコーヒーを僕がすするのを見ながら、部長は静かに言った。
「どうだ? やっていけそうか?」
ここで部長の真意がようやくわかった。
「どうってことありません、大佐どの。お気遣い感謝いたします」
部長は僕の様子をみて、安心したようだ。
「感覚を遮断するんだ。日常と戦争を分けろ。別人格をもて。ゲームの世界だと思えばいい、うそでもいいから。でないとダメになるぞ。それがイヤなら自分にウソをつけ」
「おっしゃりたいことはわかる気がします、大佐どの」
キム部長はカウンターの椅子に腰掛けた。
「オレが駆け出しのころの話だ。PKFでアフリカに派遣された。それがおれの初陣だった。ある日、所属部隊がゲリラの砲撃を受けたとき、おれは頭から何かをかぶった。てっきり自分がバラバラにされたと思ったよ。だがよく見れば、それは隣に倒れていた戦友のハラワタだった。耳は聞こえないし、ホコリやら煙やらで何も見えない。おれは混乱して、ただワメキちらしていたらしい」
部長は過去の自分を鼻で笑った。
「壮絶ですね」
「ああ。おれは完全にイカレてしまった。なにしろ、戦友はおれの親友でもあったからな。立ち直るのにはかなり苦労した」
「お気の毒です」
「もうダメだと思ったよ。今でも戦友の死に顔が脳裏をよぎる瞬間がある。けど、オレを立ち直らせてくれたのは、当時つきあっていた妻の存在だった。そして何より、親友のぶんまで生きてがんばろうと思えたことで救われた。以前の自分にもどれたかどうかは疑問だがな」
僕はただ、黙って聞いていた。
部長はしばらく床を見つめて黙っていたが、ポン、と僕の膝をたたくと去っていった。
地下ダイニング・ホールでランチをしていたある日、隣に誰かが座った。
「ひとりぼっちでランチ?」
スナの声がした。彼女はカップのポタージュ・スープをすすると、こう続けた。
「それで……調子はどう?」
彼女がいままで、僕を遠巻きにして見ていたのは気づいていた。少しずつ距離を縮めてきたのもわかっていた。けれど、長々としたプロセスをへて以前にもどるのが億劫でならなかった。
「どうってことない。ただ、独りでいたいだけなんだ」
「ふーん」
彼女はそういうとスパゲッティをほおばった。何か聞きたそうだけど、タイミングを見計らっているようだ。
「おれは健康だよ。心配することはないさ。軍医だって別にどうこう言わなかったし。君だって独りになりたいときはあるだろう?」
「まあね。けど、あいにく心配なんかしてないわ」
彼女は内心を悟られたくないようだ。
「別に君が嫌いってわけでもないし、うっとおしいわけでもない。遠ざけてるわけじゃないよ」
「別に、あなたに遠ざけられたってかまわないわ」
つきはなすような物言いをする彼女。
「君はいまでも大切な友達だしね」
この言葉には彼女も反応し、目をキラキラさせた。ただ、その言葉が欲しかったわけでもなさそうだった。もの足りなかったのかもしれない。
「私は必要とされてないみたい。何かあったとき、手をさしのべるのが友達ってもんでしょう?」
ああ、そういうことか。なんかメンドくさい。
「何かあったら頼むよ。ところで君は仏教を知っているか?」
「何よ、藪から棒に……仏教って」
「空、って概念を聞いたことはない?」
「ああ、なくはないけど、どうして?」
「オレは今、ただただ空なんだよ」
きょとんとするスナを残し、僕はホールを去って行った。
何もする気がしない夜だった。
音楽を聴くことさえわずらわしく、再生してみたところで入り込めもしない。映画なんてもってのほか。部屋を真っ暗にして、ただ目を閉じていた。
こう言うと、なんだかヘコんでいるみたいに聞こえるけれど、雑念をはらって瞑想したい気分だっただけ。外で振り出した雨と風の音が心地よかったから。
と、そこへパソコンの着信音が響いた。電源をオフにするのを忘れていたらしい。
どうせcrescent814からだろう。彼女のほかに、僕のプライベートな時間を邪魔するやつはいない。
「やっほ。ひさしぶり」
自分のテンションとのあまりのギャップに、唖然とした。
「ずいぶん陽気だね」
「なによ、皮肉のつもり?」
「何かいいことでもあったの?」
「へへ、さあね。それで、戦地はどうだったの? 生きて帰れたみたいだけど」
「どうもこうもないよ。ひどいもんだ。思い出したくもないね」
「……よほど大変だったのね」
crescent814は僕を気遣って、声のトーンを落とした
「意味もなく人が死んでいくのに、うんざりだ」
「……そう」
「君は人が焼ける臭いをかいだ事があるかい?」
「……まあ、ひどい」
「人の体がバラバラになるのを見たことがあるかい?」
「……」
「まあ、そういうことだよ」
「……わたし、お呼びじゃなかったみたい」
「気にしないで。君には関係ないことだ」
「あなた、ゆっくり休んだほうがいいわ」
「もう休んだよ。リラックスする時間はあったし」
「そう、ならいいけど……」
「それにしても奴ら、命がけで戦っているというのに、大義に殉じるとか、ヤマト民族の誇りとか、そういう感じじゃなかった。どうしても解せないんだよ、そこが」
「へえ、それは私も意外ね。じゃ、いったい、あれは何だったんだろう?」
「まあ、それを調べるのが僕たちの仕事、おいおいわかるよ」
「私も知りたいわ、結果は公表されるのかしら」
「たぶん、そのうち暴露されるはずだ。占領政策の一環としてね」
他人とはかかわりたくない気分のはずが、空いた時間に気ままに話せるチャットは不思議と苦にならなかった。
「それで……また人を殺すはめになったの?」
crescent814が会話を続けようとした。
「いや、精鋭部隊の連中と一緒だったから、出る幕はなかった。でも、軍隊にいるんだから僕だけ無関係というわけにもいかないよ。作戦に参加していた身だし」
「ま、そうね。気の毒に」
「君の同胞を殺したんだから、気遣ってもらうのもどうかね」
「そうね、私も感覚がおかしくなってきている。みなそうじゃないかしら。戦争に負けてホッとしているし、自分たちの政府や軍に反発を感じているし。無謀なゲリラへの反感は日増しに強まっている。占領軍への期待は強いわ。とにかく生活の安定が欲しいから。皮肉な話ね、手のひらを返したみたいに」
「とにかく、ゲリラが制圧されないと占領は終わらないのは確かだね」
「いつになったら平和になるのかしら。目処はついてるの?」
「見当もつかないね。ただ、そう長くはかからないはずだ。やつら補給を遮断されてるから、ほっといたって物資がなくなって戦闘継続は不可能になる。軍から勝手に持ち出した装備品には限りがあるし、ある程度、調達能力は推測ができている。時間の問題だ」
「あの人達、一刻も早く国を復興させないと大変なことになるのが、わかってないのかしら? がんばればがんばるほど復興が遅れるのに。子供達やお年寄りがかわいそう」
「抵抗による犠牲より、復興が遅れることの損失が深刻だね。彼らゲリラの世界観からすれば、外国人を追い出して日本を取り戻すことが最重要課題なんだろうけど、それが国を混乱させてるだけなのがわかってない。彼らにとっては避けられない犠牲にすぎないんだよ」
「どんな立場に立つがで、とんでもない結論に行き着くのね。恐いわ」
「敵国に助けてもらう奴は、君を含めて、ただの売国奴だし」
「そうか。人間って、どうしようもないのね」
「やつらにとっちゃ、君は君でオオバカ者だから、水掛け論になる。かみ合わないよ」
「分断社会、ってやつね。なんだか、力が抜けちゃう」
それから彼女は近況報告をはじめたが、まじめに話を聞いてはいなかった。性欲というわけでもないけれど、なにかムラムラと沸き起こる衝動的なものを感じて、それを彼女にぶつけてみたくなっていた。ひんむいて裸にして、その中に、わきおこるものをぶちまけてやろう、そういう暴力的な衝動が沸き起こっていた。
それまでのcrescent814という存在は現実味のない、バーチャルな2次元の存在で、実体のない妖精みたいなものだった。けれど、なぜかしら、まさにそのとき生身の体をもつ存在としての意識がわき起こった。いままで暴力とか死にとらわれていたのに、それとは間逆の快楽と生殖の衝動がわきおこった。無気力で何もする気がしないと思っていたのに、それとは正反対の衝動に突き動かされている。彼女なら、喜んでそれ受け入れてくれそうな気がした。
あれ? すべては空ではなかったのか?
空だからこそ、刹那的な衝動がわきおこるのか?
いつ、どこで、どんな風に彼女をモノにしてやろうか?
なに事につけ、面倒くさいのはどこへいった?
そんなことを考えていると、crescent814の話が止まった。
「ねえ、聞いてるの? 退屈してる?」
僕はあわてて釈明しなければならなかった。
「ごめんごめん、ちゃんと聞いていたよ」
スナといいcrescent814といい、どっちもイイ女に違いないし官能的だし、心のつながりもある。だけど、スナは性欲の対象にはならない反面、crescent814には食指が動くみたいだ。どっちを大切に思っているとか、好みだとか、そういうのとは違う次元の話だけど、本能的な欲求なのか、打算的な選択なのかはわからない。
女盛りのcrescent814は、フェロモンでも出しているのだろうか?
バーチャルな存在だからそれはないか
束縛的ではないcrescent814は気楽だからだろうか?
大脳と小脳、理性と本能がせめぎあっていた。